映画なんて大嫌い!

 ~映画に憑依された狂人による、只々、空虚な拙文です…。 ストーリーなんて糞っ喰らえ!

マルホランド・ドライブ

2010年05月06日 | 憑映堂雑記
 …不意に、時間の無限化。


 劇中、個々の登場人物が、それぞれ一つのパーソナリティーを担わなければならないという映画のルールはありません。ところが、観客はそういうものを制度として捉え、ついついそれに従おうとしてしまいます。それも、余りにも無防備に…。これは博物館を訪れる感覚では有り得ても、美術館を訪れる感覚では有り得ない事です。例えば、博物館を訪れる人の中に、展示物である恐竜のレプリカを見て、その制作者の表現世界を理解しようと考える人は、まずいないのではないでしょうか。おそらく実物を忠実に再現した物であろうという暗黙の了解だけがある筈です。それも歴史認識としての知を共有する為に便宜上制度として留保しているものに過ぎないもので、制度としての常識を疑わない学者は、まず皆無と言えるでしょう。ところが、実際に訪れる来館者の感覚が予め制度化されていた場合、博物館では通用する感覚が、美術館では全く通用し得ない現実に戸惑う筈です。意味や説明が用意されていないからです。博物館では説明や解説付きで展示物を見せてくれるので、来館者は受動的に無防備でいられますが、見えないものを見なければならない美術館では来館者は受動的ではいられません。デヴィッド・リンチの作品は後者に類するもので、無防備に制度に従って見てしまうと、ただただ混乱するばかりです…。

     ■『マルホランド・ドライブ』 (2001年/米) デヴィッド・リンチ監督

 お人形さん遊びで考えてみます。子供は、その時々の条件に応じて臨機応変にお人形さんの名前やキャラクターを変えて遊びます。お人形さんの数が限られていれば、同じお人形さんで何役もこなして遊んだり、缶でも瓶でもキャラクター化して遊んでしまいます。それでもドラマは成立する訳です。ミッキーマウスが王様で、ドラえもんがその奴隷だったり…。『アキレスと亀』(2008)で言えば、柳憂怜とビートたけしが同じ真知寿役で成立してしまうように…。『マルホランド・ドライブ』も、言わばそれに似た類の作為で、一人が何役かをこなしているような印象になっていたと思います…。

 ドラマという形式には必ず有限の時間が付き纏います。『ストレイト・ストーリー』で言えば、劇中時間の約5週間と、上映時間の111分です。これら両時間は、上映の終了と同時に消滅してしまいます。上映時間は映画が抱える宿命ですが、劇中時間はドラマが抱える宿命です。ですから、ドラマ映画には時間を無限化させる事が困難なのです。仮に無限化させる場合には、『ロスト・ハイウェイ』(1997)のようにストーリーを永遠に終わらないメビウスの帯にしてしまうか、それとも登場人物に内在する時系列(※人生や日常生活)を破壊してドラマの時間軸を無効にしてしまうかです。『マルホランド・ドライブ』は、ハリウッド・スキャンダルがモチーフでした。ハリウッドという空間の統一と最低限のドラマだけを残して徐々に時間軸を無効にして行った印象があります。但し、統一化された空間と最低限のドラマだけは残されていたので、その分は窮屈で不自由な作品に仕上がっていたと思います。

 個人的には、入場料を払っても惜しくない程度の無難な作品(劇映画)を作っている内は、全然面白くなく、「金返せ!」と暴動が起きるくらいに飛躍した作品(実験映画)でなければ、表現世界は体現出来ないように思えて、そんな作品を秘かに期待しています。D・リンチならば、もっともっと面白い何かが表現出来るのではないでしょうか…。


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