以前にも職場で読みましたが、映画公開に向けて文庫が出たのでもう一度読みました。
不倫相手の懇願に負け、子供を2度失った野々宮希和子。
「もう自分は母親にはなれない」と思いつめた彼女は、不倫相手とその妻の間に生まれた赤ん坊を
連れ去り、薫と名づけて逃亡を図る。
世間と隔絶された場所で暮らす女性のみの組織・エンジェルホームに薫とともに身を寄せた
希和子だったが、彼女たちの奇妙な生活がマスコミの注目を集め、そこにもいられなくなってしまう。
希和子は3歳になった薫を連れて、ホームで親しくなった久美という女の故郷・小豆島に辿り着くが―
―18年後。薫は両親が名づけた“恵理菜”という名前で暮らしていた。
誘拐事件以来、恵理菜の家庭は崩壊し、両親とは絶縁状態。
そして恵理菜の体には、妻子ある男性との間にできた新しい命が宿っていた…
※ネタバレあります。要注意!
この小説から学んだこと、それは
・子供を取るか男を取るか迷ったら、子供を取れ。
ということ。あとは
・「もうすぐ女房と別れるから今は堕ろしてくれ」なんていう男は信用してはいけない。
・大事な人が亡くなって心が弱っているときに近づいてきた男とはつきあうな。
といったところですね。嫁入り前の清い身のお嬢さん方、要注意ですよ。
当たり前みたいなことばかりですが、真面目な人ほど罠に落ちちゃうんですから!
「自分は大丈夫」と思っている人こそ、気をつけて下さいね!!
前回読んだ時も思ったのですが、今回もまた恵理菜の母親・秋山恵津子のあまりにもひどい
母親失格ぶりに読みながら何度も「うげぇ」と唸ってしまいました。
なんでここまでひどい、一片の同情も与えられない人間に描くんだろうと。
読者を完全に主人公(希和子)の味方につけるため?
「こんな母親に育てられるくらいなら、薫はあのままずっと希和子と暮らした方が幸せだった」と
読者に憤ってほしいから?それとも恵津子は特定の憎い誰かの投影だから?
ステレオタイプな悪人は、物語を単純化してしらけたものにしてしまうのに。
そう思って読後しばらくもやもやしていたのですが、離れて住んでいる姉(『八日目の蝉』既読)に話したら
「それは、作者にとっての母親像がそういう人(=恵津子みたいな人)だったんじゃないの?」
という答えが返ってきて、それでようやく納得することができました。
なるほど、確かに「対岸の彼女」も「空中庭園」も、出てくる母親はヒステリックだったり
異常な執着心があったりして、薫にとっての希和子のような“理想的な母親”ではありませんでした。
希和子という“もうひとりの母親”がいたせいで混乱してました。恵津子は角田ワールドにおいては
“母親のデフォルト”だったわけですね。恵津子の夫で希和子の不倫相手の丈博も、「空中庭園」の
絵里子のダンナの貴史とキャラが近いかも。なんだーそうかー、あーすっきり。
(2月7日追記)
でもそう考えたら、恵津子は娘と分かりあえるチャンスをあたえられている分、これまでの角田作品の母親と
比べると、まだ“救い”があるのかも。だって恵理菜は、これまで絶望的な関係だった両親と、新しく
生まれてくる命を育てようと決意するのだから。
…まあ、これは私の考えすぎかもしれませんが。こんなこと感想に書く人ほかに見たことないし。
秋山夫婦についてすっきりはしたものの、希和子については哀れみと同時に恐怖を感じました。
0章で恵理菜を連れ去るくだりの「私だったら、絶対にこんなところにひとりきりにしない」。
「私だったら」は、不倫相手の妻で恵理菜の母親の恵津子への憎しみのあらわれなのかと、
ちょっとひっかかりました。そして恵理菜を生まれなかった自分の子供の名前・薫と名づけたのは、
恵理菜に何を託したかったのか。「私がまもる、まもる」と呪文のようにくりかえして守りたかったのは、
腕の中の幼い命なのか、悲しい過去を背負った自分自身なのか、手に入れたかった温かい未来なのか。
薫を腕に抱いた時から、希和子の心は壊れてしまってたんだなと、0章をあらためて読んで
強く思います。
希和子の怖いところは、不倫相手の子供を誘拐するという常軌を逸した状態でありながら、
友人やエンジェルホームの前では、薫について破綻のない嘘をつきとおせるところ。
きっと本来は聡明な女性なんでしょうね。男を見る目はなかったけれど。
一番ぞっとしたのは、エンジェルホームで自分以外の女性たちに世話をされて育つ薫について、
「でもここにいたら、この子の成長をなんにも見ることができないんだなぁって思ってさみしくなる」
と語る場面でした。いくらなんでも、そりゃないだろ、と。
(憶測ですが、希和子と恵津子はドラマや映画のキャスティングと違って、実は似た者同士
なのではないかと思っています。違うとしても同じカードの表と裏、くらいで。
なんせ同じ男にひっかかるくらいだし。)
最初に読んだ&ドラマを見たときには気がつかなかったのですが、小豆島にはじめて来た時、
薫はまだ3歳だったんですね。3歳の頃の記憶なんて全然残ってないよ、私…。
恵理菜はよく島のことをあんなに鮮明に覚えていたもんだなぁ。それはホームという狭い世界から
飛び出して最初に見た、光さすまぶしい世界だったからだろうけど。
そしてそれ以降まぶしい世界を見てないからだろうけど。
小豆島の描写については、島民としてはあまりに美化されすぎてて腑に落ちないところがありますが、
地元はこの小説&ドラマ&映画で稼げるだけ稼ごうと息まいておりますので(特に我が町の首長)、
ありがたいことと喜ばなくちゃいけないんでしょうね。けっ。
実の両親のところに戻ってからの恵理菜の人生は壮絶で、両親や希和子と違って本人に非がない分
かわいそうに思えて、素直に同情できました。希和子や恵津子と違って、ダメ男ときっぱり別れて
負の連鎖を断ち切ることができたのは立派だと思うし。
もしエンジェルホームにいたころの幼なじみ・千草に会えてなかったら、恵理菜も希和子と同じ道を
歩んだかもしれませんが。ドラマでは単なるツアーガイド的存在だった千草ですが、小説では
「過去に縛られもがいている、もうひとりの恵理菜」として存在感を放っていました。
正直、映画には期待してないけど、小池栄子が演じる千草だけは見てみたいな、と思っています。
希和子のパートに比べると恵理菜のパートはとても短くて、ラストの小豆島行きのフェリー乗り場で
恵理菜が悟りを開く(という表現が一番しっくりくる)場面はいささか唐突に感じました。希和子の
叫び「その子は朝ごはんをまだ食べてないの」を思い出した途端に、実の母親をあっさり許してしまうのも
拍子抜けでした。いや、許すのはいいんだけどさ、もうちょっと段階をふんでほしかったかな、と。
ラストの岡山港(そもそも岡山から船で島に渡るというのがピンとこない…)での希和子と恵理菜の
すれ違いについて、賛否両論(薫は希和子に気づいていたはずとか、2人は再会すべきだったとか)
あるようですが、私はあの小説の終わり方でよかったと思います。
大切なのは、薫/恵理菜が、重く苦しい過去から解放されて、まぶしい未来を進んでいけること。
希和子と恵津子という2人の母親を受け入れ、なおかつ2人とは違う道を選んだこと。
見返りを求めないことが母の愛なら、このラストでこそ希和子の母性は昇華できるのではないでしょうか。
「八日目の蝉」というタイトルの意味は、作中で千草が語る
「(他の蝉は死んだのにたったひとり生き残ってしまった)八日目の蝉は、ほかの蝉が見られなかった
ものを見られる」
ということらしいです。
個人的には恵理菜は「八日目の蝉」というより、長い間ずっと地中にいて、
今やっと光に満ちた世界に顔を出した蝉のように感じます。だって、いくら他の蝉より長生きしてるって
言っても、「八日目の蝉」の未来が洋々と広がっているイメージはないし。
孤独だけれど、強く生きている希和子を指す言葉としてはふさわしいと思うんですけどね。
(2012年3月6日追記)
ネットで調べたら、蝉は希和子のこと、八日目は希和子が薫を連れて、孤独な逃避行をしていた数年間のこと、
という解釈をよく見かけました。小説の中(文庫本343ページの真ん中あたり)にそういった表現があるそうです。
エピローグに出てくる希和子が抜け殻のようで、その姿こそが「孤独な八日目の蝉」だと思ったんですけどねぇ。
どっちにせよ、恵理菜は「八日目の蝉」ではないってことですね。
最後に、どうしても解せなかったことを一つ。
それは、島で久美の母親と通して行われた、希和子の見合い。
そんな、身元も不確かな子連れの女性が、島に来て一年足らずで見合いなんてあるかぁ!
しかも役場の青年って!カタギやないけ!嫁姑問題もないし、優良物件やんか!
島で生まれ育った若い娘でも「出会いがない」ってぼやいてるっちゅーのに!
どんだけ女子力見せつければ気が済むねん!!
はぁはぁ。…はっ!怒りに我を忘れて変なことを口走ってしまった!!
というわけで、再読した「八日目の蝉」の感想はこんな感じです。
1回目よりも2回目の方が内容を深く理解できた気がします(当社比)。
ドラマの内容とごっちゃになってた部分も整理できたし。
映画は映画でドラマとも原作とも違う部分(どうも井上真央と小池栄子が島じゅううろうろするらしい)が
あるでしょうが、さてどうなることやら…。
おまけ:前に読んだ時の感想。
こちらは「八日目の蝉」における中山の虫送りについての個人的な解釈など。
男を取るか、子供を取るか悩んだら・・・
どっちも取らないことをオススメする!
俺この小説読んだらぶちぎれそうだなぁ・・・
読まない。。
やあやあ。コメントどうもありがとう。
>役場の青年のところで吹いた!!!!
なんかね、もう、この見合いのくだりが身につまされて…
おいらもうかうかしてらんねーぜ!と気持ちを引き締めたね。
>どっちも取らないことをオススメする!
それもひとつの選択だな!
大事なのは選ばなかった選択肢を引きずらないことなのかな。
>俺この小説読んだらぶちぎれそうだなぁ・・・
読まない。。
それもひとつのせ(以下略)
八日目の蝉の意味がどうしても理解できません。映画は見ましたが、原作は読んでません。
「希和子の心は壊れてしまってたんだ」ここは何となく理解できます。
角田さんの本はこれよりはっきりしないんですか?逆に興味あります。
で、薫/恵理菜はどうなったんでしょうか?救われたんですか?
はじめまして。コメントありがとうございます。
>八日目の蝉の意味がどうしても理解できません。映画は見ましたが、原作は読んでません。
映画は希和子のその後の話が出てこないので、「八日目の蝉」の解釈が千草の説明のみになりますが、
個人的には小説のエピローグで語られる「その後の希和子の姿」こそが「八日目の蝉」なんじゃないかと思っています。
逮捕され、罪を償って出所した希和子には、一緒に過去を懐かしんだり、
未来を歩む人はいない。
一匹だけ生き残ってしまった蝉のように。
「がらんどう」な自分の体だけを抱えて。
でも、それでも生きていく、たった一人で、前を向いて。
そんな希和子の姿こそが「八日目の蝉」なんじゃないかなあ、と思っています。
>角田さんの本はこれよりはっきりしないんですか?逆に興味あります。
読み手の解釈にまかせます、って感じですかね~。はっきりはしてないと思います。
>で、薫/恵理菜はどうなったんでしょうか?救われたんですか?
現実的に考えると、問題は山積みですがある意味救われたんじゃないでしょうか。
このへんは映画も原作も一緒で、詳しく描かれてなかったですよ。
結末が尻切れトンボ気味なのは、角田さんの他の作品でもよくありますが…。
「がらんどう」な自分の体だけを抱えて。
命とか人格のすり替えを行った希和子の姿が八日目の蝉のとするならば、ある意味で薫/恵理菜がまるで物語の振り出しに戻ったことで、希和子が最後の一日を生きて終るって解釈はいけないですかね。
たまたま時間つぶしに上映時間が合って見てしまった割に心に大きく残り、釈然としないでむしゃくしゃするんです。
こんにちは。
>命とか人格のすり替えを行った希和子の姿が八日目の蝉のとするならば、ある意味で薫/恵理菜がまるで物語の振り出しに戻ったことで、希和子が最後の一日を生きて終るって解釈はいけないですかね。
それもありだと思いますね。
恵理菜は希和子と同じく不倫相手の子供を妊娠したけれど、
希和子とは異なる道を選ぶ、
それで希和子は救われて終わる、って解釈はぴったりだと思います。
釈然としない気持ちはわかります。監督はあえて観客に「?」と思わせたかったのかもしれませんね。
こんばんは。コメントありがとうございます。
>3歳でも賢い子供はずっとその後も記憶があるものです、一概に言えませんよ。
そうですかー。
三島由紀夫の「仮面の告白」でも“生まれたときの記憶がある”なんてのがありましたね。
私は涙した方ですが、「喪われるとわかっているから感動する母の愛」と解説してくれた人がいて自分の感動の理由がしっくりきました。細部を突っ込めばきりはありませんが、小説でなくても現実も矛盾だらけですからねえ。
こんばんは。コメントありがとうございます。
>「喪われるとわかっているから感動する母の愛」
なるほど。うまく解説されてますね。
>細部を突っ込めばきりはありませんが、小説でなくても現実も矛盾だらけですからねえ。
そうですね。矛盾があるからこそ面白いんでしょうね。