映画なんて大嫌い!

 ~映画に憑依された狂人による、只々、空虚な拙文です…。 ストーリーなんて糞っ喰らえ!

長谷川龍生 語録

2010年05月04日 | 映画の覚書
●シュール・ドキュメンタリーの発想 (1984年)
― 目に見えない物を見る事を紡ぎ出す仕事は、物を把握する上に於いて最も大切な事である。今の若い映画作家の精神構造の中には、有り得ない事を見る事を見るという方法が全く欠如している。有り得ない物を見る為には、有り得る物の追求から始まる。しかも、ただ単純に現在ある物をそのままの形で肯定するのでは無い。有り得る物が放つドラマを否定しながら、そこから発想して、有り得ない事の強烈さと比較する。そして、有り得べからざる物を伝えて行く構想が何よりも大切である。現実の表層意識に満足せずに、表層意識のドラマ化を否定して見出した有り得ない物のドラマを、有り得るように仕立てて行く事が無い限り、現代では表現の名に値しないのである。
 文学や詩の表現が、何故こんなにもつまらなくなってしまったかと言うと、有り得ない事を見たり、有り得ない事を書く強靭な能力が無くなって来たからである。有り得る事のドラマを初めから拒み、逃げているのである。例えば詩を読むと、比喩や暗喩が使われている。すると、その奥にはどういう言葉が隠されているのかなと人は思う。しかし、そうでは無い。個々に現れている物は、具体的な物である。その個々にある物を克服して、その物の前に不在のある物を持って来ているのである。表現は有り得ている物を克服する為にこそ、有り得べからざる物を前に持って来る。それを素直に受け入れて行けば良いのである。奥にではなく、前にある物を見れば良いのである。
 映画制作に携わる人間は、映画を作り上げるのに必要な色々な技術的な側面を良く見る事が出来る。しかし、映画によって捉えられた空間や状況の重さによって、映画を撮ろうとしている自分自身の存在を否定する事が出来るという事には、なかなか思いがいかない。自己の立つ条件を、映像の持つ制度、キャメラ、フィルム、光、影などの要素によって消す事が出来る事を、深く追求しようとはしない。表現しようとする物の条件や状況に、自己の感性が入り込む事によって、映画制作に携わっている色々な人たちや、その人たちが動かしている様々な機材を、一挙に消去してしまう事さえ出来る事に気付かない。だが、観客もそうしようとはしない。既に見えている筈なのに、余りにも受動的な見る制度の為に、その有り得べからざる姿が見えない結果に陥る。
 物を知るという事を映像で表現するには、これまでその物を知らなかったという事を描くだけでは済まない。その物を知るという過程を、時間を掛けて描くという事に留まらない。物を知るという事は、一瞬の内に、有り得ない物を見るという事である。そこにこそ、自己の現実の条件や状況を、表現しようとする物の条件や状況によって、一挙に消去してしまおうとする映画作家の想像力が生まれて来る。企画力が生じて来る。外的な現実や対象に内に一瞬にして、有り得べからざる物の姿を刻印する想像力は、単なる知覚や読みや理解からは生まれて来ない。表すものと、表されるものとの背後に立ち、それを超えようとする感性からしか生じない。それは省略でも説明でも読みでもない。空間によって時間を飛躍させ、その時間を空間によって侵して行く事からしか生まれない。両者は対立しながら緊密に繋がっている。存在する物の上に作り出す存在しない物、その二重性で世界を見る事が、物を見るという事である。 (長谷川龍生、粕三平編「現場の映像入門」“企画力” 社会思想社-教養文庫より)


                                                      ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 映画ブログへ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 粕三平 語録 | トップ | マルホランド・ドライブ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

映画の覚書」カテゴリの最新記事