講義テーマ:藤原広嗣の乱と藤原仲麻呂の乱
講師:若井 敏明先生
11月16日(月)13時~15時
①天平9年の疫病の影響
「続日本紀」に4月~6月の疫病の影響について記述されている。
天平8年の議政官
右大臣 藤原武智麻呂
中納言 多治比県守
参議 藤原房前 藤原宇合 藤原麻呂 鈴鹿王 橘諸兄 大伴道足
天平9年の議政官
知太政官事 鈴鹿王
大納言 橘諸兄(翌年正月右大臣に)
中納言 多治比広成
参議 大伴道足 藤原豊成
②藤原広嗣の乱
藤原広嗣(宇合の子)
天平10年(739)、太宰少弐に転出。
天平12年8月29日、玄昉と吉備真備を朝廷から除くことを主張した上表文を提出。
これが国を転覆させようと企んでいるとして、
天平12年9月3日、朝廷は大野東人を大将軍として兵を派遣。
天平12年10月に逮捕され11月初めに処刑された。
③藤原仲麻呂の台頭
藤原仲麻呂(武智麻呂の次男 706~764)
天平11年(739)従五位上、12年 正五位上、13年 従四位下・民部卿、15年 従四位上
天平18年 式部卿、従三位、20年 正三位に昇進
天平勝宝元年(749)聖武天皇の譲位と孝徳天皇の即位とともに大納言、中衛大将となり、翌年に従二位に昇進
光明皇太后を背景にした権力掌握
孝謙天皇の信頼
橘奈良麻呂の変
橘諸兄の子の橘奈良麻呂が大伴古麻呂らとともに、仲麻呂を殺害して天武天皇の孫にあたる安宿王・道祖王や黄文王を
擁立する反乱を企てる。
変は露見して、反仲麻呂派の一斉検挙と粛清の実施。大伴古麻呂、道祖王も逮捕され拷問死。
仲麻呂の兄 右大臣・豊成も左遷→藤原仲麻呂の独裁体制の確立
④孝謙太上天皇と道鏡
光明皇太后の死去と道鏡の登場
道鏡が病を患った孝謙上皇の傍に侍して看病。以来、その寵を受ける。
淳仁天皇が孝謙上皇と道鏡との関係について諫言したことを契機にして両者の関係は悪化。
天平宝字6年5月
孝謙上皇、保良宮から帰還して法華寺に、淳仁天皇は平城宮中宮院に入る。
⑤藤原仲麻呂(恵美押勝)のクーデター計画
道鏡が常に宮中にはべって孝謙天皇)に特別寵愛されるようになった。押勝はこれを妬んで、心が安らかでなかった。
仲麻呂の上皇への諫言内容
「道鏡が昼夜朝廷を護り仕える様子を見ていると、道鏡の先祖が大臣として地位と名を受け継ごうと思っている野心のある人物である」といって、「退けられますように」と奏上したけれども、道鏡を大臣禅師に任命された。「続日本紀」天平宝8年9月
⑥藤原仲麻呂の乱
9月11日
度重なる密告通知をうけた孝謙上皇は少納言山村王を淳仁天皇のいる中宮院(内裏)に派遣して、鈴印を回収(淳仁天皇もこの時に中宮院内に幽閉されたか)。その夜、仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出。
9月12日
淳仁を連れ出せなかった仲麻呂は中納言氷上塩焼(新田部親王の子)を同行して「今帝」と称して天皇に擁立し、自分の子息たちには親王の位階である三品を与えた。奪取した太政官印を使って太政官符を発給し、諸国に号令した。
9月18日
討伐軍の海陸からの攻めでつい仲麻呂軍は敗北した。仲麻呂は湖上に船を出して妻子とともに逃げようとするが、斬られる。その一族も皆殺しにされ、塩焼王も殺された。
⑦淳仁天皇の廃位
10月、孝謙上皇の軍による中宮院包囲、淳仁天皇は上皇から「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、親王の待遇を持って淡路島に流される。
次々週11月30日の講義テーマは、「道鏡と孝謙・称徳天皇」