横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

芥川のゲーム理論▽横断論⑫の2

2007-11-02 10:31:45 | Weblog
『タバコと悪魔』に隠されたギャンブル用語■以上が作品の「読み直し」に関係したものだが、今度は「ヒトモク」の用語規定に迫る。
 「ヒトモク」という賭博用語は、作品『タバコと悪魔』にこそ由来すると思われるので、まずは抜粋である。

《ー-その代わり、私が勝ったら、その花の咲く花をいただきますよ。
ーーよろしい。よろしい。では、確かに、約束しましたね。
 ーー確かに、御約定いたしました。御主エス・クリストの御名にお誓い申しまして。
 伊留満は、これを聞くと、小さな目を輝かせて、二、三度、満足そうに鼻を鳴らした。それから、左手を腰にあてて、少しそり身になりながらも、右手で紫の花にさわってみて、
 ーーではあたらなかったらーーあなたの体と魂とを、もらいますよ。

 紅毛の人に化けている悪魔「伊留満」は煙草畑の前を通りかかった牛商人に、煙草をメモクにして賭けることをすすめている。草の名前を言い当てたときは、それを全部やるという。反対に、言い当てることができなかったときは、体と魂をもらうというのは、ヒトかモクかのことであり、ここから「ヒトモク」という言葉の誕生が考えられたとしても何の不思議もない。
 ここにおける煙草と牛商人と悪魔の三者関係が、ほぼ『羅生門』での倒錯的ともいえる三者関係と対応する。メモクとは「美しい娘」の換喩であろう。とすると、「美」は即自的な存在として、彼とともにある。この上なき幸福の状態にあるのだが、その幸せに目覚めることがあるとすれば、そのときの彼ははじめて対自的な存在者、即ち、ヒトモクに生まれ変わり、同時に、脱自、つまり、「良心」の支配下におかれることになる。言い換えると、美と良心の間にあって翻弄される人間の換喩が「牛商人=ヒトモク」なのだ。
 ところで、これまで取り上げた芥川の作品には一度として「美しい娘」というヒロインが登場しておらず。誰でも気になる点であろう。
 そう思って作品を読み返すと、それらしき人物が『羅生門』にいることに気づかされる。例の「蛇を切り売りする髪の長い女」である。死体なのだが、生前の彼女は「それはそれは美しい娘であった」とすれば、髪を盗みたがる老婆の気持ちは少しは理解できるのではないか。   
 では、老婆がパラノイアともいうべき、倒錯的な美の崇拝者とするならば、「追剥ぎ」をする下人とは、悪魔の化身なのか?
 この問いに対して明らかに言えることは、作家自身はそのようには下人を人物設定してはいないことだ。かといって、「老婆」に喩えられるようなエゴイズムの塊でもない。彼こそは善良な心を持った人間なのだ。それも脱自的存在、つまり、作家の「良心」を代表させているのだ。
 とすると、下人と老婆は近代人の持つウェヌスのごとき相反する二つの顔を代表させたことになろうか。
 そんな善良な心を持つ下人があの鬼気迫る問答を了えた途端、「リンチ」ともいうべき制裁をどうして老婆に加えることができたのか。
 このときの下人こそ悪魔の心を持ち、無実の老婆こそ濡れ衣を着せられたばかりに赤裸々な人間の心をさらけ出しているのではないか。

 詭弁を弄しているのではない。外から見れば、どちらも悪いように見える民事事件も、ウォッチングの眼で裁判所の傍聴席に立ってみると、白黒の見分けがつくまでに眼が肥える。
 そうだとして、もし、物語のピークに役割の交代という劇的な変化があれば、二点間の中点に小説的な「スーパー機能」が宿ると仮定することができる。仮定は、すぐにでも「超論理」の存在によって裏付けがとれる。と同時に、下人の用いた論理に逸脱のあることが暴露される。
 こうして下人の悪魔的良心と老婆の潔白性という対照的な立場が明らかになったところで、それが何になるというのだろうか?

 と、こういう自問は、どこに由来するのであろうか。

 自分にしてみれば、これ以上のサービスはないと考えているのだが、それがダメとする根拠は、・・・・不可解である。

「羅生門」の民事事件への置き換え■事の次第が明らかになったところで、小説機能の作動する、ホットな・近代設備の整った工場の中を見学することにしよう。
 そのために、物語の主だった流れを追うことから始めたい。

 下人が一夜の宿を羅生門の楼にもとめる。上ってみると、放置された死体に混じって、意外なことに人がいる。しかも、不審な動きである。そこで勇気をふるつて追い詰めると、老婆であった。黙秘権を行使するようなので、思い余って刀を突きつけて自白を強要すると、「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたのじゃ」と喘ぎつつ、なにやら犯行の動機めいたものを打ち明けてきた。余りの凡庸さにがっかりしていると、なんと自らの行為を正当化するようなことまで言い出したではないか。「なるほどな。死人の髪の毛を抜くということは、なんぼう悪いことかもしれぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいのことは、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などは、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だというて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいたことであろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいというて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは。この女のしたことが悪いとは思うていぬ。せねば、餓死をするのじゃて、しかたがなくすることじゃわいの。じゃて、そのしかたのないことを、よく知っていたこの女は、大かたわしのすることも大目にみてくれるであろ」。それに対して、下人は「きっと、そうか」と念を押すと、「では、己が引剥をしょうと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死する体なのだ」というなり、老婆の着物を剥ぎ取ると、その場から遁走をはじめる。

 物語のピークは、老婆の心を漂白した瞬間とその後に起こる下人の盗人への変身の二点に的を絞る。
 両者の関係について、「食物連鎖」とか「エゴイズム」云々とする意見が多いが、とにかく、権利者と義務者の関係に置き換える。法論理の観点から眺めると、「超論理」が駆使されているからだ。
 下人は利害当事者ではないが、遺族の債権者サイドに立つ法定代理人である。一方の老婆は、返済を迫られている哀れな債務者である。
 老婆の言い分は、次のように訳せよう。

「私はこの女から金なんど借りた覚えはない。確かに、死後に借りたことは事実だが、それは女が生前生きるためにやむを得ず借りた金を病で倒れたために返せずにいるから、そのままでは心苦しかろうと思って、全額とはいわないまでも利子分を私が貰い受けたものだ。多分、あの世にいる女は、それを許してくれると思う」

 言い分は大筋において問題はないが、細部に引っかかりのある債務不服申し立てである。
 というのは、死後に金を借りた件に関して死者の魂を弔うためと供述しているわけだから、返済すべきかどうかの点は争点にならないと申し立てていることになる。
 だから、それが弔いか否かについて議論の余地が生まれるところ、債権者サイドに立つ下人は、問答無用とばかりに弁を競おうとはせず、債務者の敗勢に乗ずるように、代理人の権利を執行している。それだけではなく、巻き上げた金を依頼人に渡さないで私物化したわけだから、代理人は利害関係にある双方の当事者に対して二重の罪を犯したことになる。

 そのときの下人の「きっと、そうか」と念を押した後、「では、己が引剥ぎをしようと恨みまいな、己もそうしなければ、餓死する体なのだ」という言い訳は、法論理から見れば「逸脱」というほかはなく、老婆のとった行動が正当と認めるならば、債務者は債務から解放されたのである。そして、下人は自らが正当と認める行動、このケースでは、死者からの略奪を執り行うべきなのだ。
 にもかかわらず、私情を打ち明け、債権の取立てを強行執行したわけだから、下人の行ったことは、「私刑」執行の際の権利の濫用以外の何者でもない。結果的に、下人ひとりが道を誤ったのである。

 このことからいかなるアレゴリーが引き出せるだろうか?
 と、このケースでの、そういう問題設定は不要であろう。いくら鬼才の芥川といえども、そこまで読んでいたとは考えにくいからだ。ただ、ウバの着物には霊力が宿るように、老婆の着物に「民話機能」を宿らせたお話とは言える。
 というのは、下人が霊力を奪うことで不死の生命力を獲得したのに対し、不死の老婆は霊力を失うと同時に衰弱死したと考えられるからだ。


今一度、「悪魔と煙草」■論を戻すことにすると、「美」に翻弄される牛商人は煙草がなかった時代のことだから、紫色の花を咲かせる魅惑的な草の名前など知るべくもない。絶望の淵にあると思われた行商人は知恵を振り絞って、悪魔自身の口から草の名前を聞き出すことに成功する。

「この畜生、なんだって、己の煙草畑を荒らすのだ」。

 賭け事は、牛商人が勝って「美しい娘」と晴れて結婚するのだが、芥川は「この伝説に、より深い意味がある」として、次のように「寓意」を引きだして見せる。

《悪魔は、牛商人の肉体と霊魂とを、自分のものにすることができなかったが、その代わりに、煙草は、あまねく日本全国に、普及させることができた。してみると、牛商人の救抜が、一面堕落を伴っているように、悪魔の失敗も、一面成功を伴ってはいないだろうか。悪魔は、ころんでも、ただは起きない。誘惑に勝ったと思うときにも、人間は存外、負けていることがありはしないだろうか。

 上の文章は、実をいって、歯切れが悪い。「煙草こそは悪魔」としたい基本的な考え方が伝わってくるのは、まあいいとしても、「(美の)誘惑に勝つ」云々は、余りにも常識的すぎる。しかし、牛商人がそのときヒトモクとして自己の体と魂を悪魔に差出さえすれば、煙草はあまねく普及することはなかったとでも伝えたいのなら、至極論旨のあいまいな文章といわねばならぬ。なぜなら、煙草=悪魔による汚染は、煙草の播種によってすでに始まっているからだ。つまり、悪魔に負けたときも、人間は存外勝っているものだと論を結べるからだ。

 それにしても奇っ怪な作品と感服せずにいられないのは、それまで人間の仮面をかぶせていた悪魔をそのままの姿でゲームに参加させたことだ。だから、かえって種を明かす気になったことに対して不審の念が呼び起こされるのだ。
 理由として、持ちパイの手薄な状況を考えてみたが、涸れるどころか、以後の芥川は量産態勢に入っている。ということは、それまで無意識に組み立てていた「ゲーム理論」の存在を自覚したことの現われと受け取りたい。
 特に、心境の上で飛躍があり、それまで禁欲的な態度をとり続けた作者が誘惑に負けたことにして、美=メモクとするギャンブラーとしての危険な第一歩を踏み出したのではないか。


最後に、『手巾』■最後に、『手巾』を取り上げる。品行方正な作品で、姿勢の正しさだけでも「一流」と判を捺したくなる秀作である。

《そのとき、先生の目には、偶然、婦人の膝が見えた。膝の上には、手巾を持った手が、のっている。・・・・が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、ふるえているのに気がついた。ふるえながら、それが感動の激動を強いておさえようとするせいか、膝の上の手巾を、両手で裂かないばかりにかたく、握っているのに気がついた。そうして、最後にしわくちゃになった絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微風にでもふかれているるように、ぬいとりのあるふちを動かしているのに気がついた。--婦人は、顔でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたのである。 

 上は、先生が手に持っていた朝鮮うちわを床の上に落としたので、それを拾おうとしてたまたま眼にした、婦人の「膝の上」の出来事である。その中で何が「美」かと問われれば、これまでに述べたいきさつで「手巾」としか答えようがない。というのは、フェチ特有の美意識が婦人の握り締めたものに吸い付いているからだ。
 婦人の演技は確かに感動的なものだが、劇作家ストリンベルグの言葉の引用によって、「臭い」とされる。

《・・・・私の若い時分、人はハインベルク夫人の、たぶんパリから出たものらしい、手巾のことを話した。それは、顔は微笑していながら、手は手巾を二つに裂くという、二重の演技であった。それを我らは今、臭味と名づける。

 メッツヘンが、最後に再度登場する。

《先生は不快そうに二、三度頭を振って、それからまた上目を使いながら、じっと、秋草を描いた岐阜ちょうちんの明るい灯をながめ始めた。

 上の「秋草・・・・」は、三好によって「小説の首尾を貫」くと評されるものだが、型が「死」を暗示しなくなったとき、換言すると、婦人の迫真の・そして魅惑的な演技にも心が動かされず、先生がゲームの勝利者として生の方に振り分けられるならば、それは演技同様、「臭い」ものにちがいない。

(完)
2004/4/21記

最新の画像もっと見る