横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

改稿のお知らせ■横断論Ⅷ□ゆるい言語の体系

2007-11-13 03:51:12 | Weblog
 説明不足等を補うため、次のように「註」を添えるなど、改めました。
 今後も引き続きご愛読とご批評をお願い申し上げます。


註1)■「名でもて明らか」は、高橋の説に負う。
 参考までに、高橋の「名」に対する考え方を紹介する。

《名とそれを包む闇について考える。
 ・・・幼い私たちは大人たちから闇を怖れることを教わったものだ。闇に克つ、といわないまでも、闇に耐えて生きる呪法として名を知ることを教わったものだ。あれはクスノキ、あれはギシギシと教わるたびに、闇はそれだけ少なくなった気がした。・・・
(『恋のヒント』小沢書店)

 見られるように、高橋の「名」に対する考えは、どのページをめくっても同じで、「照明」機能を説いている。


註2)別解(「名=装」説)■「名」に神が宿る。
 故に、ボデイは切り捨てられる。
 故に、女性は美顔術を施す。
 故に、売春業が成立する。
 故に、「顔面」機能の存在が露わになる。
 故に、装うところに、神宿りとなり、「名=装」説が浮上してくる。

 個人的な意見としては、「名をもて物をことわり、装をもて事をさだめ」とするよりは、「名をもて事をさだめ、装をもて物をことわり」とした方が、わかりやすい。というのは、その土地で暴れる竜を鎮めるために冠したものが「地名」にほかならないからで、この場合は、「装」の意義が定まらなくなる。
 逆に考えると、用言を「装定」とした成章の、喝破というか、観察眼の鋭さが光りだす?

註3)動詞活用で「行く」をもって、終止形とすれば、音楽の演奏の終りのごとき印象を与えかねないが、実際は、封印したにすぎず、「文」の持つ興奮状態は解消されていないと考える、この立場は、今でも変わらない。
 たとえば、「太郎は本を読む」という例文において、文意の安定を読むか、不安定を読むかで、両者の態度はおのずと異なってくるだろう。
 言葉は悪いが、かかる表現に対して平然とクリアできる鈍感な者が文法研究に携わっている面のあることは否定できないのではないか。
もう一例挙げると、「I have a pen.」を直訳して「私はペンを持つ」と口にでもすると、聞き手の側は「えっ、何が言いたいの?」と思うことだろう。
 こういう例から、活用形に言う終止形とは、神語りを誘発する止め方と認識している。




註4)点と線からなる図形的な意味が漏出してくるから、文と数式の平行関係が破られる。
 つまり、文とは、数式でもあり、図形的でもあるために、単一的な数式的なモデルを拒否している。

註5)数学と詩は、最も縁遠い関係のように思われるかもしれないが、実は、イメージで密接するジャンルといえる。言葉の意味を追求することが苦手な代わり、イメージの想起の才のある人が数学者であり、詩人ということだ。
 計算に関しては、教え込めば類人猿は速い、という報告がある。これは猿にとって数がイメージとして捉えることができたからだと考えている。
 言葉には、このような意味とイメージの他に、シンボルを加えて、3つの意味を持つと考えている。このうち、緩いものといえば、やはり、イメージであろう。
 シンボルは、イメージが地に喩えられるならば、天である。


註6)第一原因としての詩情とは、怠惰な病者の意識を満たしているものをいう。この意味では、潜在意識を指し、自覚できないまま、潜在意識で侵された意識状態をいう。
 甘美な想念が滾々と湧出するなど、「願望」で彩られた潜在意識は、大脳の中の太陽ともいうべき海馬の働きに負うと推定している。太陽が周期性を持つように、海馬の働きも周期性を持つと考えられる。
 高橋のいう「詩情」が私のいうがごときのものと違うのか、あるいは、同じなのか、今の時点ではわからない。
 詩人が詩情を云々するのは、言い換えると、病者の意識を第一原因とすることだから、狂気と紙一重といえる。
 一方の数学者の親しんでいるはずの数のイメージとは、良性のイメージと考えている。
 悪性のイメージで満たされた病者の意識の掃除役を務める良性のイメージで、ここにはアポロンの神が宿ると考えている。
 アポロンとは、ギリシヤ神話に登場する神であるが、精神の秩序・回復を司っているから、精神分析的な精神科学が導入する以前は、精神病の治療に一役買っていたのではないか。
 アポロンの神、つまり、数のイメージを想起することが、精神病の治療に役立つ、っていうことじゃないのかな。

 詩で言えば、これに近いのがフランスのサンボリズムの精神ではないかと思っている。
 サンボリズムの精神は、一部を書いて全体を照らす点にあると伝えられるが、良性のイメージ効果は付随的なものであったとしても(中世の暗い意識からの解放に貢献という)精神史の上で、もうひとつの評価を与えるべきではないかと思っている。

 今述べたような二種の詩について、代表的な二人を挙げるとすれば、独のリルケと仏のボードレールあたりかな・・・。

 ちなみにニーチェは、生の深淵を覗き見た天才的な、独逸の誇る哲学者のひとりだが、晩年はその深淵に呑み込まれたと思っている。



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