映画なんて大嫌い!

 ~映画に憑依された狂人による、只々、空虚な拙文です…。 ストーリーなんて糞っ喰らえ!

晩春 ~映画の読解 (4)

2010年11月09日 |  晩春
     ■『晩春』 (1949年/松竹) 小津安二郎 監督


 小津さんは35歳の時に支那事変を迎え、毒ガス兵器を扱う部隊に配属されます。それらに関しては、 『小津安二郎と戦争』 (田中眞澄・著/みすず書房)や『小津安二郎周游』 (田中眞澄・著/文藝春秋)が大変参考になりました。以下、小津さん自身の言葉です。

 《内地の電気の下でお茶を飲みながらの『土と兵隊』の作者に送る無上の喝采は、単なる銃後の御愛嬌だと思ふ。これは火野葦平にして淋しがつているし 僕が銃後に忿懣の情禁じ得ないのもこゝなのだ。こんなどさくさの中で谷崎潤一郎が『源氏物語』を書き上げてゐる。里見がじつくりと腰を落ちつけて『鶴亀』を書き流してゐる。この方がどんなに嬉しいか。戦争がはじまればペン従軍隊だ何だと あとのあとから戦場にやつて来て十日から二十日、それもあらかた司令部あたりでお茶を呑んで、大砲の一つも飛んで来やうなら腰を抜かす手合の、皈れば皈つたでそゝくさと従軍記をでつち上げるお先棒のジャーナリ屋の多い中で、谷崎の里見の何と嬉しいことかだ。(略)未曾有の非常時で国を挙げての瀬戸際だ。文学も文学の持つ凡ての能力をこの際国策に副ふ一助に役立てるのが至当だと。その意味から『鶴亀』など、時局に全く無関心の閑人の低徊の戯作だなどと思つてゐる向も確かにあるだらう。だがしかし、百の『麦と兵隊』より千の『土と兵隊』より一つの『鶴亀』の方が嬉しかつたと現に兵隊の 生還を期し難い前線の僕が思つてゐるのだから致方ない…》 (『小津安二郎文壇交遊録』貴田床・著/中公新書)

 《かうした支那兵を見てゐると、少しも人間と思へなくなつて来る。どこへ行つてもゐる虫のやうだ。人間に価値を認めなくなつて、たゞ、小癪に反抗する敵―いや、物位に見え、いくら射撃しても、平気になる…》 (『小津安二郎周游』)

 《本日は三月二十四日、春の彼岸も今日で明ける。昨年の秋の彼岸の中日大阪出帆だから、もうかれこれ半歳だ。上海―南翔―太倉―常熱―無錫―常州―金壇―丹陽―鎮江こゝから揚子江を渡つて揚州―儀徴―六合―じょ県(※「じょ」の正字は「さんずい」に「除」)―定遠と中支はメーン・ストリートを通つて百五十里あまり。定遠にゐる。天気は益々よろしい。こゝには二月三日の入城だ。五十日程。戦友も大分なくした。仲間の坊さんは頭をやられた。脳味噌と血が噴きこぼれ物も云はず即死だつた。薬剤師は腕を射抜かれて骨が折れた。戦死者は荼毘に、負傷者はそれぞれ後送されて頭数は淋しくなつた。この附近は残敵がしばしば出没し油断は出来ない。殊に二三日前からこれ等が攻勢に転じて夜陰に乗じて定遠城を包囲して迫撃砲を打ち込んで来る。が狼狽しない。もう弾にも大分慣れてその儘寝込んでゐる。弾も中々当たらない。またさう当たつてはたまつたものではない…》 (戦地から友人に送った手紙~1938年3月24日。『小津安二郎と茅ヶ崎館』石坂昌三・著/新潮社)

 《前進は急だつた。戦死者もその儘に日の丸で顔を包んで麦畑の中に置き去りに前進だ。この暑さでは二日も経てば蛆がわく。日の丸をとれば眼窩一杯に盛り上つた蛆だ。山行かば草蒸す屍と字面の綾だけでは到底思ひ及ばぬ凄愴さだつた。目の玉が痒くなる…》 (同上~1938年6月6日。同上)

 《戦場に来た以上、勿論生還は期してはいない……戦争を体験して初めて生きた戦争映画を作れるという自信がついた。メガホンを通して未知の世界を描いて来た今までの事は現実の戦争から見たら問題にならない程生温い感じがする。実際戦争に参加して実に尊い体験をした。もし生還する暁にはこの体験を基礎にリアルな映画を作ってみたいものだと思っている…》 (『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』小津安二郎・著/日本図書センター)

 《戦争というものは暗い気持ちでは出来ん。難しく云えば、否定的な精神を持っていては出来んのだ。凡てを肯定しなくちゃいかんのだよ。そこに人間としての強さが出来てくるんだ。つまり、めそめそしていちゃ、命を的の戦は出来んのだ。勇気が要るんだ。打ちのめされても起ち上がるという気魄が必要なんだね。つまりこれを映画で云うと、救いが要るんだ。明日への希望が要るんだ。そういった意味から、僕の今までの作品は誰よりも僕自身が厳格な再批判が可能なんだ。例えば『一人息子』や『生まれてはみたけれど』なんて映画は、殆んど未完成なものなんだ。あれは、今までは別の小津安二郎という監督が作った映画なんだ、と僕はそう思っているんだ。あそこから、もう一歩進まなくちゃいかん。つまり「生まれてはみたけれど」という感慨は、人間には絶対的に必要なものではないんだね。生まれた事を感謝しなくちゃいかんのだよ。自分がこの世に生きているという事実に対して、自信を持ち、生き甲斐を感じなくちゃいかんのだね。強くある事、常に野望を持つ事が必要なんだ。それでなくちゃ、この人生を乗り切る事は出来ないんだ。戦争の体験は、僕は得難い経験としてしっかり自分の身体の中にしまっておくつもりだ。将来或いは僕が戦争映画といったものを作るかもしれないがね。今は作る気持ちになれないし、作ったところで、良いものは出来ないよ。経験が生なまし過ぎるんだ。これをもう一つグッと押えて、噛み砕いて真実に自分のものにしてからでなくちゃ駄目だね…》 (同上)

 《映画も初期は筋を運び、次は表情を表す時代に発展し、そろそろ性格を表す時代になったと思うのです…》 (『映画と文学』映画春秋、1947年4月15日)


 中国の最前線で多くの死を見届けて来た小津さんです。映画の中の“死”を、単なるシチュエーションと片付けるような事があれば、それはあまりにも軽々に感じます。親愛なる母や妻の死は、そう容易に過去の出来事として割り切れるものでしょうか…。ましてや、まだ人生半ばの母や妻であったならば、尚更の事です。最後に載せた《性格表現》への言及は、『晩春』を読み解く重要なカギだと思っています。

 紀子(原節子)の年齢は、シナリオでは27歳となっています。製作年から遡る事12年前の1937年に支那事変は勃発しているので、戦争当初の紀子の年齢は15歳です。終戦時には23歳になっていた事になります。当時は数え年でしたから、今で言えば満14歳から22歳位迄の間です。その間が戦時中に当たります。服部(宇佐美淳)の年齢設定は35歳になっていました。満22歳から30歳位迄の間が戦争です。服部が従軍したかどうかは確認出来ていませんが、紀子や服部の晩婚の背後に戦争の気配を嗅ぎ取る事は可能でしょう……つづく


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