横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

横断論⑤■「理解」の方程式□鏡像

2007-11-09 14:44:08 | Weblog
時枝の言語過程説との巡り会い■高橋の提示した動詞の問題について他に解決の助けを求めて出会ったのが、時枝誠記の国語学論であった。

 なぜ時枝だったのか?

 それまでに研究テーマに沿って数限りないほどの文法学書や語学書などを読み漁りながら、ひとつだけテキスト『国語学原論(岩波書店)』として採用した理由について、今整理してみると、次のような三点が挙げられる。

  A 仮説そのものへの関心。
  B 個々の木よりも、森の全体像に魅かれた。
  C 逸脱した所に魅かれた。

 問題はそれ以上に、今それらの理由について説き明かすことにどんな意味があるかであり、弊論それ自体の持つ意義ではないかと思われる。
 明らかに内発的な、この厄介な問題に対して、時枝は国語学の自由化を控えて、国内の火急の問題とした上で自らの論述を正当化したことは歴然としている。
 もとよりこの種の仰々しい大義を弊論に望む事自体が無理な話で、自分自身の学生時代の経験に照らしても、方言への露骨な介入などを通して権威を保とうする国語学への嫌悪感は終生捨てきれずにいる。
 であるから、ここでの試みは、逸脱以外の何者でもなく、それゆえの逸脱論であり、ただの私論としての位置づけでしかないことを断っておく。
 「文法論」という俗称の採用も、その辺にある。
 さて、Aにある仮説への関心だが、時枝の提唱の「言語過程説」を指すことはいうまでもない。が、正体不明の怪説といった印象は、今でもぬぐいきれずにいる。
 もともとは、高橋の動詞説によって興味を持ったことで、関心は両説はひとつに重ねられるのではないかという一点に関心を集めたが、どうなるかはお楽しみ。「

 私見によると、「言語過程」観とは、言語の化ける仕組みを明らかにしょうとする宣長に始まる国学的立場の、伝統的な言語観である。ポイントは、「風が吹く」という文が時として「神風が吹く」と解釈できる点にあり、こういう<化ける>事例が万葉集において頻出することはいうまでもない。
 だから、万葉集などの古典に事例を求めて、「言語過程」説を立ち挙げなかったのかと、その点に恨みが残った。
 では、「風が吹く」という文がどうして「神風が吹く」と解釈できるのか。

 この点の詳述は次章に譲るが、高橋の動詞説にキーが隠されていた。
 例文の「吹く」は、風自らの行う動作でありながら、風の本来的な状態をさし表す動詞である。しかし、「過程」という働きを仮定するとき、例文からは<神が風に化けて>というひとつの意味が生まれてくる。
 高橋の説くようにーーといっても、説はそこまで踏み込んでいないのだが、言葉の化ける仕組みが動詞にあり、「過程」的な働きに負うとすれば、時枝の言語過程説は浮き上がってこよう。

 次に、Bの「森の全体像」だが、はじめに個々の木ありきといったヨーロッパ式の観察内容には、まるで関心のないことはすでに明らかだと思う。
 「国語学の森」といった、鬱蒼とした・くらいイメージが好みなのであり、特に、ゲームとしての迷路。したがって、迷い込んだ地点を起点として出口を求めることに、生のエネルギーの大半が費やされる。
 この成功によってもたらされる純粋なご褒美とは、アメリカ的な「戦勝気分」である。

他説への「介入」の問題■確かに、こういうゲーム設定は、だいいちおとなげのないことであり、口にすること自体が恥ずかしいし、品位や誠実さに欠けることも事実である。
 翻って、問題点の多い、一種おいしそうなブランドの論述に対して、どんなアプローチが可能であろうか。
 問題は、「大義」は捨てた。次に控えているのは、「介入」の問題である。
 もし必要な手続きの手間を省いて、介入をやれば目に余る言葉の暴力と受け取られる可能性がじゅうぶんに考えられる。
 言論の自由といったところで、建前に過ぎず、権威は一介の狼藉者の暴走行為とみなす限り、いささかも揺るがず依然としてそびえたったままである。
 もし、正式の手続きを踏み、「介入」の問題がクリアできたとしても、事態はまるで変容していない現実に遭遇することも考えられる。
 それはそれでいたし方のないことで、ただペン葬の件は、歴史的事実として残る。

 「介入」の問題は、従来のやり方を踏襲することで、解決の道が開けようか?

 つまり、自説を唱えた後、他説をなぎ倒すやり方(アニキのように)。これは、その実、問題の本質的な解決にはなっていない。
 なぜなら、「他説」とは一般的にはある場所に眠った状態で保管されてあり、「自説」に対しては反撃は無論、「介入」のないものであるからだ。
 ただ自説から他説への働きかけとしての「介入」が白昼堂々と、いわばペーパーの上で「日常化」しているだけで、棚上げの状態であることになんら変わりはない。
 ここでもし、自説の提唱を取りやめて、言い換えると、自衛のポーズを捨てて、「介入」を引き起こすとどうなるだろうか?

 ここにいたってはじめて、「アグレッシブ」の問題に突き当たる。才長けた者は、それを「真剣」と知らずに振り回したために、自らの一生を台無しにした例の、数限りのないことは言うまでもない。

 先へ進みたいから、「介入」の問題解決の現代的な方法を簡単に示しておく。
 それは「解体」と「再建」をセットにして提示するもので、論述の持つ欠点を「逸脱」として俎上に載せ、すぐその後においしい料理として食卓に並べてみせることである。
 具体的には、「逸脱」は複数箇所にのぼるから、逸脱を「点」と設定し、「点」と「点」を結びつければ、「線」としての論述が生き返ることになる。
 ここまでしてあげると、「アグレッシブ」は活剣として見直されるのではなかろうか。

 さて、Cの「逸脱」だが、当然のこととして、それをそれと判定する基準の問題に突き当たる。 自説や他説の利用を除いて、絶対的なものさしがこの世に存在するのだろうか。
 答えはすでに明らかである以上、自身の観察眼に頼るしかなく、そこに時代の制約や眼力の限界や私情の混入といった問題の余地が生じてくるが、所詮は、一介の人間のやることだから何がおきてもおかしくはなく、そう思ってご許容願うしかない。

 まずは、文体の検討から入る。
 時枝は文とは思想なりの考えを文体において著わしたもので、この点をクリアできれば、時枝の言語理論は理解に難いものではない。
 次は、序において、「いはば言語の本質が何であるかの謎に対する解答」と前置きした上で、時枝の提示した理論上の仮説である。

《・・・・・私は、言語の本質を主体的な表現過程の一の形式であるとする考に到達したのである。言語を表現過程の一形式であるとする言語本質観の理論を、ここに言語過程説と名付けるならば、言語過程説は、言語を以て音声と意味との結合とする構成主義的言語観或いは言語を主体と離れた言語実体観に対立するものであって、言語は、思想内容を音声或いは文字を媒介として表現しようとする主体的な活動それ自体であるとするのである。『国語学原論』(岩波書店)

 実をいうと、前に書いた引用部分に目を通してみたところ、上の棒線部分が気になって、原文と照合してみたところ、誤植でないことを確認した。
 自分の目を信じるしかないが、それを述語表現からの逸脱とおく。
 それを「帰点」とおくと、起点を引用の中にある「言語の本質を主体的な表現過程の一の形式」とする考えにおく。
 というのは、「主体」的である限り、「本質」的な問題解明へのアプーローチ法にはならないからである。それはローカルな言葉の説明には役立っても、それ以上のものではない。
 一方の「のである」は、文末の細部に拘泥した一種の抑えすぎで、言い換えると、「吾かく思う」と念を入れ込みすであろう。これを「細部的な粗雑さ」と称したい。
 粗雑な表現のおかげで「吾輩は大学者である」といった読み手に対して格上とする、尊大な主体的な表現方法が成立する。
 これを逆にして読み手に対して格下とする主体的な・粗雑さの混入した・表現方法とは、「なのです」調を指すことはいうまでもない。
 この両者をつなげてよみがえる線的な意味とは、敬語の「です」や「のである」といった主体的な表現方法は、わが国の伝統的な文章作法にかかわる、瑣末にして国語教育上の中心課題ということではなかろうか。

時枝の説と逸脱論の方法■ここで試みに、「起点」をそのままにして、「帰点」を奥付に求める。
 奥付にある第一刷発行の日付は、昭和十六年十二月十日。発行の日付に問題があるのではなく、同年同月八日の日本海軍の真珠湾奇襲攻撃と軌を一にする点にある。
 その日付の持つ意味が歴史的な逸脱と書くと、いささか矛盾した意義が含まれるが、大筋において良しとしたい。一方の粗雑な主体的な表現方法である「のである」は、尊大な意味が浮上することはすでに述べた。
 ここで、当時の時代を背景に置くと、時枝の国語学思想の「防波堤」となるべく気負った意識がみえてくる。
 といっても、両者を結び付けて生じる線的な意味はねじれているから、論述的な意味としては不適切である。というのは、もし逸脱が一部の将校のフライングのせいであるとするならば、時枝の「防波堤」とする意識はそれに反している。反対に、時枝の「防波堤」たらんとする意識が逸脱とするならば、将校のフライングは正当化できる。
 このように両者の関係がねじれている以上、線的な意味としては採用できない(両者間の逸脱的関係は、「特異点」とも言うべき中点の仮設によって線的論述は、劇的に回復するという考え方もできる)。

 今見たようなやり方が揚げ足取りに過ぎないことも十分承知している。であるから、理論そのものに触れてみることにしたい。
 次にある三角形は時枝のオリジナル作品で、言語の存在条件としての「主体「(話し手)」「場面(聴き手)」「素材」の三者の関係を三角形になぞられたものである。

              ・場面
              |
  素材・          |
              |
              ・主体

 問題は、上の三角形にある「場面」で、その導入は時枝の言語理論の破綻を意味するのではないか。
 というのは、一般的にいう言語とは緊張関係にある何かであって、「場面」というゆるい空間で生起する言語的現象を指すのではないからだ

 たとえば、「太郎は学校へ行く」という文にある緊張関係は、太郎と学校を結ぶ緊張した線的関係を前提として、「太郎」という主体的機能を持った主語が学校までの間を移動することを意味する。そこに「あくびをしながら」というゆるい要素が取り込まれたとすると、「昨夜は遅くまでテレビゲームに興じていたから」という説明文を後に付け加えることで、前文の持つゆるい要素は即座に排除される仕組みといえないだろうか。
 仮に、「太郎はあくびをしながら学校へ行った」という文がチェックを受けずまかり通ることがあるとすれば、フレーズはその緩さゆえにイメージ(=歌)として立ち上がってくる可能性がある。あるいは、「夜が遅かったから」と説明不足を補うことで、その文の持つ不安定さを打ち消そうとするだろう。
 ほかには、三角形の輪郭を意味する線について、「三者は相互に堅き連携を保ち」とあるように、文のいちファクターとしての線の認識の遠いことが窺える。
 この言語理論からの脱落を逸脱とし「起点」とすれば、「帰点」を時枝の説くところの文の性質規定に求めたい。

Ⅰ 具体的な思想の表現であること。
Ⅱ 統一性があること。
Ⅲ 完結性があること。

 上のうち、Ⅲの完結性は三角形のもつ「出口のない」円環構造から生じる論理的帰結と思われるが、採用しがたく思っている。
 時枝もまた不採用の立場を採用しているらしく、「裏の小川はさらさらと流れ」を引き合いに出しながら、次のように一種常識的な説明を行っている。

《という表現においては、陳述は零記号の形式で存在はしているが、それが「流れ」という動詞の連用形が示すように、完結しないものとなり、この表現全体がある統一を得ながら、更に展開する姿勢を取っている。・・・・この表現が文であるためには、表現の最後が、終止形によって切れる形をとることが必要な条件となる。(時枝誠記著『日本文法-口語篇』岩波書店)

 見られるように、「形」にウェートを置いた論定は、時枝らしからぬやり方で、理論との不整合を指摘するだけで十分であろう。
 なお、私見は、引用の「裏の小川」云々は、出所は不明だが、ゆるい形で終わっているから、歌=イメージが立ち上がるという見解を採る。
 ここで、両者を結んで生き返る線的論述として、具体的な言語体験から抽象化して理論的な言語のモデルを提示するならば、次のようになる。

      C
  A・--・--・B(A=話し手、B=聞き手、C=素材「もしもし」)

 上は、駅前広場で、話者彼が「もしもし」と呼びかけたところ、相手が日本語を解せぬ外国人であったため無視されたが、たまたま通りがかりの別の日本人が聞きとめたことにより、完成した言語回路の図式である。さらに、図式は、「太郎は花子に本を貸した」という4語文のモデルにもなるのだが、この点は、次章で述べる。

 ついでに、二語文についての見解を簡単に加える。「風吹く」等の文は「花は美しい」という形容詞文のカテゴリーに属すること。これらの文は緩い体系に属するもので、日本語には陰と陽ともいうべき二種の言語体系が混じた独特の言語的特徴を有することを書き加えたい。ここで留意されたいことは、「場面」というタームに象徴される、緩い言語の体系の掘り起こしに尽力した点において、時枝の業績は再評価されてしかるべきことを。さらに言うならば、高橋の動詞説がこの緩い体系の存在を鋭く言い当てていることも。


「理解の方程式」としての言語の過程■最後に、時枝のいう「純物理的」な「言語の過程」を取り上げる。



(画像で、充当)



 上は、前掲書の九十一ページにある図解のコピーだが、一読するとわかるように、話者と聴者が空間伝達過程をはさんで、「鏡像の関係」に立っている。図は、時枝の説明に従うと、具体的事物としての「花」を話者が概念化、聴覚映像化、音声化という三段階を経た後、空間伝達過程を通過して、彼方にいる聴者は耳にした「ハナ」という音声を聴覚映像に直し、概念化して「花」と理解するにいたるまでの道筋を表している。
 図解は、当時の教授と学生の関係を表している。ちなみに、再現すると、教授が「花」と黒板に書くと、学生は黙したまま「花」とノートに書き写す戦前の講義風景である。そこに、ゴッホの描く「花」や「氷の花」というさまざまな聴覚映像が十人十色であるにもかかわらず、個人差がまるで認識できていないことを明示している。 
 図の持つ逸脱を「起点」と置くと、「帰点」を詞辞説に求める。
 この詞辞説は、今日の国語学の正統派的な位置を占めるひとつの学説である以上、それへの口出しは重大な問題を引き起こさないともいえない。世界の転覆は、杞憂であるかもしれない。自分にあるのはそこまでやっていいのかという、ただの倫理的な問題であり、それが解決できない限り、それへの論及は避けることのほうが賢明と考える。
 しかし、この問題は詞辞説を「逸脱」とおかず、旧来型のどこにでもあるような批評方法を試みるだけでクリアできるはずだ。なぜなら、言論の自由を基盤として花開いた現代思潮のひとつである戦後批評の流れに即するからだ。

 と、以上のような検証を通して、時枝のいう「理解」とは、あくまでも椿事に類する出来事だと受け取るにいたった。いわば「鏡」で隔てられた彼方、要するに、神の領域で実現可能と妄想しているのが時枝の特徴的な考え方と解したのだ。
 言語過程説とは、聖俗の二つの過程がワンセットになる仕組みのもので、先の図でいえば、遂行課程の俗性を受容過程の聖性が包み込んでいるのだ。したがって、時枝のいう「志向的対象となる処の聴手」とは、「聖なる聴者」をさして、いうなれば「単なる聴手」を想定しているのに対し、他方では、俗なる聞き手には「受容者であれ!」という悲鳴に近い願望の盛り込みが読み取れよう。繰り返すが、「理解」とは神事に他ならない。
 聖俗のワンセットなるものが、例の詞辞論と思われる。

《詞如 寺社 手爾波者如 荘厳 以 荘厳之手爾波 定 寺社之尊卑

 上の「定家の著と伝えられる手爾波大概抄」の一説を引用して、時枝は「寺社とその荘厳とはまったく別の次元に属するものであり、荘厳は寺社を包むところのもの」と解釈を示した上で、

《詞は、「山」「川」などの客体化して表現するもの、
辞は、「テニハ」などの主体的に表現するもの、

 と説明して、当時の国語学界を一時混乱に陥れたように、別の著書(『遺稿論文集』〉では受け取った。この場合の「主体的表現」とは、包容する「甘いオブラート」に相当しよう。
 とすると、先の図解で「純物理的」と称した意味が解けやしないだろうか。つまり、「ハナ」という音声には、味もそっけもないとでもいうような。

《・・・・・国語はその構造上、統一機能の表現は、統一され、総括される語の最後に来るのが普通である。

    花咲くか。

 といった場合、主体の表現である疑問「か」は最後にきて、「花咲く」という客体的事実を包み且つ統一しているのである。この形式を仮に図を以て表すならば(図示困難のため、省略)、

 |花咲く|か|  或いは   花咲くか
        
の如き形式を以て示すことができる。この統一形式を風呂敷型統一形式と呼ぶことが出来ると思う。(前掲書二三九-二四〇頁)

 上にある「風呂敷」が「神的なもの」と理解したうえで生じる問題は、それが「幻想」であるか否かであろうか。幻想だとしても、聖俗がワンセットになる在り方、たとえば、神人を代表として、四十八士や勇猛果敢な兵士などは、典型的な日本人である一方で、ごく平均的な日本人でさえ、包まれて在る、という幸せの意識は持っているものだ。それが「安全」であったり、「理解」であったり、「潔白」であったり、「救い」や「祈り」の違いがあるけれど、全般的に「理解」は神事とする考え方に変わりはない。そういう聖俗が一体化した、本来的な在り方を時枝は言語に見ようとしたのではないか。

 今すこし補説を行うならば、時枝の言語過程説とは、「はじめに詞辞論ありき」で、理論的背景として言語過程観の樹立を試みた事情である。これには、ソシュールの言語理論の国内輸入によって、伝統的なものが危機に瀕するとの切迫した想いが引き金になったのであろう。この場合の伝統的なものとして、「祝詞」や「うけひ」の例を挙げるだけでいいだろうか。
 「祝詞」などを思い浮かべるとき、時枝のいう「聴手は同時に場面である」や「主体的な表現過程」の意味が理解できるように思えてならない。おそらくは、古代人にとっては言葉とは「事件」を惹起するものとして、みだらな使用はタブーに近い、禁制が敷かれていたことだろう。文字にしても「シルシ」の顕われとして、読むことはもとより目に触れるだけで、パニックに陥ったのではなかろうか。

追記■時枝の言語過程説は、未完の言説である。詞辞説が完成した説といえるならば、言語過程説もそのような形で完成すると考えるべきである。
 時枝は、話者と聴者の関係をあたかも鏡像の関係として捉えているるが、そうではなく、話者の行う発信を聴者が包み込むように受信してこそ、理解は成立すると解釈するべきであろう。
 つまり、遂行過程の俗性を受容過程の聖性が包み込んでいるのである。

 図式は、驚くべきことに、緊張の物理的な伝わり方を図示するものだが、ゆるい言語と緊張の言語の区別もない時代のことだから、混乱があって当然と受け止めている。

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