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(た)のShorinjiKempo備忘録

※注:本ブログは(た)個人の見解に基づいており、如何なる他の個人・団体の見解を解説・代弁するものはありません。

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2025年04月16日 | その他


え゛・・・。

「2004年3月のサービス開始から21年にわたり、誠にありがとうございました」とおっしゃいますが、まだ始めてそんなに経ってないです。。

mixi だって頑張ってるのに。。

唐突に言われると(11月まで半年猶予はありますが)、栄光盛衰・諸行無常を感じます。人間も急に居なくなりますね。寂しい限りです。

インターネットに詳しくないので、引っ越しとか、また面倒だなぁ。

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東京大空襲80年

2025年03月10日 | その他
今年は1945年の日本敗戦から80年ですので、夏に向かって色々な「記念日」がやってくる事になります。

今日3月10日は、80年前に東京大空襲があった日です。私が子供の頃には、空襲自体は前日の9日夜から始まっていたと教わったような気もするのですが、現在では丁度日付が変わった頃に爆弾投下が始まったとするそうです。2時間半続いた猛烈な空襲によって、東京は一面の火の海に飲まれました。

この空襲で10万人もの死者を出し、300万人以上が被災したと言われています。欧州大戦の空襲では有名なドレスデン爆撃(連合国がドイツ東部の都市に対して行なった)でも、正式には死者2万5千人とされていますので(一説には10万人以上ですが)、空前絶後の都市爆撃だった訳です。

現代の戦争であれば爆撃は当たり前、日本に対する米軍の空襲だって全国で行なわれていたじゃないか、というハナシもあります。日本本土への空襲は開戦の翌年、1942年の4月18日には既に始まっていたようですが、海に囲まれた日本本土への空襲は、暫くは少なかったようです。しかし戦況の悪化により南方の島々が次々に陥落してゆき、とうとう日本本土への空襲が長距離爆撃圏内に入った1944年の後半より本土空襲の回数は急上昇し、大都市では空襲が<日常>となります。
その辺りの事は、私の世代くらいまでなら「常識」だと思いますが、現代の若者ではアニメ映画『この世界の片隅で』で記憶しているのではないでしょうか。広島県呉市に疎開した登場人物の女の子に「空襲もう飽きた〜」という台詞があります。

こうした列島全土にわたる空襲の<日常>の中で、東京大空襲の事を考える意味とは何でしょうか。東京大空襲は現在に続く民間人(非戦闘員)虐殺の極致とも言いうる大殺戮です。こうした「記念日」で振り返る事すらなければ、その内広島や長崎への原爆投下も「<大きい爆弾>に過ぎない」という言葉で風化させられてしまうのではないでしょうか。

     ◆     ◆     ◆

私の父は東京大空襲の被災者です。
当時の父は祖父を軍隊に取られ、浅草の近くに母親と暮らしていましたので、小学校に上がるなら田原?小学校(当時は国民学校初等科か)に入学する筈でした。しかし家は勿論全焼し焼け出されましたので、遠い親類を頼って福島県に縁故疎開を余儀なくされました。ですから「疎開先でのイジメ」という定番にも遭っていたようです。
(浅草より吉原寄りに祖母の実家はあった筈ですが、千束小学校ではなかったのだろうか...まぁそれは良いとして)

父や祖母が語った幾つかの言葉も、記録にしていなかったので結構忘れてしまいました。ただ「燃え盛る街に、人っこひとり居なかったのを覚えている」と言っていました。帝都東京ですから最後の独りなら生き残っている訳はないとも思いますが、父の脳裏には焼け落ちる大東京がそのように記憶されたのでしょう。

祖母には川(隅田川か?)を舟で渡してもらうのに苦労した話を聞いたと記憶しているのですが、後年父は隅田川を越えるのには橋を渡ったと言っていました。(駒形橋? 吾妻橋? 言問橋?)
また祖母は「関東大震災を経験していたのが役に立った」とも話していましたので、震災の火災からの避難と話が混同している可能性があります。

(墨田区横網の東京都慰霊堂 2023年9月1日撮影)

     ◆     ◆     ◆

1977年に「NHK特集」で放送された「東京大空襲」という番組があります。
幼い頃に一回視た時は勿論内容などは覚えてもいなかったのですが、中高生のいつかに再放送があったので幼い記憶を思い出して再見し、衝撃を受けました。
東京大空襲が「大空襲」であった事は勿論知っていましたが、それがカーチス・E・ルメイ将軍を中心とした米空軍の、確固とした日本の木造家屋を狙った民間人虐殺であった事を暴いていたからです。番組では当時存命してしたルメイ将軍へのインタビューを試みます。現在「NHKオンデマンド」では視聴可能なようですから、会員の方はその顛末をご自身で確かめて下さい。

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阪神淡路大震災30年

2025年01月17日 | その他
今日で阪神淡路大震災発災から30年らしい。
テレビを日常的に視なくなると、こうした記念日的なものへの認知度も低くなってしまう。報道自体も、以前に比べれば少なくなってきているのだろうと思う。

特に何か言いたい事がある訳では無いのだけど、当時を生きていた人間として、40年には何か書く気力も残ってないだろうから、少ない記憶をとどめておこうかなと思う。備忘録なので。

     ◆     ◆     ◆

数少ない友人の一人が神戸の学校に進学したので、何回か遊びに訪問した事がある。
彼が近所に引っ越すと言うので、大八車に冷蔵庫か箪笥か何かを載せて、神戸の町の中を2人で押して歩いた。西日本は関東のように開けていないから、海からすぐに山がそそり立ち、その狭い空間を東西に幾つかの幹線道路が伸びている。

友人は大屋さんが下に住む木造の二階に引っ越した。
彼自身は<関西風>はとても似合いそうにない静かな男だったが、神戸をとても気に入っているようだった。関東の方が彼にとっては寧ろ辛かったのかなぁ、とその明るい表情を見て思ったのを覚えている。

     ◆     ◆     ◆

地震が起きた時、火曜日だったが私は宿酔いで日が昇っても寝込んでいた。
昼前になんとか這うように学校に行くと、なんだか様子がおかしい。…とは、すぐには気が付かず、いつもの様にぼんやりしていた。
講師が入ってくると開口一番「この中には神戸の者は居るのか」と尋ねた。同級生の一人が手を挙げた。「家族は大丈夫か」「まだ連絡は取れていません」「そうか。…心配だな」「…はい。有難うございます」
私は「何かあったのか?」と隣の同級生に尋ね、何が起きたのかを知った。

     ◆     ◆     ◆

東日本大震災でも後日思った事だが、災害の日々の渦中にいると、その規模の凄まじさが却って分からなくなる。ビルが何棟も倒壊し、また多くの高層ビルでは中層階が潰れて空き缶を踏んだようにペシャンコになった。病院の中層階でもそういう事があった。

多くの人が神戸に向かい、日本に於ける「ボランティア元年」と言われた。
私も行こうとは考えたが、結局行けなかった。後日、後輩の一人が1ヶ月程度現地でボランティアをしていたと知り、自分を情けなく思った。
GW?に一度現地を訪れた。電車が大阪を抜けると、屋根の青いビニールシートがどんどん増えていったのを覚えている。
友人は生きており、それなりに元気そうには見えたが、言葉は少なくなっていた。前回私が降りた六甲道駅は、高架ごと駅舎が完全に潰れていた。
引越しを手伝ったアパートは一階部分が倒壊し、友人は割れた庇(ひさし)の隙間から、生きていたが自力で出て来られなかった大屋夫婦を引きずり出したという。

残っている荷物を移動させたいと言うので、また2人で大八車を押した。
私たちが荷物を上げた二階は一階になっていた。殆ど地面の上の庇の割れ目を見て「ここから人を出したのか…」と思った。その庇を踏み越えて、窓から友人の部屋に入った。
薄暗い部屋は大きく傾いており、立っていても安定しない。床の畳は波打っていた。
友人は自分の荷物を物色していたが、結局余り持ち出そうとしなかった。宝島社の面白おかしい本を集めていたが、「全部やるよ」と私にくれた。

     ◆     ◆     ◆

友人を訪ねた前後に、長田地区にも行ってみた。
公園にはまだテントがあり、多くの人が生活していたと思う。尋人の張り紙が沢山貼ってあった。
私は写真が趣味だったので、神戸でも何枚かは撮った筈だが、あまり見返した記憶が無い。

     ◆     ◆     ◆

「震災の記憶の継承」が難しい、という番組をNHKがやっていたのは、東日本大震災より前だったと思う。神戸大の学生が当時の経験者から被災体験を聴く会を開いていたが、今後も継続してゆくべきなのか悩んでいる、という内容だったと思う。
「時は流れる。今までと同じように悲惨な体験を伝えるだけでいいのか。それに意味はあるのか」と学生が悩む内容だったように記憶している。

東日本大震災が起きた時、新たな大事件を前に「神戸の記憶」はどうなるのだろうか、と思った。私は21世紀になってから、太平洋戦争に対する世間の語り方が変わったように感じている。体験していない人間が、同じように感じ考えるのには無理がある。しかし日本人にとって「被災」が避けられない事であるなら、どういう風に継承してゆくべきなのだろうか、と思った。

ここ数年、たまにテレビで視る阪神大震災の話は、東日本大震災前の番組で感じた程の焦燥感が無いように見える。太平洋戦争ほどは風化してもいない。ひょっとして人々は、語るべきやり方を見つけつつあるのだろうか。どんな悲惨な事件でも、経験者はいずれいなくなる。継承とはどうしていくべきなのだろうか。
今年は太平洋戦争敗戦後80年でもある。戦争と災害では話はまた違うだろうが、違うだけに尚更難しさを感じる。
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日本ビタミンの日

2024年12月12日 | その他
てやんでい、唐突に関係の無い話をしたいと思います。

玄米のビタミンB1の含有量は、白米の4〜8倍もあるそうです。収穫した稲のお米は黄色い籾殻に包まれていますが、その籾殻を取り除いたものが玄米です。玄米は米糠層に包まれており、それを除去する事を精米といいます。すると真っ白なお米、白米になります。精米すると口当たりが良く(美味しく)、吸収も良くなります。

精白米にもまだ粘着性の強い肌糠というものが残っており、糠臭いご飯にならぬよう、肌糠を除去する為に各自が最後の「米を研ぐ」という作業をするのです。工場の段階で肌糠まで除去したものを無洗米といい「研がずに炊ける」という訳です。

まぁとにかく人類は長い歴史の中で「如何に美味しくお米を食べるか」という事を徹底的に研究してきたんですね。近代以降では、日本人は収穫したお米の食べ方だけでなく、品種改良にも徹底的に取り組みました。現在、日本のブランド米は日本食の中心として、世界の人々をも魅了しています。

     ◆     ◆     ◆

という事なのですが、美味しく食べる為の精米で失われた米糠には、実は大切な栄養素もありました。

現在日本では余り見られなくなった病気に脚気があります。
脚気では、末梢神経障害や心不全が生じ、全身の倦怠感・食思不振・手足の痺れ・浮腫みなどの症状が出ます。
一度患者が出ると、同じ集団にいる人々の間で次々と患者の発生が続くので、脚気は長い間<感染症>だと信じられてきました。陸軍一等軍医であった森林太郎(鴎外)は、比較試験などを駆使して「白米には問題は無い」と脚気伝染病説を強力に主張し、既に玄米への変更の有効性に気づいていた海軍軍医の高木兼寛を痛烈に批判しました。
その結果、と言いましょうか、日本陸軍は日清戦争では4万、日露戦争では25万もの脚気患者を出し、しかも日露戦死者3万7千人中、脚気患者は2万8千人にも上ったとの事です。

西洋では多くの船員の命を奪った壊血病が有名ですが、これはビタミンCの欠乏によるものです。壊血病は点状出血・紫斑から脱力・鬱症状・神経障害を来たし、消化管出血などの末に衰弱死する恐ろしい病気ですが、比較的早期より柑橘系の果物を摂取する事で予防出来る事が判っていました。
船乗りは壊血病と共に脚気も併発する事が多かったのですが、脚気の方は中々原因が特定出来なかったようです。

     ◆     ◆     ◆

さてこのように人々に恐れられていた謎の流行り病=脚気ですが、農芸化学者=鈴木梅太郎博士が、1910年の12月13日、とうとう原因となる栄養素を特定・発表しました。彼は米糠から抽出した成分の欠乏が脚気を引き起こすとして、稲の学名 Olyzasativa より「オリザニン」と命名したと東京化学会例会に発表したのです。ところがその発表は世界的には注目されず、翌年にポーランド出身の Casimir Funk が鳥類白米病に有効な抗脚気因子を提唱、更に1912年に生命 vita に必要なアミン amine、即ち vitamine と命名した事が評価され、1920年以降は「vitamin」の呼称が一般的になってしまいました。…
現在は脚気はビタミンB1不足が原因だと広く認知され、日本では脚気で死亡する人は年間数名止まりです。

という事で明日12月13日は、ビタミンの日です。鈴木博士の出身地、静岡県民が中心となったビタミンの日制定委員会によって、2000年に制定されたものです。ですが、残念ながら世界的な認知度は余り無いようです。。

高木兼寛の出身地=宮崎では、彼を「ビタミンの父」とも呼ぶのだそうです。

     ◆     ◆     ◆

白米は長い間庶民は食べられない食べ物でしたが、江戸時代になって江戸っ子達の口にも入るようになってきました。すると江戸にだけ、足元がおぼつかなくなり、寝込んだ末に亡くなる人が急速に現れだしたのです。地方には見られなかった為、「江戸患い」とも呼ばれたその病は、脚気でした。
その脚気で命を失った人々の中に、来年の大河ドラマの主人公、蔦屋重三郎もいたと言われています。「江戸のメディア王」として出版業界に君臨する事になった男も、脚気という当時は謎の病によって、働き盛りの47歳でこの世を去る事になったのです。

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指導者の責任と武道の目的

2024年11月13日 | その他
ご存知の方もおられるかと思いますが、今月3日に宮崎市で開かれた小学生の空手大会で、試合中に背後から後頭部を蹴られる動画がSNSに投稿され、波紋を呼んでいます。

事実関係(更には背後関係)については勝手な憶測からの中傷も行われているようで注意を要するのですが、動画を見てほぼ間違いない(一目瞭然)と思われる事を述べますと、①A君がB君の顔面に当ててしまったらしく(反則かどうかは不明)、主審が「止め」を指示して両選手は一旦分かれ、B君は中央に背を向け(自分のセコンド側に?)歩きだす。②A君のセコンド側から「行け!」と指示が出て、直後にA君が背を向けたB君の後頭部に上段蹴りを入れ、B君はそのままうずくまってしまう。③主審はA君を制し、旗を持った副審2名が出てきてコート中央で協議を開始。その間、その場に倒れたA君は放置される。というものでした。

重要な問題点は2つ、(1).背を向けた相手の後頭部を蹴るという危険行為、(2).負傷した選手を放置して協議していた審判団、です。空手会には相当な衝撃が走ったようで、様々な意見表明や、先程も述べましたが「勝手な憶測からの中傷」も行われているようです。

     ◆     ◆     ◆

空手界の方々としては、外部の人間がこの事件に色々言うのは本心としては「黙っててくれや」というところだと思いますし、こうなった以上、空手界として何らかの判断はなされるのだと思います。しかしこれは武道・スポーツ全体の問題でもあり、特に格闘系武道(空手・柔道・合気道・SK 等)の指導者であれば意見を求められても当然な案件ではあります。

「武道にあるまじき行為」「これは武道ではない」という意見はよく見るのですが、武道の技術そのものは格闘術であり、自分を護る事が出来る反面、相手を破壊する事が出来る技術です。武道をやってさえいれば善人になる筈もなく、寧ろ技術を得て強くなる事で傲慢になり、より凶暴化する人間も少なくないと思います。

以前亀田兄弟の父ちゃんが試合中に息子に言った事がマイクに拾われてしまって大問題となり、父ちゃんはしばらく追放処分になりました。N大アメフト部で、指導者が危険タックルを指示した事件を思い出した方もいるのではないでしょうか。私は映画『ベストキッド』の「コブラ会」を思い出しました。「ついエキサイトして」ではなく、どんな武道・スポーツでも、勝負至上主義はこうした事件を生み出す可能性はいくらでもあるのです。

私はSK以外の武道や格闘技選手の方々とのお付き合いも何度かありますが、正直な事を言いますと、技術的に優れた諸先輩の言動に、他人への侮りや傲慢を感じる事が何度もありました。(逆説的になりますが「技術を得た事による自信」「指導者としての社会的な地位」が、逆に彼らを抑止している面すらあるのではないかと感じた程です) 力道山も刺されて死にましたし、「格闘技をする事で自分がより危険な場所に近づく事になったり凶暴な人間になるのなら、やる意味があるのか」と考え修行を止めようかと考えた事もあった程です。

しかし格闘技に関係なく、この世には理不尽や暴力が存在するのも事実です。体格的に劣るひとや女性など、肉体的に不利な人々がこの世の中で明るく生きていくには、何らかの自信の源が必要です。弱者がSKの修行で強者にも勝てる技術を獲得出来れば、それはそれで素晴らしいでしょうが、そうでなくても人間社会を生きていく精神的な強さを得る事は出来ると思っています。

暴力的な人々は、精神的な弱さを肉体的優位で補って(隠して)いるようにも見えます。

「弱者の護身術」であること、開祖の言葉を借りるなら「勝たなくてもいい、負けなければ良いのだ」というのが、私がSKを選んで続けている最大の理由です。

     ◆     ◆     ◆

負傷者を放置して協議を続けた審判の行動は理解し難いものではありますが、主審としては「試合という形式を完結する」という自分の仕事に頭が一杯になっていたのかもしれません。自分は行なわれた行為の評価を決定しなければならない、その間蹴られた選手の方は「誰かが面倒を見てくれるだろう」と期待したのではないでしょうか。

B君が倒れたのは恐らく自分のセコンドの目の前ではあったのですが、B君側の大人たちも「自分が助けに入って(介入して)いいのだろうか」と躊躇して対応が遅れたように見えます。ひょっとしたらここにも、勝負至上主義の落とし穴があったのかも知れません。

頭部に打撃を受けて倒れた選手がいたら、その選手の治療を全てに優先しなければなりません。

ボクシングでは、パンチを貰ってグロッキーになった選手に対しては、更に攻撃を畳みかけてトドメを刺す事が普通です。観客は「チャンスだ行け!」「相手はもうヘロヘロだぞ!」と叫び、時には後頭部にパンチが入る事もあります(本当は反則ですよね?)。ボクシングは或る程度それを覚悟して行なっている危険なスポーツであり、レフリーにはより高度で迅速な判断が求められます(レフリーストップに「もっとやらせろや」なんて言ってはいけませんね)。

SKでもここ数年の審判講習会では、演武中の危険な頭部打撲を繰り返し取り上げ、主審は「何を置いてもまず演武を中止し安否確認」と強く念押しされています。

今回は少年大会での事件だっただけに反響も大きかったようですが、どんな武道・スポーツでも事故は起きて欲しくないものです。

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