今年は1945年の日本敗戦から80年ですので、夏に向かって色々な「記念日」がやってくる事になります。
今日3月10日は、80年前に東京大空襲があった日です。私が子供の頃には、空襲自体は前日の9日夜から始まっていたと教わったような気もするのですが、現在では丁度日付が変わった頃に爆弾投下が始まったとするそうです。2時間半続いた猛烈な空襲によって、東京は一面の火の海に飲まれました。
この空襲では10万人もの死者を出し、300万人以上が被災したと言われています。欧州大戦の空襲では有名なドレスデン爆撃(連合国がドイツ東部の都市に対して行なった)でも、正式には死者2万5千人とされていますので(一説には10万人以上ですが)、空前絶後の都市爆撃だった訳です。
現代の戦争であれば爆撃は当たり前、日本に対する米軍の空襲だって全国で行なわれていたじゃないか、というハナシもあります。日本本土への空襲は開戦の翌年、1942年の4月18日には既に始まっていたようですが、海に囲まれた日本本土への空襲は、暫くは少なかったようです。しかし戦況の悪化により南方の島々が次々に陥落してゆき、とうとう日本本土への空襲が長距離爆撃圏内に入った1944年の後半より本土空襲の回数は急上昇し、大都市では空襲が<日常>となります。
その辺りの事は、私の世代くらいまでなら「常識」だと思いますが、現代の若者ではアニメ映画『この世界の片隅で』で記憶しているのではないでしょうか。広島県呉市に疎開した登場人物の女の子に「空襲もう飽きた〜」という台詞があります。
こうした列島全土にわたる空襲の<日常>の中で、東京大空襲の事を考える意味とは何でしょうか。東京大空襲は現在に続く民間人(非戦闘員)虐殺の極致とも言いうる大殺戮です。こうした「記念日」で振り返る事すらなければ、その内広島や長崎への原爆投下も「<大きい爆弾>に過ぎない」という言葉で風化させられてしまうのではないでしょうか。
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私の父は東京大空襲の被災者です。
当時の父は祖父を軍隊に取られ、浅草の近くに母親と暮らしていましたので、小学校に上がるなら田原?小学校(当時は国民学校初等科か)に入学する筈でした。しかし家は勿論全焼し焼け出されましたので、遠い親類を頼って福島県に縁故疎開を余儀なくされました。ですから「疎開先でのイジメ」という定番にも遭っていたようです。
(浅草より吉原寄りに祖母の実家はあった筈ですが、千束小学校ではなかったのだろうか...まぁそれは良いとして)
父や祖母が語った幾つかの言葉も、記録にしていなかったので結構忘れてしまいました。ただ「燃え盛る街に、人っこひとり居なかったのを覚えている」と言っていました。帝都東京ですから最後の独りなら生き残っている訳はないとも思いますが、父の脳裏には焼け落ちる大東京がそのように記憶されたのでしょう。
祖母には川(隅田川か?)を舟で渡してもらうのに苦労した話を聞いたと記憶しているのですが、後年父は隅田川を越えるのには橋を渡ったと言っていました。(駒形橋? 吾妻橋? 言問橋?)
また祖母は「関東大震災を経験していたのが役に立った」とも話していましたので、震災の火災からの避難と話が混同している可能性があります。

(墨田区横網の東京都慰霊堂 2023年9月1日撮影)
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1977年に「NHK特集」で放送された「東京大空襲」という番組があります。
幼い頃に一回視た時は勿論内容などは覚えてもいなかったのですが、中高生のいつかに再放送があったので幼い記憶を思い出して再見し、衝撃を受けました。
東京大空襲が「大空襲」であった事は勿論知っていましたが、それがカーチス・E・ルメイ将軍を中心とした米空軍の、確固とした日本の木造家屋を狙った民間人虐殺であった事を暴いていたからです。番組では当時存命してしたルメイ将軍へのインタビューを試みます。現在「NHKオンデマンド」では視聴可能なようですから、会員の方はその顛末をご自身で確かめて下さい。
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