正介さんは動物好きで、少年時代に鳥や鯉を飼っていた。飼ってきた鯉を間引きしようとしたとき、山口夫妻は息子をきつく叱ったという。「間引きはアウシュビッツと同じだ」。生まれてくる命を、人間の都合で殺してはいけないということだろう。そういえば、山口家の庭の木々も、枝を剪定することもなく伸び放題であった。
この考えのもととなっているのは、次の二つの体験だと私は思う。一つは「戦争」であり、いま一つは治子さんの「或る病気」に書かれた体験だ。後者については、今ここに書く気になれない。
何を書いても戦争のことになってしまう、と山口瞳は言っている。山口瞳は、出生日が事実通り1月19日であれば、特攻隊などで死亡していた確率が高かったと考えていた。だから、何を書いても戦争のことになってしまう、という。山口瞳より数歳年上の人たちは、山口瞳以上に生涯「戦争」こだわっていた。例えば、古山高麗雄、梅崎春生は、何を書いても「戦争」のことになってしまった作家である。何を書いても私小説になってしまった作家である。山口瞳以上に、書くものすべて「戦争」のことになり、私小説になってしまうのである。山口瞳が、「戦争」の思いを抱きつつ高度経済成長期の中を仕事に邁進する一方で、古山や梅崎はその間もずっと「戦争」とそれに対する思いに囚われていたように思える。それが書くものに如実に現れている。
むろん、それが〈山口瞳の「戦争」に対する思いが薄い〉というわけではなく、「戦争」に費やした時間の多寡であり経験量の差に起因し、それはとりもなおさず生まれた年の違いによる。山口瞳も古山や梅崎らと同じく人格形成期と「戦争」とが重なった世代であり、「戦争」が山口瞳の人格に重大な影響を与えたことは間違いないが、山口瞳以上に人格形成期における従軍期間が長かった古山や梅崎は、その長さと体験に比例するように人格形成において甚大な影響を受けている。
例えば古山の『断作戦』(1981)『龍陵会戦』(1983)『フーコン戦記』(1997)という戦記三部作と『二十三の戦争短編小説』をみると、古山はデビュー以来作家生活のほとんど全時期にわたってコンスタントに戦争小説を書いていることが分かる。梅崎はその作品のほとんどが徴兵前後のことを書いている。この二人は、生涯戦争のことを考え続けた作家といいだろう。
対して、山口瞳は従軍体験を小説にしておらず、「男性自身」の「卑怯者の弁」に書いている程度だ。このほか、軽井沢に疎開した時のエピソードを「三人姉妹」(『華麗な生活』)、「混血の空」(『続世相講談』)、「お菓子を」(『小説新潮』1975.2)に、学生時代の援農体験を『酒呑みの自己弁護』と単行本未収の「少年」(小説新潮1973.5)に書いているが、古山高麗雄と比べてみると、戦争体験を小説化した作品は少ない。山口瞳は晩年になると、戦争に触れた文章がほとんど見あたらない。
山口瞳が「戦争」から受けた影響は、従軍体験や疎開経験といった具体的体験によっているわけでなく、徴兵されるため20歳まで生きられない、という前提のもとに生きざるをえなかった時代風潮によっている。
この考えのもととなっているのは、次の二つの体験だと私は思う。一つは「戦争」であり、いま一つは治子さんの「或る病気」に書かれた体験だ。後者については、今ここに書く気になれない。
何を書いても戦争のことになってしまう、と山口瞳は言っている。山口瞳は、出生日が事実通り1月19日であれば、特攻隊などで死亡していた確率が高かったと考えていた。だから、何を書いても戦争のことになってしまう、という。山口瞳より数歳年上の人たちは、山口瞳以上に生涯「戦争」こだわっていた。例えば、古山高麗雄、梅崎春生は、何を書いても「戦争」のことになってしまった作家である。何を書いても私小説になってしまった作家である。山口瞳以上に、書くものすべて「戦争」のことになり、私小説になってしまうのである。山口瞳が、「戦争」の思いを抱きつつ高度経済成長期の中を仕事に邁進する一方で、古山や梅崎はその間もずっと「戦争」とそれに対する思いに囚われていたように思える。それが書くものに如実に現れている。
むろん、それが〈山口瞳の「戦争」に対する思いが薄い〉というわけではなく、「戦争」に費やした時間の多寡であり経験量の差に起因し、それはとりもなおさず生まれた年の違いによる。山口瞳も古山や梅崎らと同じく人格形成期と「戦争」とが重なった世代であり、「戦争」が山口瞳の人格に重大な影響を与えたことは間違いないが、山口瞳以上に人格形成期における従軍期間が長かった古山や梅崎は、その長さと体験に比例するように人格形成において甚大な影響を受けている。
例えば古山の『断作戦』(1981)『龍陵会戦』(1983)『フーコン戦記』(1997)という戦記三部作と『二十三の戦争短編小説』をみると、古山はデビュー以来作家生活のほとんど全時期にわたってコンスタントに戦争小説を書いていることが分かる。梅崎はその作品のほとんどが徴兵前後のことを書いている。この二人は、生涯戦争のことを考え続けた作家といいだろう。
対して、山口瞳は従軍体験を小説にしておらず、「男性自身」の「卑怯者の弁」に書いている程度だ。このほか、軽井沢に疎開した時のエピソードを「三人姉妹」(『華麗な生活』)、「混血の空」(『続世相講談』)、「お菓子を」(『小説新潮』1975.2)に、学生時代の援農体験を『酒呑みの自己弁護』と単行本未収の「少年」(小説新潮1973.5)に書いているが、古山高麗雄と比べてみると、戦争体験を小説化した作品は少ない。山口瞳は晩年になると、戦争に触れた文章がほとんど見あたらない。
山口瞳が「戦争」から受けた影響は、従軍体験や疎開経験といった具体的体験によっているわけでなく、徴兵されるため20歳まで生きられない、という前提のもとに生きざるをえなかった時代風潮によっている。