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【滋賀・近江の先人第197回】井伊直弼を支えた儒学者・中川禄郎(彦根市)

 中川禄郎(なかがわろくろう、諱:禄、号:漁村(ぎょそん)、寛政8年(1796年)~嘉永6年(1854年)は、彦根藩井伊家12代当主直亮(なおあき)の時代に召し抱えられ、13代直弼にも仕えた、江戸時代後期の儒学者。



 国学者として藩に仕えた小原君雄(おはらきみお)を父に持ち、10代後半頃には薩摩村(現彦根市薩摩町)にある善照寺の寺侍となっていた中川勘解由家(なかがわかげゆけ)の養子に迎えられた。
 最初は彦根藩士の西郷路郷に漢学を学び、その後、藩儒の平尾芹水(芹水正尾義)(ひらおきんすい)や伴東山(ばんとうざん)らに漢学や古学を学び、20代の頃に諸国を遊学、京都で頼山陽(らいさんよう)や猪飼敬所(いがいけいしょ)に師事して様々な知見を備えた儒学者に成長、長崎に長期滞在し西洋事情を見聞んした。そして天保13年(1842年)12月、彦根藩校弘道館の教授となる。

 それ以降、禄郎がとりわけ深く関わった人物の一人が藩主直亮の世子であった「井伊直弼」である。
嘉永3年(1850年)井伊直弼が藩主になると「持講」として召し抱えられる。
 「人君」について直弼から問われた際に禄郎が献上した書物「蒭蕘之言(すうじょうのげん)」は、目指すべき藩主の姿や藩政の課題を述べたもので、直弼が藩主として必要な知識や考え方を身に付ける上で、またその後の直弼の藩政運営に大きな影響を及ぼした。
 更に、禄郎は江戸在府中の資金繰りに苦慮した直弼に資金援助の仲介も行うなど、直弼からの信頼を得て行く。

 そして、嘉永6年(1853)6月、ペリー率いる米艦隊の開国要求への対応を藩主直弼が諮問した際には、禄郎は「籌辺管見(ちゅうへんかんけん)」を記し、面の戦闘を回避しながら制限付きで開国・通商を行い、富国強兵を図ることを主張する。
 藩内や幕政の中核を担う諸藩で開国・通商に否定的な意見が多い中、禄郎の開国論は直弼の開国に対する考え方に大きな影響を与えた

 また、80名を超す禄郎の門下からは、直弼の死後、混迷を極める彦根藩の立て直しに奔走する人材が輩出している。
幕末期の彦根藩政を主導した谷鉄臣(たにてつおみ)をはじめ、明治初期の教育普及に尽力した外村省吾(とのむらしょうご)など、幕末維新期の彦根を下支えする中核的な担い手を育んだ。
専修大学創設者の相馬永胤、中央大学創設者の増島六一郎の他、今孔子と呼ばれた寺村友賢なども輩出している。
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