横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

ゆるい言語の体系□横断論⑧の2

2007-11-13 04:01:26 | Weblog
お断り■改稿したところ、1万字をオーバーしましたので、2部に分けます。

「横断論⑧の1■ゆるい言語の体系」は、10月28日の拙記事です。
拙記事のURLが見つからないもので、お手数をかけます。


「神」という数学上の概念■ 《たとえば、ここに「ある」という動詞がある。ふつう存在または状態の動詞と呼ばれ、動作の動詞と区別されているものだ。「渡る」などがある点からある点への移動を表しているのに対して、「ある」はある点での停止を表しているとの認識に立つもの、といってよかろう。だが、果たしてそうか。私の考えを言えば、「ある」は「ない」から「ない」という点に向かう過程の移動を表している。こう考えてくれば、動作・存在・状態と分けることはおよそ無意味に思われる。いわゆる動作、存在、状態をひっくるめて、動詞はもっとも人間的な言葉ということができるのではあるまいか。(『讀賣新聞』)

 上にあるような高橋の動詞分類への強い拘りは、レヴェルが低すぎて、正直なところ、ついていけない面があるのも事実だが、反対に、自説の生き死に関わるような、大事な問題が隠されているのではないかと推理を働かせることもできる。
 その大事なものを見極めることは、負託されたも同然、とはいわないが、探ってみるだけの価値はあるだろう。

 ここで、高橋の仮説を借用すると、文はまず「点ありき」と説明できる。と同時に、「ある点からある点へ」と渡るものとして過程動詞化される。
 ということは、それらの文が「アチラのひとが花になって咲き顕われる」や「アチラの神が風となって吹き顕われる」という万葉集の事例にあるような、言葉のゆるい働きを示唆するものとなろうか。
 それが歌の「解釈」とすれば、「歌」がある前景としての詩情のあふれる世界の存在を示唆していることになる。
 「ある点からある点へ」という言い方が「異界から異界へ」と翻訳できることは前に述べた。
 それが「太郎は学校へ行く」という文に現れるとき、一方が異界にいる「絶対前者」ならば、他方は、もうひとつの異界にいる「絶対後者」となろう。
(例文には、絶対的な太郎と、絶対的な学校のイメージが宿る)
 高橋の説を歌のイメージに引っ掛けると、「絶対前者のいる点から絶対後者のいる点へ」向かおうとするのが過程動詞の意味となろうか。

 「絶対」という言葉に《恐怖》の意味を注入すれば、それは「神」の意義になる。
 それをせずに一個の存在と考えるならば、数の対象になる。「ゼロ」や「無限」を意味する数学論上の概念として用いることができるはずだ。
 ふつう、文というものは、前者と後者ともいうべき名詞で構成されている。間に、中間者としての名詞を入れてもいい。
 それらを主語とか目的語とか補語と呼んでいるわけだが、氏の動詞論?ではほとんど問題にしない。なぜなら、すべての表現が《ある意志》が加えられて、「ある点からある点へ」と化けるからだ。
 そういう絶対的な、あるいは、数学論的な見方が導入された以上、何が主語かと問うことは無意味になりやすい。
 仮に主語たりえたとしても、たまたまということに過ぎないのではないか。
 たとえば、次のような文例である。

  羊の群れが動く。

 もし比喩表現として眺めるならば、羊は「雲」の動くさまを意味し、「綿」の木でもかまわないし、「神々」を指すことだってありうる。
 そうした場合、どれをもって主語とすべきであろうか。ほんの一例にすぎない。
 何が主語かを問う正統派の文法論があってもいいし、それを超えようとする文法論があってもいいはずだ。

動詞の分類法■今度は、もうひとつのアプローチとして、動詞の分類法の持つ問題提起から始めたい。
 これは「・・・・動作・存在・状態と分けることはおよそ無意味に思われる」とあるように、よくよくの事情があってのことだろうから、高橋を苦しめている「事情」に迫りたいと考えている。
 氏の言葉はさらに、「いわゆる動作、存在、状態をひっくるめて、動詞はもっとも人間的な言葉ということができるのではないか」と結ばれる。
 この意味が解き明かすことができれば万々歳だが、はなから自信がもてずにいる。
 つぎの用例は、動作動詞「する」がその意味に反して、多様な解釈法が可能であることを示す。しかも、「状態」と「動作」と「過程」とそれぞれの動詞の働きに即して。

  A 太郎は(毎日)公園で野球をする(状態動詞化=文意の安定化)
  B 太郎は(その日)公園で野球をする(動作動詞化=文意の不安定化)
  C 太郎が公園で野球をする!(過程動詞化=「するようになった!」という驚きが伝わってくる)

 今度は、述語は主語規定を行うから、その規定力を用いて用例を作り直すと、次のようになる。

  A' (野球少年の)太郎は毎日公園で野球をする
  B' (いつもはしない)太郎がその日に限って野球をする。
  C' (野球嫌いの)太郎が公園で野球をする!
  D' (人殺しの)太郎が公園で幼児を金属バットで撲殺する。

 述語は主語規定を行う力があるといいつつ、D'のケースでは逆転している。
 このケースに限り、主語の方に述語規定力が認められ、述語が変質をきたしたと説明できるのではないか。
 高橋のいう過程動詞がDのケース(絶対的主語や「死」の出現)を指すものとみているが、A'、B'、C'のケースの存在まで否定するのは無理ではないか。
 それでも高橋寄りの立場をキープすると、Bのケースを無効とする考え方が生まれる結果、次のような二つの仮説が導き出せる。

  Ⅰ 文意は、常に安定を保とうとする。
  Ⅱ 文意が不安定化した場合、動詞機能は過程化して安定を図ろうとする。

 Ⅰ説にある文意の安定化にかかわるのが述部動詞の状態的な機能と考えている。
 Ⅱ説の不安定化に関係するのが動作的意味で、その克服に過程的な働きがかかわるのではないか。
 とすると、Ⅰ説にある状態動詞の存在まで否定はできないはずだ。

註3)動詞活用で「行く」をもって、終止形とすれば、音楽の演奏の終りのごとき印象を与えかねないが、実際は、封印したにすぎず、「文」の持つ興奮状態は解消されていないと考える、この立場は、今でも変わらない。
 たとえば、「太郎は本を読む」という例文において、文意の安定を読むか、不安定を読むかで、両者の態度はおのずと異なってくるだろう。
 言葉は悪いが、かかる表現に対して平然とクリアできる鈍感な者が文法研究に携わっている面のあることは否定できないのではないか。
もう一例挙げると、「I have a pen.」を直訳して「私はペンを持つ」と口にでもすると、聞き手の側は「えっ、何が言いたいの?」と思うことだろう。
 こういう例があることから、活用形に言う終止形とは、神語りを誘発する止め方と認識している。



 ここで、さらなる高橋寄りの立場をキープすると、「太郎は毎日公園で野球をする」という文意の安定した文はあることはあるが、それは「人殺しの太郎が毎日公園で幼児を金属バットで撲殺する」といった解釈上の文を喚起する以上、状態動詞文の存在は怪しくなるから、あるようでないに等しい・・・。
 例文が例文でなくなるという異常事態が起きているとすれば、見せ掛けの例文の持つ状態の機能さえ無効とする考え方が生まれてもおかしくはない。
 それが「高橋を苦しめている」とすれば、文法学上のばかばかしい俗説が世にはびこりすぎのせいとなろう。

 残された結論部分--私が「ここにある」とは、詩情に支えられてあるように「動詞文」もそういう在り方をする以上、「動詞こそは最も人間的な言葉」とする、でいいのではないか。
 第一原因としての「詩情」の存在を仮定すれば、「動詞=私=人間」という等号的関係が易々と導かれると思う。

 この場合の人間とは、理想的なモデルのそれではなくて、戦後的な全敗的な気分に満たされた人間存在とか、人間自身が人間であることに耐え切れなくなって、変身願望を持ったり、超越的な存在を希求する哀れな人間の類であろうか。
 とすると、スーパー機能を持った動詞のイメージとは、相反するものとなろう。

 それでも見果てぬ夢を見るが故に・・・・淋しい、淋しいと嘆くばかりの、それこそ本来的な人間というものの、赤裸々姿というのであろうか?



文とは、数式である■この章の終りに、高橋の説によって仮定された、もうひとつの動詞的時間説について。
 ここでは一例として、文を計算過程と捉え、文のもつ「解」を導き出したいと考えている。
 高橋先生にはまことに申し訳ないが、ここは真打を務める。

 認知言語学でいう「相同性」を使うことからはじめる。
 「相同性」とは、「ある領域Aに属する要因としてaとb、それとは別の領域Bに属する要因としてcとdとの関係にひとしい場合、aとb、および、cとdとの間の関係は相同的である」とする。
 たとえば、ドライブでA点とB点の間の距離が一〇〇キロだとすれば、車で平均時速四〇キロで走れば、走破するのに二時間半を要することになる。
 これと同じような「解」の出る事例を「太郎は学校へ行く」という文表現の中に見出すことができるだろうか。

 この場合、「解」が「未来の意味」とおけるならば、それはドライブにおける「解=二時間半」にほかならず、地点AとBの距離が「一〇〇キロ」とか「平均時速四〇キロ」とかは、解を導き出すための「導因」とみなすことができる。
 文表現における「解」として、加え算による「和」があると仮定するとき、文「太郎は学校へ行く」における「太郎」と「学校」は単なる名詞ではなく、和を導くためのふたつの「導因」とならなければならない。
 このときの和を「太郎と学校はひとつになる」とおく。

 解としての「和」がいま少しわかりにくいと思われるので、もう一例だけ示す。
 売買動詞は、もともと、往復的な意味を持っている。文「太郎は花子に本を百円で売った」では、文の持つ「和」は、太郎が「百円を所有」する一方で、花子は「本を所有」と説明できる。
 それぞれの解を正と負の「和」と呼ぶこともできる。

 この文における「和」は、ドライブでA点からB点へという旅において、旅の目的地にたどり着くことで得られる「解」でもある。註3)
 この意味では、「未来の意味」としての両者の「解」は異にする。しかし、「解」を導く点において両方の二つの導因は同じ性質を持つといえる。
 「導因」であることは、すでに「要因」としての要件を満たしているから、両者は相同性と合同性のはざまにあるといえ、この意味で、準合同的な関係にあるといえるのではないか。


註4)点と線からなる図形的な意味が漏出してくるから、文と数式の平行関係が破られる。
 つまり、文とは、数式でもあり、図形的でもあるために、単一的な数式的なモデルを拒否している。

註5)数学と詩は、最も縁遠い関係のように思われるかもしれないが、実は、イメージで密接するジャンルといえる。言葉の意味を追求することが苦手な代わり、イメージの想起の才のある人が数学者であり、詩人ということだ。
 計算に関しては、教え込めば類人猿は速い、という報告がある。これは猿にとって数がイメージとして捉えることができたからだと考えている。
 言葉には、このような意味とイメージの他に、シンボルを加えて、3つの意味を持つと考えている。このうち、緩いものといえば、やはり、イメージであろう。
 シンボルは、イメージが地に喩えられるならば、天である。


註6)第一原因としての詩情とは、怠惰な病者の意識を満たしているものをいう。この意味では、潜在意識を指し、自覚できないまま、潜在意識で侵された意識状態をいう。
 甘美な想念が滾々と湧出するなど、「願望」で彩られた潜在意識は、大脳の中の太陽ともいうべき海馬の働きに負うと推定している。太陽が周期性を持つように、海馬の働きも周期性を持つと考えられる。
 高橋のいう「詩情」が私のいうがごときのものと違うのか、あるいは、同じなのか、今の時点ではわからない。
 詩人が詩情を云々するのは、言い換えると、病者の意識を第一原因とすることだから、狂気と紙一重といえる。
 一方の数学者の親しんでいるはずの数のイメージとは、良性のイメージと考えている。
 悪性のイメージで満たされた病者の意識の掃除役を務める良性のイメージで、ここにはアポロンの神が宿ると考えている。
 アポロンとは、ギリシヤ神話に登場する神であるが、精神の秩序・回復を司っているから、精神分析的な精神科学が導入する以前は、精神病の治療に一役買っていたのではないか。
 アポロンの神、つまり、数のイメージを想起することが、精神病の治療に役立つ、っていうことじゃないのかな。

 詩で言えば、これに近いのがフランスのサンボリズムの精神ではないかと思っている。
 サンボリズムの精神は、一部を書いて全体を照らす点にあると伝えられるが、良性のイメージ効果は付随的なものであったとしても(中世の暗い意識からの解放に貢献という)精神史の上で、もうひとつの評価を与えるべきではないかと思っている。

 今述べたような二種の詩について、代表的な二人を挙げるとすれば、独のリルケと仏のボードレールあたりかな・・・。

 ちなみにニーチェは、生の深淵を覗き見た天才的な、独逸の誇る哲学者のひとりだが、晩年はその深淵に呑み込まれたと思っている。



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