二つの死に顔■志賀文学との関連でいえば、芥川文学への関心は、結末に向けられるべきだ。なぜなら、二つの死の「型」が確認できるからだ。
たとえば、処女作『老年』では、「雪はやむけしきもない」という言葉で終わっている。これは、作品のはじめにある「朝からどんよりと曇っていたが、午ごろにはとうとう雪になって、あかりがつく時分にはもう、庭の松に張ってある雪除けの縄がたむるほどつもつていた」という表現を承けたものだが、物語の進行と平行して増殖するような降雪のイメージは、小説の首尾を貫いている。
この降雪・積雪のイメージが『羅生門』でも活かされている。
《ある日の暮れ方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
上の冒頭にある「暮れ方」は、結末では、時間の経過とともに「闇」の降り積もった結果として、「夜」は漆黒に塗りこめられている。
《外には、ただ、黒陶々たる夜があるばかりである。・・・・
今見たような二例の、三好行雄の言葉にもある「小説の首尾を貫く」く型の意味とは、「死」の暗示であろう。あるいは、死にも似た運命的な巨大なカラクリである。物語の進行とともに増殖するイメージは、物語の結末に再度姿を現して、暴力的な「機能」を発揮してとじるカラクリなのだ。
もうひとつの型は、即物的な「死」を指しあらわそうとしている。
たとえば、『ひょっとこ』では、「ただ変わらないのは、・・・・さっきのひょっとこの面ばかりである」という言葉で終わる。「仮面」は、死んだ男の上になおも覆いかぶさろうとする<死に顔>を象徴している。
驚くべきことに、「死に顔」、すなわち、〈永遠の相〉は型でも破るように、作品ごとに成長している。
次の引用は、特にそうだが、それとはわからないほど、目にも留まらぬ早業である。
《ーー無理に短くしたで、病が起こったのかもしれぬ。
内供は、仏前に香花を供えるようなうやうやしい手つきで鼻をおさえながら、こうつぶやいた。
翌朝、内供がいつものように早く眼をさましてみると、寺内の銀杏や橡が一晩のうちに葉を落としたので、庭は黄金を敷いたように明るい。塔の屋根には霜がおりているせいであろう。まだ薄い朝日に、九輪がまばゆく光っている。禅智内供は、蔀を上げた縁に立って、深く息を吸い込んだ。(『鼻』)
上にある「病」が転轍機となって、内供は病死し、「翌朝」に始まるのは、死後ではないかと理解している。だから、その辺が読めないでいると、「モチーフの一貫性に欠け」るといった批評がはびこることになる。
《『羅生門』と『芋粥』は、こうして存在悪(人間の本質としての悪)と状況悪(人間関係の織りなす社会の悪)の認識という、芥川文学のもっとも本質的な主題の所在を告げる作品となった。この二作に比して、『鼻』は漱石に激賞されて文壇登場の機縁になった記念碑だが、モチーフの一貫性にやや欠けたところがある。内供の自尊心や虚栄を冷笑する偶像破壊のモチーフと、その内供をあえて被害者として描く後半の意図とが亀裂する。<こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない>という、秋風になぶられての内供の独白は明らかに錯覚である。なぜなら、無責任な傍観者はこんどは長くなった鼻を嗤うはずだからである。(三好行雄「作品解説」-角川文庫)
作家の名誉回復のためにあえて書くが、三好の誤解は明らかである。なぜなら、「こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない」と二度目に呟くときの禅智内供の身は、この世の者ではないからだ。
断っておくが、氏の言葉で不満なのは、ゆうにその一点だけだ。しかし、看過された一点は、《闇》たる、もうひとつの芥川論の所在を告げているはずだ。
すでにその点は、志賀直哉が指摘していることで、次のようにくさしている。
《一体芥川君のものには仕舞いで読者に背負い投げを食わすようものがあった。これは読後の感じからいっても好きでなく、作品の上からいえば損だと思うといった。・・・・(『沓掛にて』)
技法としてみれば、志賀の言葉にもあるように鼻につくし、背負い投げを食わされたことに気づかなかった読者は、それを知るや惨めな思いを味わうことだろう。しかし、単なる技巧上の問題として片付けられるものではない。
『鼻』に関する限り、そこに隠された主題は、自己の生がいかに悲惨であろうとも野放図な改善を試みるものは天罰をかぶるということではなかろうか。
「改善」への強い欲求が逆に「必罰」として働く。言ってみれば、小説の「装置」のような大がかりな仕掛けが隠されているようなのだ。
「改善」への欲求がいつも「必罰」という形で結末を準備させるのではない。
『仙人』では、仕事の道具のほかに「何も持っていない」李小二という見世物師は、あるすすけた廟の軒下で、彼よりも貧しい身の上と思われた老道士と出会うことで「陶朱の富を得」る。
この場合は、仕事を日々こなすだけの不器用な生き方ゆえに、換言すると、生活の「改善」に向けて大した努力もせずにいたから、死苦を脱して無聊をもてあます仙人から、「大金」が授与されたことになろうか。
その結果、『仙人』では、結末の持つ「死のイメージ」は生死を超越している。
「改善」への欲求という主題は、『芋粥』にも通うものでありながら、やはり、結末を異にする。 「芋粥を飽きるほど食べてみたい」と心の中で思っている五位は、願望の実現に向けて懸命の努力をしている男ではない。にもかかわらず、ある日のこと、野狐を操る利仁という不思議な侍に連れられて遠いところの敦賀の地に招かれる。
そこでは、巨大な鍋の中に「海のごとくたたえた」芋粥を眼の前にして、「まだ、口をつけないうちから満腹を感じ」てしまう。何度すすめられても、堤にはいった芋粥を二分の一とさらに三分の一を食べたところで、辞退してしまう。
願望は心理的過食に追いやられることで一旦は満たされるが、「現実機能」の介入で、最後には夢は破られてしまう。
《・・・・晴れてはいても、敦賀の朝は、身にしみるように、風が寒い。五位はあわてて、鼻をおさえると同時に銀の堤に向かって大きなくさめをした。
上にある「くさめ」こそ隠された転轍機で、竜宮城的な夢想の世界から連れ戻す働きをしている。
結末の意味は、五位が死んでいないとすれば、一抹の夢として、「物語」そのものを葬り去るものといえないか。
これらの作品例からいえることは、志賀論では十分すぎるほどの位置をもっと考えられた「小説機能」がさしたる価値を有するものではないこと。芥川にあっては小説機能の近代化に向けた努力よりも、前代的なものを利用してでも、アレゴリーの捻出に心血を注いだということ。
しかし、苦心して産み出しだ「死に傾き」がちな意味さえ、最後には転換してしまうのが芥川の小説流儀なのだ。
無論、「アレゴリー」といっても、芥川ほど危険な主題を持つ作家はいない。なぜなら、私たちはそういうことで他人を笑う(ヒトモク、特に、弱者を狙撃するような集中砲火)といつかは自分に還ってくるよといってブレーキの掛けるところを、芥川は反対にアクセルを踏み込んでいるからだ。
「能勢、能勢、あのおかみさんを見ろよ」
「あいつはふぐがはらんだような顔をしているぜ」
「こっちの赤帽も、何かに似ているぜ。ねえ能勢」
「あいつはカロロ五世さ」
この直後、能勢は悪友たちの言葉に乗せられて、たまたまプラットホームに居合わせた自分の父親にまで辛口の批評を試みることになる。
「あいつかい。あいつはロンドン乞食さ」
作品『父』にしてもそうだが、能勢という人物の未来に用意されるものは、尋常の人生でもなければ、バラ色の人生でもない。芥川の小説は一見したところ、「寓意」に満ちているが、時として諸刃の刃として自己に向かって斬りかかってくるものだ。
能勢に早すぎる「葬儀」が用意されるのならば、同じように、五位の住む世界は本来的には、狐が導く「異界」でなければならぬ。
--なぜか?
これまでの枠組みの中で考えるならば、型にはまった「永遠の相」によってひとつの解答が得られたことだろう。
しかし、『芋粥』は例外である。「物語」と「小説」を天秤にのせて、最後に、もうひとつの重みのあるほうに傾きかけた、いわゆる型破りの作品であるからだ。
というのは「くさめ」の後にはじまる世界は、小説家さえ書くことがはばかれるような、日常そのものの味気のない世界でなければならぬからだ。
登場人物はすべて、雀牌■もろもろの疑問を解くために、三つの仮説を立てることからはじめようと思う。
A 無意識のうちに組み立てられた、ゲーム理論がある。
B パイの一つが生か死のいずれかに振り分けられる。
次に、この二つの延長線上に、もうひとつの仮説が生まれてくる。
C 自分の持ちパイがすべてなくなったとき、最後に振り込んだものが自分であった。
作中の登場人物はすべてパイだという考え方をのぞけば、「ゲーム理論」にしろ最後の仮説にしろ、自分でもばかばかしい考え方とは思うのだが、これを設定しない説明は所詮は行き当たりばったりの対症療法的なものにすぎないから、しまいにはつじつまが合わなくなるような気がしてならないのだ。
ただ、なんとなくだけど。そして、なんとなく思われることなんだけど、「ゲーム理論」という以上は、自分を安全の側に置くこともできる。一方で、ロシアン・ルーレットのように死を賭してのスリリングな遊びもある。一作一作が。
とはいっても、純文学風の作家たちが全身全霊を込めて作品を書き上げ、いわば自己の死と引き換えに、芸術作品を産み落とすことを言おうとしているのではない。
はじめは芥川とて、安全の側に身を置いていたはずだ。それが次第に、主客が転倒し、最後に気が付いたときには、自己の生を賭した「ゲーム理論」にまで成長していたのではなかったか。例の「小説の首尾」を飾るもののせいで。
で、理論の核を構成するものとして、<ヒトモク>の論理を用いることにする。
ヒトモクとは、元々は、賭博用語である。人は当たり目を予想して舟券なり馬券なりを買おうとする。これをメモクと呼ぶらしい(安部譲二説『フォーカス』九九年十二月のある号)。何分にも賭博のことであるから、なかには勝負運に見放された人間もいるわけだ。ここからヒトモクという買い方が生まれるというのだ。というのは、彼の買う券がことごとく外れるのならば、逆に、買わなかった券を選んで買えば、それだけ自分の方に勝負運を引き寄せられるというわけ。
この論理を駆使すると、芥川の作品分析と解釈は次の三点に絞り込むことができる。ただし、用語には独自の字釈を施している。
a 作品の中で、ヒトモクとなる中心的人物がいる。
b ヒトモクはパイとして、生か死のいずれかに振り分けられる。
c その理由とは?
上のうち、前二者は作品分析にかかわるもので、後一者だけが「読み」に関係する。したがって、後者の場合、それぞれのケースに即して「読み分け」を行うことになる。
前置きが長引いたが、以上の三点に絞って、個々の作品の読み直しを行う。
『老年』 a=房、b→死、c=愛人というメモクの欠如の故。
この作品では、噂の渦中にある「房」という人物がヒトモクである。しかし、歌沢の師匠「房」にはヒトモクに当たる「愛人」が不在である。結末は「雪はやむけしきもない」という言葉で終わっている。雪が死を暗示するのであれば、じきに房自身が捨てパイとして振り込まれることになる。なぜなら、ゲームでの敗北が明らかになったからだ。では、負けがどうして死に結びつくのか。理由は、詰まるところ、房自身の愛人を身代わりのヒトモクとして差し出すことができなかったからだ。
『ひょっとこ』 a=山村平吉、b=死、c=うそを除いた後には何も残らないから。
主人公の平吉は、船の上でひょっとこの面をかぶってばか踊りするが、脳溢血で頓死する。ヒトモクにおいて何が身代わりのヒトモクか、と問いかけでもするように執拗な真相究明の筆を揮っているのだが、わかったことといえば、酒好きと平素はうそつきということのほかに、経歴もでたらめということ。うそを取り除いたら酒好き以外何も残らないがゆえに、捨てパイとして振り込まれたと考えられる。
この場合、酒好きにおいては酒がメモクではないか、との見方も成立するが、メモクに溺れすぎた酔狂ゆえのいちギャンブラーの頓死との判定も可能。
『仙人』 a=李小二、b=生、c=鼠というメモクが大当たりを引いたから。
主人公の小二は、「鼠に芝居をさせて商売している男」という説明が冒頭にある。この意味が定まらないかもしれないが、李はこれまでの主人公とは異なり、死にパイとして振り込まれることはない。なぜなら、ゲームの勝利者であるからだ。李が鼠をメモクとした結果、「仙人」という大当たりを引いたことを意味する。
この場合の「仙人」とは、鼠の神様と考えられる。ということは、金生水の相生の理が関係した民話機能のお話と解釈可能。
『羅生門』 a=下人と老婆、b→生と死、c=「夜」が両者の幽明を分ける。
この作品(女性のシンボルへの嫌悪感を歌った)は、一見したところ、下人は老婆とのゲームで勝ちを収めた勝利者を装っている。「外には、ただ、黒陶々たる夜があるばかりである」との死の暗示は、老婆を名指して葬ろうとするものだ。いうまでもなく、ゲームの敗者であるからだ。では、どこに勝ち負けの判定が下されたのか。両者はそれぞれ身代わりのヒトモクを持ち、老婆が「蛇を切り売りする女」からならば、下人は「死体から髪の毛を抜く老婆」から一回の当たりを勝ち取っている。ということは、老婆は負けもあるが勝ちもある、いわばプラマイナーゼロの振り出しに戻った状態である。それに対し、下人はコマを一つ進めただけの勝ちでしかない。ゲームの流れとしては、そのまま二ラウンドに突入してもおかしくはないのだが、突如とした「夜」の介入で、両者の勝敗は幽明を分かち合うことになり、老婆は死へと振り込まれたのに対し、下人は「行方は、誰も知らない」とあるように、生の方にとにもかくにも振り分けられたのだ。
『鼻』 a=禅智内供、b=死、c=鼻というメモクをなくしたから。
この作品(巨根のシンボルへの悲哀を歌う)は、禅智内供と自身の「腸詰のような」鼻との関係にヒントが隠されている。内供は周りの人間におけるヒトモクだが、鼻は彼自身のメモクである。そうであるがゆえに、バランスシートでいえば、勝ち負けのいずれにも偏らないプラマイナーゼロの均衡状態を保っている。本当は、巨根を誇れるゲームの勝利者なのだ。ところが、民間療法で病んでもいない鼻を治療としたばかりに、内供はゲームの敗者に転落したのだ。このとき、捨てパイとして振り込むのに「死」の介入を必要としなかった。なぜなら、自分で選んだ死であるからだ。
『父』 a=能勢、b=死、c=ルール違反の故。
能勢のやっていることは、他人をことごとくヒトモクに置き換えることである。彼はゲーム巧者にはちがいないが、最後に、致命的なルール違反を侵したのだ。それは能勢をヒトモクとして早くから照準をさだめていたオヤに対して、ゲームを挑んだことだ。このとき、いち早くルール違反を感知した「死」が介入に及び、コである能勢を捨てパイとして葬ったものと考えられる。
『芋粥』 a=五位、b=生、c=メモクとする芋粥に飽きたから。
五位は「芋粥(性交のイメージ)に飽きん」ことを人生最大の喜びとしている、哀れな男である。そんな男に利仁という侍が不思議な方法で夢をかなえさせてやる。しかし、彼は食べる前から心理的過食の状態に陥る。このとき、メモクに賭ける正直な男と、ヒトモクに賭ける狡猾な利仁の間に(くさめ=現実)が介入して、ゲームは振り出しに戻ったと考えられる--と書くと、いかにも楽々といった感じに受け取られそうだが、「現実」を介入させたことで、作家自身は毒杯をあおったともいえる。
たとえば、処女作『老年』では、「雪はやむけしきもない」という言葉で終わっている。これは、作品のはじめにある「朝からどんよりと曇っていたが、午ごろにはとうとう雪になって、あかりがつく時分にはもう、庭の松に張ってある雪除けの縄がたむるほどつもつていた」という表現を承けたものだが、物語の進行と平行して増殖するような降雪のイメージは、小説の首尾を貫いている。
この降雪・積雪のイメージが『羅生門』でも活かされている。
《ある日の暮れ方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
上の冒頭にある「暮れ方」は、結末では、時間の経過とともに「闇」の降り積もった結果として、「夜」は漆黒に塗りこめられている。
《外には、ただ、黒陶々たる夜があるばかりである。・・・・
今見たような二例の、三好行雄の言葉にもある「小説の首尾を貫く」く型の意味とは、「死」の暗示であろう。あるいは、死にも似た運命的な巨大なカラクリである。物語の進行とともに増殖するイメージは、物語の結末に再度姿を現して、暴力的な「機能」を発揮してとじるカラクリなのだ。
もうひとつの型は、即物的な「死」を指しあらわそうとしている。
たとえば、『ひょっとこ』では、「ただ変わらないのは、・・・・さっきのひょっとこの面ばかりである」という言葉で終わる。「仮面」は、死んだ男の上になおも覆いかぶさろうとする<死に顔>を象徴している。
驚くべきことに、「死に顔」、すなわち、〈永遠の相〉は型でも破るように、作品ごとに成長している。
次の引用は、特にそうだが、それとはわからないほど、目にも留まらぬ早業である。
《ーー無理に短くしたで、病が起こったのかもしれぬ。
内供は、仏前に香花を供えるようなうやうやしい手つきで鼻をおさえながら、こうつぶやいた。
翌朝、内供がいつものように早く眼をさましてみると、寺内の銀杏や橡が一晩のうちに葉を落としたので、庭は黄金を敷いたように明るい。塔の屋根には霜がおりているせいであろう。まだ薄い朝日に、九輪がまばゆく光っている。禅智内供は、蔀を上げた縁に立って、深く息を吸い込んだ。(『鼻』)
上にある「病」が転轍機となって、内供は病死し、「翌朝」に始まるのは、死後ではないかと理解している。だから、その辺が読めないでいると、「モチーフの一貫性に欠け」るといった批評がはびこることになる。
《『羅生門』と『芋粥』は、こうして存在悪(人間の本質としての悪)と状況悪(人間関係の織りなす社会の悪)の認識という、芥川文学のもっとも本質的な主題の所在を告げる作品となった。この二作に比して、『鼻』は漱石に激賞されて文壇登場の機縁になった記念碑だが、モチーフの一貫性にやや欠けたところがある。内供の自尊心や虚栄を冷笑する偶像破壊のモチーフと、その内供をあえて被害者として描く後半の意図とが亀裂する。<こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない>という、秋風になぶられての内供の独白は明らかに錯覚である。なぜなら、無責任な傍観者はこんどは長くなった鼻を嗤うはずだからである。(三好行雄「作品解説」-角川文庫)
作家の名誉回復のためにあえて書くが、三好の誤解は明らかである。なぜなら、「こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない」と二度目に呟くときの禅智内供の身は、この世の者ではないからだ。
断っておくが、氏の言葉で不満なのは、ゆうにその一点だけだ。しかし、看過された一点は、《闇》たる、もうひとつの芥川論の所在を告げているはずだ。
すでにその点は、志賀直哉が指摘していることで、次のようにくさしている。
《一体芥川君のものには仕舞いで読者に背負い投げを食わすようものがあった。これは読後の感じからいっても好きでなく、作品の上からいえば損だと思うといった。・・・・(『沓掛にて』)
技法としてみれば、志賀の言葉にもあるように鼻につくし、背負い投げを食わされたことに気づかなかった読者は、それを知るや惨めな思いを味わうことだろう。しかし、単なる技巧上の問題として片付けられるものではない。
『鼻』に関する限り、そこに隠された主題は、自己の生がいかに悲惨であろうとも野放図な改善を試みるものは天罰をかぶるということではなかろうか。
「改善」への強い欲求が逆に「必罰」として働く。言ってみれば、小説の「装置」のような大がかりな仕掛けが隠されているようなのだ。
「改善」への欲求がいつも「必罰」という形で結末を準備させるのではない。
『仙人』では、仕事の道具のほかに「何も持っていない」李小二という見世物師は、あるすすけた廟の軒下で、彼よりも貧しい身の上と思われた老道士と出会うことで「陶朱の富を得」る。
この場合は、仕事を日々こなすだけの不器用な生き方ゆえに、換言すると、生活の「改善」に向けて大した努力もせずにいたから、死苦を脱して無聊をもてあます仙人から、「大金」が授与されたことになろうか。
その結果、『仙人』では、結末の持つ「死のイメージ」は生死を超越している。
「改善」への欲求という主題は、『芋粥』にも通うものでありながら、やはり、結末を異にする。 「芋粥を飽きるほど食べてみたい」と心の中で思っている五位は、願望の実現に向けて懸命の努力をしている男ではない。にもかかわらず、ある日のこと、野狐を操る利仁という不思議な侍に連れられて遠いところの敦賀の地に招かれる。
そこでは、巨大な鍋の中に「海のごとくたたえた」芋粥を眼の前にして、「まだ、口をつけないうちから満腹を感じ」てしまう。何度すすめられても、堤にはいった芋粥を二分の一とさらに三分の一を食べたところで、辞退してしまう。
願望は心理的過食に追いやられることで一旦は満たされるが、「現実機能」の介入で、最後には夢は破られてしまう。
《・・・・晴れてはいても、敦賀の朝は、身にしみるように、風が寒い。五位はあわてて、鼻をおさえると同時に銀の堤に向かって大きなくさめをした。
上にある「くさめ」こそ隠された転轍機で、竜宮城的な夢想の世界から連れ戻す働きをしている。
結末の意味は、五位が死んでいないとすれば、一抹の夢として、「物語」そのものを葬り去るものといえないか。
これらの作品例からいえることは、志賀論では十分すぎるほどの位置をもっと考えられた「小説機能」がさしたる価値を有するものではないこと。芥川にあっては小説機能の近代化に向けた努力よりも、前代的なものを利用してでも、アレゴリーの捻出に心血を注いだということ。
しかし、苦心して産み出しだ「死に傾き」がちな意味さえ、最後には転換してしまうのが芥川の小説流儀なのだ。
無論、「アレゴリー」といっても、芥川ほど危険な主題を持つ作家はいない。なぜなら、私たちはそういうことで他人を笑う(ヒトモク、特に、弱者を狙撃するような集中砲火)といつかは自分に還ってくるよといってブレーキの掛けるところを、芥川は反対にアクセルを踏み込んでいるからだ。
「能勢、能勢、あのおかみさんを見ろよ」
「あいつはふぐがはらんだような顔をしているぜ」
「こっちの赤帽も、何かに似ているぜ。ねえ能勢」
「あいつはカロロ五世さ」
この直後、能勢は悪友たちの言葉に乗せられて、たまたまプラットホームに居合わせた自分の父親にまで辛口の批評を試みることになる。
「あいつかい。あいつはロンドン乞食さ」
作品『父』にしてもそうだが、能勢という人物の未来に用意されるものは、尋常の人生でもなければ、バラ色の人生でもない。芥川の小説は一見したところ、「寓意」に満ちているが、時として諸刃の刃として自己に向かって斬りかかってくるものだ。
能勢に早すぎる「葬儀」が用意されるのならば、同じように、五位の住む世界は本来的には、狐が導く「異界」でなければならぬ。
--なぜか?
これまでの枠組みの中で考えるならば、型にはまった「永遠の相」によってひとつの解答が得られたことだろう。
しかし、『芋粥』は例外である。「物語」と「小説」を天秤にのせて、最後に、もうひとつの重みのあるほうに傾きかけた、いわゆる型破りの作品であるからだ。
というのは「くさめ」の後にはじまる世界は、小説家さえ書くことがはばかれるような、日常そのものの味気のない世界でなければならぬからだ。
登場人物はすべて、雀牌■もろもろの疑問を解くために、三つの仮説を立てることからはじめようと思う。
A 無意識のうちに組み立てられた、ゲーム理論がある。
B パイの一つが生か死のいずれかに振り分けられる。
次に、この二つの延長線上に、もうひとつの仮説が生まれてくる。
C 自分の持ちパイがすべてなくなったとき、最後に振り込んだものが自分であった。
作中の登場人物はすべてパイだという考え方をのぞけば、「ゲーム理論」にしろ最後の仮説にしろ、自分でもばかばかしい考え方とは思うのだが、これを設定しない説明は所詮は行き当たりばったりの対症療法的なものにすぎないから、しまいにはつじつまが合わなくなるような気がしてならないのだ。
ただ、なんとなくだけど。そして、なんとなく思われることなんだけど、「ゲーム理論」という以上は、自分を安全の側に置くこともできる。一方で、ロシアン・ルーレットのように死を賭してのスリリングな遊びもある。一作一作が。
とはいっても、純文学風の作家たちが全身全霊を込めて作品を書き上げ、いわば自己の死と引き換えに、芸術作品を産み落とすことを言おうとしているのではない。
はじめは芥川とて、安全の側に身を置いていたはずだ。それが次第に、主客が転倒し、最後に気が付いたときには、自己の生を賭した「ゲーム理論」にまで成長していたのではなかったか。例の「小説の首尾」を飾るもののせいで。
で、理論の核を構成するものとして、<ヒトモク>の論理を用いることにする。
ヒトモクとは、元々は、賭博用語である。人は当たり目を予想して舟券なり馬券なりを買おうとする。これをメモクと呼ぶらしい(安部譲二説『フォーカス』九九年十二月のある号)。何分にも賭博のことであるから、なかには勝負運に見放された人間もいるわけだ。ここからヒトモクという買い方が生まれるというのだ。というのは、彼の買う券がことごとく外れるのならば、逆に、買わなかった券を選んで買えば、それだけ自分の方に勝負運を引き寄せられるというわけ。
この論理を駆使すると、芥川の作品分析と解釈は次の三点に絞り込むことができる。ただし、用語には独自の字釈を施している。
a 作品の中で、ヒトモクとなる中心的人物がいる。
b ヒトモクはパイとして、生か死のいずれかに振り分けられる。
c その理由とは?
上のうち、前二者は作品分析にかかわるもので、後一者だけが「読み」に関係する。したがって、後者の場合、それぞれのケースに即して「読み分け」を行うことになる。
前置きが長引いたが、以上の三点に絞って、個々の作品の読み直しを行う。
『老年』 a=房、b→死、c=愛人というメモクの欠如の故。
この作品では、噂の渦中にある「房」という人物がヒトモクである。しかし、歌沢の師匠「房」にはヒトモクに当たる「愛人」が不在である。結末は「雪はやむけしきもない」という言葉で終わっている。雪が死を暗示するのであれば、じきに房自身が捨てパイとして振り込まれることになる。なぜなら、ゲームでの敗北が明らかになったからだ。では、負けがどうして死に結びつくのか。理由は、詰まるところ、房自身の愛人を身代わりのヒトモクとして差し出すことができなかったからだ。
『ひょっとこ』 a=山村平吉、b=死、c=うそを除いた後には何も残らないから。
主人公の平吉は、船の上でひょっとこの面をかぶってばか踊りするが、脳溢血で頓死する。ヒトモクにおいて何が身代わりのヒトモクか、と問いかけでもするように執拗な真相究明の筆を揮っているのだが、わかったことといえば、酒好きと平素はうそつきということのほかに、経歴もでたらめということ。うそを取り除いたら酒好き以外何も残らないがゆえに、捨てパイとして振り込まれたと考えられる。
この場合、酒好きにおいては酒がメモクではないか、との見方も成立するが、メモクに溺れすぎた酔狂ゆえのいちギャンブラーの頓死との判定も可能。
『仙人』 a=李小二、b=生、c=鼠というメモクが大当たりを引いたから。
主人公の小二は、「鼠に芝居をさせて商売している男」という説明が冒頭にある。この意味が定まらないかもしれないが、李はこれまでの主人公とは異なり、死にパイとして振り込まれることはない。なぜなら、ゲームの勝利者であるからだ。李が鼠をメモクとした結果、「仙人」という大当たりを引いたことを意味する。
この場合の「仙人」とは、鼠の神様と考えられる。ということは、金生水の相生の理が関係した民話機能のお話と解釈可能。
『羅生門』 a=下人と老婆、b→生と死、c=「夜」が両者の幽明を分ける。
この作品(女性のシンボルへの嫌悪感を歌った)は、一見したところ、下人は老婆とのゲームで勝ちを収めた勝利者を装っている。「外には、ただ、黒陶々たる夜があるばかりである」との死の暗示は、老婆を名指して葬ろうとするものだ。いうまでもなく、ゲームの敗者であるからだ。では、どこに勝ち負けの判定が下されたのか。両者はそれぞれ身代わりのヒトモクを持ち、老婆が「蛇を切り売りする女」からならば、下人は「死体から髪の毛を抜く老婆」から一回の当たりを勝ち取っている。ということは、老婆は負けもあるが勝ちもある、いわばプラマイナーゼロの振り出しに戻った状態である。それに対し、下人はコマを一つ進めただけの勝ちでしかない。ゲームの流れとしては、そのまま二ラウンドに突入してもおかしくはないのだが、突如とした「夜」の介入で、両者の勝敗は幽明を分かち合うことになり、老婆は死へと振り込まれたのに対し、下人は「行方は、誰も知らない」とあるように、生の方にとにもかくにも振り分けられたのだ。
『鼻』 a=禅智内供、b=死、c=鼻というメモクをなくしたから。
この作品(巨根のシンボルへの悲哀を歌う)は、禅智内供と自身の「腸詰のような」鼻との関係にヒントが隠されている。内供は周りの人間におけるヒトモクだが、鼻は彼自身のメモクである。そうであるがゆえに、バランスシートでいえば、勝ち負けのいずれにも偏らないプラマイナーゼロの均衡状態を保っている。本当は、巨根を誇れるゲームの勝利者なのだ。ところが、民間療法で病んでもいない鼻を治療としたばかりに、内供はゲームの敗者に転落したのだ。このとき、捨てパイとして振り込むのに「死」の介入を必要としなかった。なぜなら、自分で選んだ死であるからだ。
『父』 a=能勢、b=死、c=ルール違反の故。
能勢のやっていることは、他人をことごとくヒトモクに置き換えることである。彼はゲーム巧者にはちがいないが、最後に、致命的なルール違反を侵したのだ。それは能勢をヒトモクとして早くから照準をさだめていたオヤに対して、ゲームを挑んだことだ。このとき、いち早くルール違反を感知した「死」が介入に及び、コである能勢を捨てパイとして葬ったものと考えられる。
『芋粥』 a=五位、b=生、c=メモクとする芋粥に飽きたから。
五位は「芋粥(性交のイメージ)に飽きん」ことを人生最大の喜びとしている、哀れな男である。そんな男に利仁という侍が不思議な方法で夢をかなえさせてやる。しかし、彼は食べる前から心理的過食の状態に陥る。このとき、メモクに賭ける正直な男と、ヒトモクに賭ける狡猾な利仁の間に(くさめ=現実)が介入して、ゲームは振り出しに戻ったと考えられる--と書くと、いかにも楽々といった感じに受け取られそうだが、「現実」を介入させたことで、作家自身は毒杯をあおったともいえる。