1,紀行文執筆の契機
山口瞳の紀行文は、『なんじゃもんじゃ』『湖沼学入門』『迷惑旅行』『酔いどれ紀行』「武蔵野写生帳」『草競馬流浪記』『温泉へ行こう』『新東京百景』がある。1969年1月に『なんじゃもんじゃ』を始めてから、1987年10月に『新東京百景』を終えるまで、ほぼ絶え間なく紀行文を連載している。
紀行文執筆の契機について、山口瞳自身は、《『血族』を書き上げたあと、自分で行動しないと書けなくなったので、編集に頼み込んで紀行文を書かせてもらった》からだと述べている。ただ、この言葉は、『酔いどれ紀行』以降の紀行文を書く契機であり、それ以前の紀行文『なんじゃもんじゃ』『湖沼学入門』『迷惑旅行』にはあてはまらない。
『血族』以前の紀行文を書く契機となったのは、『世相講談』連載終了だろう。山口瞳は、『世相講談』の連載終了後、同じ掲載誌で最初の紀行文である『なんじゃもんじゃ』の連載を始め、それ以降、『湖沼学入門』『迷惑旅行』『酔いどれ紀行』「武蔵野写生帳」『草競馬流浪記』『温泉へ行こう』と、立て続けに紀行文を連載している。『世相講談』連載終了が紀行文を書く契機になったようだ。
また、『世相講談』は様々な業種の人に取材した小説である。「自分で行動」して書くという点では、紀行文と同じである。だから、『世相講談』終了後に、紀行文の連載を始めたことは、「自分で行動」して書くという点では、連続性がある。
2,紀行文の手本
山口瞳は、紀行文制作の上で、内田百、井伏鱒二を手本としたと述べている。例えば、山口瞳が同行者をあだ名で呼ぶのは、内田百の影響だろう。『迷惑旅行』「川の松永、海の鞆」は内田百の紀行文をもとにしている。
井伏鱒二の影響と考えられるのは、その土地の歴史や名勝、主要産業をコンパクトに盛り込む点だろうか。もちろん、これらの事柄は、紀行文であるなら当然盛り込むべき情報ではある。しかし、井伏の紀行文は、これらがとりわけきちんと整理されているのだ。また、井伏の紀行文では、その土地ゆかりの文学者について思い入れをこめて書かれている。山口瞳はこの点も意識していたように思われる。
3,紀行文を書くときのポイント
山口瞳は、紀行文を書くときのポイントとして以下の4点をあげている。
1,よき相棒を見つけること。ただし、一日は自由行動の日を作る。
2,一箇所にじっとすること。飲み屋に行くのも、同じ飲み屋へ何度も行く。毎晩行く。
3,枚数は長くないといけない。
4, 媒体を選ぶこと。良質なユーモアを理解する読者がいる媒体。
出典:「スポーツ気分で旅に出ようか」(『ナンバー』100号1984,6,5)沢木耕太郎との対談。
また、男性自身シリーズの「紀行文の書き方」(『私の根本思想』所収)という文章では、上記の4点を詳しく説明した後、新たに2点付け加えられて説明している。
5,メモを取ること。写真は役に立たない。絵を描くと、土地の人が話しかけてきて面白い話が聞くことができる。
6,健康に留意すること。いかなる旅でも冒険旅行であることを免れない。三宅島の噴火など、近場の旅でも災難に遭うことを覚悟しなければならない。
山口瞳は、これらの事を意識して紀行文を執筆していたようだ。
山口瞳は、日本交通公社出版事業部編『お楽しみ途中下車』(同事業部刊)の書評(『週刊読書人』1965・12・6号)を書いている。その中で、本の紹介と長所を褒めたあとで、希望を二つあげている。
1,その土地らしい風物の記事が欲しいということ。
2, また、主要都市ではなく、あまり知られていない街を取り上げてほしいということ。その土地の記事とは主要産業や名勝、名産であり、一行でいいから触れてほしいという。主要都市云々については、北海道を例に挙げ、帯広や富良野、上川に触れてほしかったとする。
山口瞳自身の紀行文に対する考え方をうかがい知ることが出来る文章である。