※最近、何も想いつかないな~とこのブログも停滞気味でしたが、
実は、下記の記事が ずぅ~っと続いていたんですね!
【それでもなお…】
・人はそもそも独りでは生きれてはいないと言うことは比較的すぐに理解できるものですが、
相互理解に基づいて生き合うということはとても難しいこと…と言う事実も痛感していますよね。
それは、相手が「~ではない状態」。つまり、相手の状況や言葉・行動・態度・ゐずまひの意味する処を
理解できない、感情的な解釈をしてしまいガチであるという処に終始するのではないかと想います。
そこに『相互不理解』の種が生じてしまいます。
【相互不理解】
「どちらか一方が、モシクハ双方ともに、相手の言葉・行動・態度・ゐずまひの意味する処を 納得していない こと。
相手の置かれた立場、環境、経験や学び、魂の進化具合からの、言葉・行動・態度・ゐずまひだなんて 想ってもいないし、
想おうとすらしていない こと。 またそれらをごちゃ混ぜにした 感情論が支配 していることを意味する。」
つまり、学校教育で習い憶えさせられた『競う・比べる・争う』という癖付けから、無意識に『我』を折ることをことを
選ばない or 選ぼう としないように癖付けされているからなのです。(実感できていらっしゃるでしょうか?)
( 我 ; 自分の意志や考えを言い張って、人の言葉に従わないこと。 我が強い・我を立てる・我を通す・我を張る。)
・私達は、『相互理解に基づいて感謝の心で生き合うこと』…の大切さを識っていて、
日々できていない時もあるけれど、その理想を実現していけるように右往左往と試行錯誤しながらも
実践していますが、その努力をしない人も居られますし、その重要性すら知らない人、知ろうともして
いない人達や話にもならない人達や評論家・キ印etcがたくさんいることも識っています。
しかし、いつまでも同じようにそんな報復の連鎖とまでは言わないモノノ、ネガティブな
時代を繰り返し続けていっても良いものなのでしょうか?
相手や自身が、相互理解に基づいて感謝の心で生き合おうとすることが、できていない瞬間が訪れようとしても…、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/de/2180d3834c3f284fda8510bb685672e5.png)
それでもなお(anyway)わたしが我を折り、家庭でも仲間同士でも会社でも組織でも、
相互理解に基づいて感謝の心で生き合う姿勢で生きていく…と心に期っします。
(もちろん、今はそうできていない瞬間の方が多いかもしれませんが。)
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