ノート6□文を取り巻く内外の環境■方法上、次の三段階を踏むことにし、四を持って閉じる考えである。
一 ひとつの文を取り巻く環境について。
二 環境的な因子を取り除いて、純粋に文と接しえることが可能か。
三 純粋な文の抽出が可能とした場合、その文のイメージとは。
四 その際の動詞のイメージとは。
まずは、一の「環境」であるが、これはこれまでの文法研究において閑却されていた問題で、いかにして環境的な因子を取り除き、純粋な文を取り出すかの試みである。
時枝の文規定のひとつ「完結性」は、「環境」の問題と無縁ではなく、この手間を省きがたいための性急な説という考え方もできる。
単文を取り巻く環境として、次のような「内」と「外」の二つの考え方が導かれる。
Ⅰ そこにある文は、ある前提の展開として捉えることができる。前提的なそれを「過去」とおく。過去からの展開が「現在」にほかならず、それが「文」として顕在しているのである。とすると、現在の次の展開として「未来」があるという考え方が導かれることになろう。
Ⅱ もうひとつの環境として、そこにある文は、それとは異なった別の文が「前」にあり、前文の展開として次の文があると考えられる。すると、更なる展開として別の文が「後」に用意されると。
たとえば、次のような文章では、二番目の文に関する限り、環境としてのⅡのような外的な条件を満たしている。
《むかし津軽の国、神梛木村に鍬形惣助という庄屋がいた。
四十九歳で、はじめて一子を得た。
男の子であった。
(太宰治作『仙術太郎』)
では、Ⅰのような内的な条件はどうだろうか。
「四十九歳で、はじめて一子を得た」という二番目の文に注目する限り、その文は〈男には妻がいたが、長い間、子供ができなかった〉という前提の下に展開している。しかし、前の文は、「鍬形惣助という庄屋」という男についての説明しか行っていない。
このことから両者の間にはズレのあることがわかる。だから、そこに文があるということは、前文の外的な展開としてあると同時に、内的な前提的意味の展開でもあるという考え方が導かれよう。
しかし、内的な意味としてどのような「未来」が開けるのかまでは読めないでいる。「長い間、子供が授からなかった」という前提的な意味を踏まえれば、それは「非常な喜び」を未来に用意するかもしれないが、こと文の内的な未来に関する限り、先の展開はやすやすと読めるものではない。
引用では、「男の子であった」という文を配している。それは前の文の外的な展開であるが、必ずしも内的な意味の展開に結びつくわけではない。が、未来は感動の解消に向かうという意味では、内的な意味の解消に役立つものといえる。なぜなら、三番目の文は、「なんと男であった!」と内的に訳せるからだ。
そういう考え方は、一方で、単一の文を取り巻く内的な環境の有無に限らず、外的な環境は整っているという考え方を用意させるし、外的な環境の有無に限らず、内的な環境は整っているという考え方も可能にする。あるいは、環境的なものをまったく無視して、単一の文について純粋に観察できるという考え方を生む。
I have a pen.■たとえば「I have a pen.」という英文に接するときの私たちの態度は、どちらかというと後者に近い。しかし、それを訳した文「私はペンを持っている」と接するとき、純粋な観察態度は維持できないと思う。というのは、翻訳に際して、知らず知らずのうちに、文化的な介入を行っているからだ。
いうまでもなく、動詞haveと対応する日本語は「持つ」である。にもかかわらず、「持っている」と意訳する。
この理由は、直訳「私はペンを持つ」と置くと、あたかも戦場を前にして、「ペンは剣よりも強い」といった調子の、原文にはない石と化した決意表明のごときものが伝わるからであろう。
でなければ、「持っている」と置くことで、文意が安定するからだ。
では、立場を逆にして、英米の文法家は「I have a pen.」と接するとき、日本人と同程度に純粋な態度で文を観察することができようか。
これは語学にくらい自分の推理でしかないが、少しでも例題と向き合う機会があれば、同じように、「(戦場では)私はぺンで戦う」といったジャーナリスト風の気概を読むのではなかろうか。 でなければ、外的な環境の整った中でのありふれた一文である。
それでも「I have a pen.」を運用から、言い換えると、それらの環境から切り離して、独立的な一個の文として観察ができようか。
できるのならば、理由は、例文がひとつの完結した世界と考えられているからであろう。
ところで、この場合の完結とは、どういう意味を持つ用語であろうか。
《A sentence is a word or group of words capaple of expressing a complete thought or meaning.(前掲書三三〇ページ)
時枝の説明によると、上にあるcompleteの訳語よって普及したとある。訳は「完全」か「完結」かで迷うとしたあと、「思想の完結したる」という翻訳の紹介につとめているが、別のところでは、次のように述べている。
《完結と完全との根本的相違は何処にあるかといへば、完全とは主観的基準に於いてのみいひ得ることであって、完結とは客観的に規定された事実である。(前掲書)
上にあるような主観と客観の区分けはナンセンスであろう。
たとえば、「完全なる人間」とはいいえても、「完結したる人間」との言い方は成立しない。このわけは、それぞれが空間と時間を基準としているからだ。
絵画が空間芸術とすれば、「完全な絵」といいえるように、小説が時間芸術とすれば、「完結したる小説」といいえる。
それでも、逆の言い方がは成立するのは、シリーズものの絵に限定しての「完結したる絵」のいいであり、小説の場合は、空間的な造形性になぞらえた上での「完全なる小説」という破格の評価法が例外的に成立する。
このように見てくると、時枝のいう「思想の完結したる文」という言い方のおかしいことに気付くはずだ。なぜなら、文という空間的なイメージに対して、完結という時間的なイメージでもって律しょうとしているからだ。
それでも、そういう言い方が成立するのは、単一の文には空間的には思想が宿り、時間的には、完結しえるものと考えているからであろう。
この意味では、時空を兼ねた文規定を行ったことになる。
註)時枝の用語では、空間的なものを「主観」的といい、時間的なものを「客観」的と言い表したとみている。
引用も含めて伝わってくる完結のイメージは、およそ「完備」ではなかろうか。
言い換えると、文としての条件が完備していれば、それをもって文の完結の意義と定めるーーと。
ただし、短絡的な思考の後だけが歴然たる欠陥として残っている。
その点は、こう考えることによって論理的な整合性がえられるのではないだろうか。
条件が完備さえすれば、文には「装置」のようなものが作動して、意味的「内」的に完結する。
ということは、文としての条件が完備し且つ意味的に完結した文があれば、間には「地球機能」と呼ぶべき文法機能が力を発揮している思われるから、機能を摘出すればいいことになろう。
なんための摘出か?
それが弊論の目指す《闇》たる、動詞のイメージに他ならないからだ。
感動文が純粋な文■なんといっても一番の障害は、前途に立ちはだかる言葉の壁である。 入り口でたちはだかる「文としての条件」をどう捉えるかである。
通念的には、主述のほかに、述語の性質に応じて目的語や補語を含むものを指すと見て支障なかろう。
時枝の詞辞説に従うと「花よ」でもって、「文の条件」は完備ということになりそうだ。
たとえば、次のような使い古された文である。
太郎は学校へ行く。
すべての文例についていえることだが、いくら条件の点で満足できても、「風船玉」のごときものとして直ちに観察の対象とすることができない。
なぜなら、文のあること自体が、内外の環境に取り囲まれてあることに変わりがないからだ。
この事実は、国語学者らの用いる例題そのものに対して向けられたひとつの疑念なのだが、先の文も含めて、多くが感動文に置き換え可能なのだ。
象は鼻が長し。 「何を食べる?」「ウナギ」
山は雪か。 私は大野です。
木の葉が舞ふ。 裏の小川はさらさらと流れ。
波が岸を噛む。 このテーブルで食べませう。
春が訪れる。 水が飲みたい。
地球は丸い。 酒に飲まれるな。
動詞は渡る。 前へ進め。
労働は運ぶ。 ・・・・・・
上の左側の文は、いずれもなんという言葉をかぶせて、感動文としての取り扱いができる。
ただし、右側は例外。
このことから、発見の感動が個々の平叙文を包み込んでいるのではないかと考えた。
こうして最後に立ちはだかるのが、どういう文例を使うかという点だ。
そこで思うのだが、先に掲げた感動に裏打ちされた文こそは、文としての条件を満たしかつ独立し、さらに、完結かつ充足した意味的世界を有するのではないか。
とすると、内外の環境的な意味から独立した、純粋な文こそ感動文と認められるであろうか。
それならば、前述したように、あたりの前の関係と思われていた事柄に文法機能があると仮定して、「装置」のようなものを引きずり出せば、この仕事は完了したも同然であろう。
その際に「風船玉」の使用をためらわせるのは、感動の処理である。覆不覆のいずれの文を採用すべきかどうかで悩むのだ。
二種の動詞のイメージ■どちらでもいいというのであれば、文法機能は、述語が主語を規定する力に現れている。
たとえば、文「吾輩は猫である」は、主述をかねている点で条件を満たしている。しかし、意味的には矛盾を抱え込んでいるから、本来ならば文法的なトラブルを引き起こさずに入られない。
しかし、意味的なおかしさは総合的に包み込まれている。この場合、述語が主語を規定する力はエヘンとでも威張りたがっている「吾輩」なるイメージの修正に取り掛かっている。
かくしてひげを生やした謹厳な紳士のイメージは、本の表紙にあるような、ひげを生やした愛らしい猫顔のイメージ・キャラクターに取って代わられる。
このとき、主語が何の規定も受けなければ、意味的矛盾がひとり歩きすることになる。
このひとり歩きの好例は、「動詞は渡る」という文によって別の意味の確認が取れよう。
もし主語「動詞」のイメージが述語の力によって修正もされず、固定したままであると「渡る」という述語との間に生じる意味的ギャップが克服できないことになる。
この力こそが述語の持つ「時間作用」ではないかと考えている。動詞的な時間が主語や目的語を取り込む際の「同化作用」として威力を発揮するのだ。
しかし、主語や目的語は取り込まれても時間ではない何かであるから、当然そこには「異化作用」が生じる。こうして生まれた「時間ではない何か」が時間のファイナル・アタックを受けて「転化」し、未来に向かって投げ出されるのだ。
今見たような述語の持つ三種の働きが、いわゆる《意味的分類法》として還元される「ある=状態」「する=動作」「なる=過程」と訳されるところの、三種の働きではないかと受け取っている。
そうやって動詞述語の持つ時間作用は、文表現を計算過程に転換してしまう。
それは、究極のところ、加え算ではないかというのが持論である。
次は、そのいくつかのパターンを見ることにする。
Ⅰ 加算 太郎は花子と出会う。太郎は学校へ行く。
Ⅱ 名詞化 太郎は学校を休む。太郎は花子を殺す。
Ⅲ 主客転倒 太郎は次郎から百円を借りる。
Ⅰのケースでは、「A・--・B」と二点形式に置き換え可能である。Ⅱのケースでは、単純に置き換えたのでは、式は「行く」の意味になるから「太郎・--・休みーー・学校」と三点形式に置き換える必要が生じる。この場合の「太郎」と「休み」は一体関係にあるが、「休み」と「学校」の関係は分離の関係にある。だから、式は「太郎は学校へ<休み>を運んだ」と訳しうる。Ⅲでは、「次郎・--・百円ーー・太郎」と置き換えられる。この三点形式でも、一体関係と分離の関係は同じである。従って「次郎は<百円>を太郎に貸し運ぶ」と訳しうる。
つまり、二点形式では、移動格は起点格が兼務するが、三点形式では、中点格が移動格を務めることになる。
無論、従来の文法学における便宜上の格関係は全否定である。
今見たような式化は、動詞述語に限られ、形容詞述語に働くものは、状態化と過程化の二種ではないかと考えている。
たとえば、文「象は鼻が長い」での述語は状態化して文意を安定させている。
「地球は丸い」も同じような働きをしているようだが、「地球は平らだ」という考え方が支配的な時代にあっては、文「地球は丸い」は、主述の間で意味的ギャップを引き起こす。
このときの、述語に規定されえない主語のコワモテの、絶対的なイメージが(詩語のように)ひとり歩きするとき、述語は過程化するのではないか(例:登校拒否児童の太郎が仕置き場という学校へ逝く)。
動詞述語の時間作用を考える場合、障害になりやすいのが「風が吹く」のような二語文の存在である。これに対する私見は、計算過程への転換はないと解している。
というのは、例題の主語は、述語の同化作用をこうむっても「名詞」は「名詞」である。こうして異化作用の洗礼を受けた名詞の残骸は一個のために組すべき相手がいないという不自然な事態が生まれる。
これが「する」と訳される動作動詞の持つ「文意の不安定化」の原因ではないかと考えている。だから見た目には「仕掛け」と映るのではなかろうか。そこで仕掛ければ述語は「神風が吹くようになる」と過程化する。
仕掛けなければ、述語は安定化して「本来的な風が吹く」と主語規定が行われ、あるいは「吹いている」と助動詞化した上で、文意を安定させようとする。
無論、こういう考え方は、述語論理学の盲点を突き刺すに違いない。
なお、記号処理の際の二語文等は、何の妨げにもならないことをば付け加えたい。つまり、ゆるい関係は、破線で代行。
以上、二種の動詞のイメージについて述べた。
ノート7■驚異の実例報告
テキストは、青森県西津軽郡の昔話『桃の子太郎』(『日本の昔話Ⅱ』岩波書店)を使用。
引用は、冒頭の十一行の文章に及ぶが、個々の文に番号札をつけた上で、点と線の関係に置き換えている。これは文のシークエンスでの文法機能を見極めるためのアカデミックな観察方法である。従来の文法論では、単文に限られての研究や観察報告しかない以上、弊論の試みは式化も含めてすべての試みが斬新といえる。
置き換えに当たって、「爺様」と「婆様」はpとqで表示。*印は移動格を意味し、線上にない場合は、始点格が兼務するものとする。なお、要の語が省略の場合、( )付きで表示した。動詞などの解消語は、すべて下段に表示。ただし、格助詞は省く。
①昔、むかし、あるところに爺様と婆様とがあった。
pとq・--・昔、あるところ アル・タ
②婆様が川へ洗い物に行った。
洗い物
q・--*--・川 行ク・タ
③すると川の上の方からきれいな箱が流れてきた。
きれいな箱
川の上の方・--*--・q スルト・流レテクル・タ
④婆様が拾って、中をあけてみた。
q・--・(きれいな箱) 拾ウ・テ
q・--・箱の中 アケテミル・タ
⑤すると、桃こ一つ入っていた。
桃こ一つ・--・箱の中 入ッテイル・タ
⑥家に持って行って、爺様にみせる気になって箪笥の中にしまっておいた。
(箱)
q・--*--・家 持ッテ行ク・テ
(箱)
q・--*--・爺様 見セルキニナル・テ
(箱)
q・--*--・箪笥の中 シマッテオク・タ
⑦すると、爺様が山から帰ってきた。
爺様
山・--*--・(家) スルト・帰ッテクル・タ
⑧爺様も面白かったので、また箪笥の中にしまっておいた。
p・----・(きれいな箱) 面白カッタノデ
(きれいな箱)
P・--*--・箪笥の中 マタ・シマッテオク・タ
⑨すると夜中になっておぼこの泣く声がするので、どこだべなと思って探しにいった。
(X)・----・夜中 スルト・ナル・テ
おぼこの泣き声・--・(qの耳) スル(聞コエル)・ノデ
(おぼこの泣き声)
(q)・--*--・どこだべな 思ウ・テ
(おぼこの泣き声)
(q)・--*--・探し 行ク・タ
⑩すると、何でも箪笥のなかで泣くような声がした。
泣くような声
(qの耳)・--*--・箪笥の中 スルト・何デモ・スル・タ
⑪それで、婆様が箪笥のなかを開けてみると、めごい男の子が生まれていた。
q・--・箪笥の中 ソレデ・開ケテミル・タ
めごい男の子・--・箪笥の中 生マレテイル・タ
一 ひとつの文を取り巻く環境について。
二 環境的な因子を取り除いて、純粋に文と接しえることが可能か。
三 純粋な文の抽出が可能とした場合、その文のイメージとは。
四 その際の動詞のイメージとは。
まずは、一の「環境」であるが、これはこれまでの文法研究において閑却されていた問題で、いかにして環境的な因子を取り除き、純粋な文を取り出すかの試みである。
時枝の文規定のひとつ「完結性」は、「環境」の問題と無縁ではなく、この手間を省きがたいための性急な説という考え方もできる。
単文を取り巻く環境として、次のような「内」と「外」の二つの考え方が導かれる。
Ⅰ そこにある文は、ある前提の展開として捉えることができる。前提的なそれを「過去」とおく。過去からの展開が「現在」にほかならず、それが「文」として顕在しているのである。とすると、現在の次の展開として「未来」があるという考え方が導かれることになろう。
Ⅱ もうひとつの環境として、そこにある文は、それとは異なった別の文が「前」にあり、前文の展開として次の文があると考えられる。すると、更なる展開として別の文が「後」に用意されると。
たとえば、次のような文章では、二番目の文に関する限り、環境としてのⅡのような外的な条件を満たしている。
《むかし津軽の国、神梛木村に鍬形惣助という庄屋がいた。
四十九歳で、はじめて一子を得た。
男の子であった。
(太宰治作『仙術太郎』)
では、Ⅰのような内的な条件はどうだろうか。
「四十九歳で、はじめて一子を得た」という二番目の文に注目する限り、その文は〈男には妻がいたが、長い間、子供ができなかった〉という前提の下に展開している。しかし、前の文は、「鍬形惣助という庄屋」という男についての説明しか行っていない。
このことから両者の間にはズレのあることがわかる。だから、そこに文があるということは、前文の外的な展開としてあると同時に、内的な前提的意味の展開でもあるという考え方が導かれよう。
しかし、内的な意味としてどのような「未来」が開けるのかまでは読めないでいる。「長い間、子供が授からなかった」という前提的な意味を踏まえれば、それは「非常な喜び」を未来に用意するかもしれないが、こと文の内的な未来に関する限り、先の展開はやすやすと読めるものではない。
引用では、「男の子であった」という文を配している。それは前の文の外的な展開であるが、必ずしも内的な意味の展開に結びつくわけではない。が、未来は感動の解消に向かうという意味では、内的な意味の解消に役立つものといえる。なぜなら、三番目の文は、「なんと男であった!」と内的に訳せるからだ。
そういう考え方は、一方で、単一の文を取り巻く内的な環境の有無に限らず、外的な環境は整っているという考え方を用意させるし、外的な環境の有無に限らず、内的な環境は整っているという考え方も可能にする。あるいは、環境的なものをまったく無視して、単一の文について純粋に観察できるという考え方を生む。
I have a pen.■たとえば「I have a pen.」という英文に接するときの私たちの態度は、どちらかというと後者に近い。しかし、それを訳した文「私はペンを持っている」と接するとき、純粋な観察態度は維持できないと思う。というのは、翻訳に際して、知らず知らずのうちに、文化的な介入を行っているからだ。
いうまでもなく、動詞haveと対応する日本語は「持つ」である。にもかかわらず、「持っている」と意訳する。
この理由は、直訳「私はペンを持つ」と置くと、あたかも戦場を前にして、「ペンは剣よりも強い」といった調子の、原文にはない石と化した決意表明のごときものが伝わるからであろう。
でなければ、「持っている」と置くことで、文意が安定するからだ。
では、立場を逆にして、英米の文法家は「I have a pen.」と接するとき、日本人と同程度に純粋な態度で文を観察することができようか。
これは語学にくらい自分の推理でしかないが、少しでも例題と向き合う機会があれば、同じように、「(戦場では)私はぺンで戦う」といったジャーナリスト風の気概を読むのではなかろうか。 でなければ、外的な環境の整った中でのありふれた一文である。
それでも「I have a pen.」を運用から、言い換えると、それらの環境から切り離して、独立的な一個の文として観察ができようか。
できるのならば、理由は、例文がひとつの完結した世界と考えられているからであろう。
ところで、この場合の完結とは、どういう意味を持つ用語であろうか。
《A sentence is a word or group of words capaple of expressing a complete thought or meaning.(前掲書三三〇ページ)
時枝の説明によると、上にあるcompleteの訳語よって普及したとある。訳は「完全」か「完結」かで迷うとしたあと、「思想の完結したる」という翻訳の紹介につとめているが、別のところでは、次のように述べている。
《完結と完全との根本的相違は何処にあるかといへば、完全とは主観的基準に於いてのみいひ得ることであって、完結とは客観的に規定された事実である。(前掲書)
上にあるような主観と客観の区分けはナンセンスであろう。
たとえば、「完全なる人間」とはいいえても、「完結したる人間」との言い方は成立しない。このわけは、それぞれが空間と時間を基準としているからだ。
絵画が空間芸術とすれば、「完全な絵」といいえるように、小説が時間芸術とすれば、「完結したる小説」といいえる。
それでも、逆の言い方がは成立するのは、シリーズものの絵に限定しての「完結したる絵」のいいであり、小説の場合は、空間的な造形性になぞらえた上での「完全なる小説」という破格の評価法が例外的に成立する。
このように見てくると、時枝のいう「思想の完結したる文」という言い方のおかしいことに気付くはずだ。なぜなら、文という空間的なイメージに対して、完結という時間的なイメージでもって律しょうとしているからだ。
それでも、そういう言い方が成立するのは、単一の文には空間的には思想が宿り、時間的には、完結しえるものと考えているからであろう。
この意味では、時空を兼ねた文規定を行ったことになる。
註)時枝の用語では、空間的なものを「主観」的といい、時間的なものを「客観」的と言い表したとみている。
引用も含めて伝わってくる完結のイメージは、およそ「完備」ではなかろうか。
言い換えると、文としての条件が完備していれば、それをもって文の完結の意義と定めるーーと。
ただし、短絡的な思考の後だけが歴然たる欠陥として残っている。
その点は、こう考えることによって論理的な整合性がえられるのではないだろうか。
条件が完備さえすれば、文には「装置」のようなものが作動して、意味的「内」的に完結する。
ということは、文としての条件が完備し且つ意味的に完結した文があれば、間には「地球機能」と呼ぶべき文法機能が力を発揮している思われるから、機能を摘出すればいいことになろう。
なんための摘出か?
それが弊論の目指す《闇》たる、動詞のイメージに他ならないからだ。
感動文が純粋な文■なんといっても一番の障害は、前途に立ちはだかる言葉の壁である。 入り口でたちはだかる「文としての条件」をどう捉えるかである。
通念的には、主述のほかに、述語の性質に応じて目的語や補語を含むものを指すと見て支障なかろう。
時枝の詞辞説に従うと「花よ」でもって、「文の条件」は完備ということになりそうだ。
たとえば、次のような使い古された文である。
太郎は学校へ行く。
すべての文例についていえることだが、いくら条件の点で満足できても、「風船玉」のごときものとして直ちに観察の対象とすることができない。
なぜなら、文のあること自体が、内外の環境に取り囲まれてあることに変わりがないからだ。
この事実は、国語学者らの用いる例題そのものに対して向けられたひとつの疑念なのだが、先の文も含めて、多くが感動文に置き換え可能なのだ。
象は鼻が長し。 「何を食べる?」「ウナギ」
山は雪か。 私は大野です。
木の葉が舞ふ。 裏の小川はさらさらと流れ。
波が岸を噛む。 このテーブルで食べませう。
春が訪れる。 水が飲みたい。
地球は丸い。 酒に飲まれるな。
動詞は渡る。 前へ進め。
労働は運ぶ。 ・・・・・・
上の左側の文は、いずれもなんという言葉をかぶせて、感動文としての取り扱いができる。
ただし、右側は例外。
このことから、発見の感動が個々の平叙文を包み込んでいるのではないかと考えた。
こうして最後に立ちはだかるのが、どういう文例を使うかという点だ。
そこで思うのだが、先に掲げた感動に裏打ちされた文こそは、文としての条件を満たしかつ独立し、さらに、完結かつ充足した意味的世界を有するのではないか。
とすると、内外の環境的な意味から独立した、純粋な文こそ感動文と認められるであろうか。
それならば、前述したように、あたりの前の関係と思われていた事柄に文法機能があると仮定して、「装置」のようなものを引きずり出せば、この仕事は完了したも同然であろう。
その際に「風船玉」の使用をためらわせるのは、感動の処理である。覆不覆のいずれの文を採用すべきかどうかで悩むのだ。
二種の動詞のイメージ■どちらでもいいというのであれば、文法機能は、述語が主語を規定する力に現れている。
たとえば、文「吾輩は猫である」は、主述をかねている点で条件を満たしている。しかし、意味的には矛盾を抱え込んでいるから、本来ならば文法的なトラブルを引き起こさずに入られない。
しかし、意味的なおかしさは総合的に包み込まれている。この場合、述語が主語を規定する力はエヘンとでも威張りたがっている「吾輩」なるイメージの修正に取り掛かっている。
かくしてひげを生やした謹厳な紳士のイメージは、本の表紙にあるような、ひげを生やした愛らしい猫顔のイメージ・キャラクターに取って代わられる。
このとき、主語が何の規定も受けなければ、意味的矛盾がひとり歩きすることになる。
このひとり歩きの好例は、「動詞は渡る」という文によって別の意味の確認が取れよう。
もし主語「動詞」のイメージが述語の力によって修正もされず、固定したままであると「渡る」という述語との間に生じる意味的ギャップが克服できないことになる。
この力こそが述語の持つ「時間作用」ではないかと考えている。動詞的な時間が主語や目的語を取り込む際の「同化作用」として威力を発揮するのだ。
しかし、主語や目的語は取り込まれても時間ではない何かであるから、当然そこには「異化作用」が生じる。こうして生まれた「時間ではない何か」が時間のファイナル・アタックを受けて「転化」し、未来に向かって投げ出されるのだ。
今見たような述語の持つ三種の働きが、いわゆる《意味的分類法》として還元される「ある=状態」「する=動作」「なる=過程」と訳されるところの、三種の働きではないかと受け取っている。
そうやって動詞述語の持つ時間作用は、文表現を計算過程に転換してしまう。
それは、究極のところ、加え算ではないかというのが持論である。
次は、そのいくつかのパターンを見ることにする。
Ⅰ 加算 太郎は花子と出会う。太郎は学校へ行く。
Ⅱ 名詞化 太郎は学校を休む。太郎は花子を殺す。
Ⅲ 主客転倒 太郎は次郎から百円を借りる。
Ⅰのケースでは、「A・--・B」と二点形式に置き換え可能である。Ⅱのケースでは、単純に置き換えたのでは、式は「行く」の意味になるから「太郎・--・休みーー・学校」と三点形式に置き換える必要が生じる。この場合の「太郎」と「休み」は一体関係にあるが、「休み」と「学校」の関係は分離の関係にある。だから、式は「太郎は学校へ<休み>を運んだ」と訳しうる。Ⅲでは、「次郎・--・百円ーー・太郎」と置き換えられる。この三点形式でも、一体関係と分離の関係は同じである。従って「次郎は<百円>を太郎に貸し運ぶ」と訳しうる。
つまり、二点形式では、移動格は起点格が兼務するが、三点形式では、中点格が移動格を務めることになる。
無論、従来の文法学における便宜上の格関係は全否定である。
今見たような式化は、動詞述語に限られ、形容詞述語に働くものは、状態化と過程化の二種ではないかと考えている。
たとえば、文「象は鼻が長い」での述語は状態化して文意を安定させている。
「地球は丸い」も同じような働きをしているようだが、「地球は平らだ」という考え方が支配的な時代にあっては、文「地球は丸い」は、主述の間で意味的ギャップを引き起こす。
このときの、述語に規定されえない主語のコワモテの、絶対的なイメージが(詩語のように)ひとり歩きするとき、述語は過程化するのではないか(例:登校拒否児童の太郎が仕置き場という学校へ逝く)。
動詞述語の時間作用を考える場合、障害になりやすいのが「風が吹く」のような二語文の存在である。これに対する私見は、計算過程への転換はないと解している。
というのは、例題の主語は、述語の同化作用をこうむっても「名詞」は「名詞」である。こうして異化作用の洗礼を受けた名詞の残骸は一個のために組すべき相手がいないという不自然な事態が生まれる。
これが「する」と訳される動作動詞の持つ「文意の不安定化」の原因ではないかと考えている。だから見た目には「仕掛け」と映るのではなかろうか。そこで仕掛ければ述語は「神風が吹くようになる」と過程化する。
仕掛けなければ、述語は安定化して「本来的な風が吹く」と主語規定が行われ、あるいは「吹いている」と助動詞化した上で、文意を安定させようとする。
無論、こういう考え方は、述語論理学の盲点を突き刺すに違いない。
なお、記号処理の際の二語文等は、何の妨げにもならないことをば付け加えたい。つまり、ゆるい関係は、破線で代行。
以上、二種の動詞のイメージについて述べた。
ノート7■驚異の実例報告
テキストは、青森県西津軽郡の昔話『桃の子太郎』(『日本の昔話Ⅱ』岩波書店)を使用。
引用は、冒頭の十一行の文章に及ぶが、個々の文に番号札をつけた上で、点と線の関係に置き換えている。これは文のシークエンスでの文法機能を見極めるためのアカデミックな観察方法である。従来の文法論では、単文に限られての研究や観察報告しかない以上、弊論の試みは式化も含めてすべての試みが斬新といえる。
置き換えに当たって、「爺様」と「婆様」はpとqで表示。*印は移動格を意味し、線上にない場合は、始点格が兼務するものとする。なお、要の語が省略の場合、( )付きで表示した。動詞などの解消語は、すべて下段に表示。ただし、格助詞は省く。
①昔、むかし、あるところに爺様と婆様とがあった。
pとq・--・昔、あるところ アル・タ
②婆様が川へ洗い物に行った。
洗い物
q・--*--・川 行ク・タ
③すると川の上の方からきれいな箱が流れてきた。
きれいな箱
川の上の方・--*--・q スルト・流レテクル・タ
④婆様が拾って、中をあけてみた。
q・--・(きれいな箱) 拾ウ・テ
q・--・箱の中 アケテミル・タ
⑤すると、桃こ一つ入っていた。
桃こ一つ・--・箱の中 入ッテイル・タ
⑥家に持って行って、爺様にみせる気になって箪笥の中にしまっておいた。
(箱)
q・--*--・家 持ッテ行ク・テ
(箱)
q・--*--・爺様 見セルキニナル・テ
(箱)
q・--*--・箪笥の中 シマッテオク・タ
⑦すると、爺様が山から帰ってきた。
爺様
山・--*--・(家) スルト・帰ッテクル・タ
⑧爺様も面白かったので、また箪笥の中にしまっておいた。
p・----・(きれいな箱) 面白カッタノデ
(きれいな箱)
P・--*--・箪笥の中 マタ・シマッテオク・タ
⑨すると夜中になっておぼこの泣く声がするので、どこだべなと思って探しにいった。
(X)・----・夜中 スルト・ナル・テ
おぼこの泣き声・--・(qの耳) スル(聞コエル)・ノデ
(おぼこの泣き声)
(q)・--*--・どこだべな 思ウ・テ
(おぼこの泣き声)
(q)・--*--・探し 行ク・タ
⑩すると、何でも箪笥のなかで泣くような声がした。
泣くような声
(qの耳)・--*--・箪笥の中 スルト・何デモ・スル・タ
⑪それで、婆様が箪笥のなかを開けてみると、めごい男の子が生まれていた。
q・--・箪笥の中 ソレデ・開ケテミル・タ
めごい男の子・--・箪笥の中 生マレテイル・タ