”スローライフ滋賀” 

近江の城郭 「近江の城50選」

「近江を制するものは天下を制する」―
戦国の雄が天下人への足がかりとして重要視した要衝の地、近江。
この地に築かれた城郭は1,300を超えるといわれている。
安土城や長浜城、彦根城などおなじみの城や、近年発掘され、その全貌が明らかになりつつある城など、近江の城郭を城に秘められたエピソードや、ゆかりの人物などとともに紹介する。

尚、「近江の100城」については今回のブログの最後にそのリンク先を紹介している。
 
近江守護六角氏と家臣団の城
1 小堤城山城(こづつみしろやまじょう): 滋賀県野洲市小堤
 湖南地域最大規模の山城で、中腹部の郭には、安土城に先行する古い石垣が残る。
 
2 長光寺城(ちょうこうじじょう): 滋賀県近江八幡市長光寺町
 六角氏の支城。織田信長の攻撃により落城し、柴田勝家が城主となる。「瓶割り柴田」の逸話で有名。

3 鎌掛城(かいがけじょう): 滋賀県蒲生郡日野町大字鎌掛
 急峻な尾根に築かれた山城と、山麓に広がる「山屋敷」と呼ばれる居城により構成される。

4 星ヶ崎城(ほしがさきじょう): 滋賀県蒲生郡竜王町鏡
 佐々木氏の本城である観音寺城の支城として築城されたとされる。主郭部には緻密に積まれた石垣が残る

5 佐生日吉城(さそひよしじょう): 滋賀県東近江市五個荘日吉町
 六角氏の重臣後藤氏が築いた観音寺城防御の支城。進んだ技術の石垣が見られる。

6 佐久良城(さくらじょう): 滋賀県蒲生郡日野町大字佐久良
 小倉氏の居城。土塁と堀で築かれた二つの郭が、土橋により連結される。

7 三雲城(みくもじょう): 滋賀県湖南市吉永
 六角氏の家臣三雲氏の居城。六角氏の亡命拠点として利用される。枡形(ますがた)虎口を始めとした、大規模な縄張りが残る。

8 観音寺城(かんのんじじょう): 滋賀県近江八幡市安土町石寺
 近江守護六角氏の居城で、繖山(きぬがさやま)全てを城域としている。南北朝時代に南朝の侵攻に対抗するため観音寺の城郭に立て籠ったという『太平記』の記述が残っている。安土城以前に築城された中世の城郭としては珍しく本格的に高石垣が使用されており、また山城の規模としては戦国時代屈指といえる。
  戦国期には足利将軍家を後ろ盾とし、近江一帯に一大勢力を築き上げた佐々木氏の嫡流六角氏だったが、永禄11年(1568年)に将軍足利義昭を擁して京都へ上ろうとした織田信長の通過を拒否したために攻撃され、観音寺城は大きな戦闘なく開城され、その後廃城となった。<日本100名城>

9 目賀田城(めかたじょう): 滋賀県愛知郡愛荘町目加田953-11
 六角氏の重臣目賀田氏の居城。典型的な方形単郭(ほうけいたんかく)の中世城郭。

10 中野城(なかのじょう): 滋賀県蒲生郡日野町西大路 
 音羽城廃城以後の蒲生氏の居城。主郭北東辺りの土塁、堀が残る。蒲生氏郷誕生の地と伝えられる。

11 水茎岡山城(すいけいおかやまじょう): 滋賀県近江八幡市牧町
 六角氏とは一時対峙していた伊庭氏、九里氏が立てこもったなどの歴史が残されており、湖上の要衝地に築かれた城といえる。

12 浮気城(ふけじょう): 滋賀県守山市浮気町
 六角氏に仕えた浮気氏の居城。住吉神社境内には幅2m、高さ1.5mの土塁と堀が残る。町内には、これに続いて土塁と堀が円周状に残っている。

近江守護京極氏と家臣団の城
13 勝楽寺城(しょうらくじじょう): 滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4
 京極道誉の命により築城されたのが始まり。信長の攻撃により廃城。近江の山城では珍しい畝状竪堀群が見られる。

14 上平寺城(じょうへいじじょう): 滋賀県米原市弥高
 京極氏の本城。山城部分と居館部分から構成されていた。居館部には豪壮な庭園が残る。

15 下坂氏館(しもさかしやかた): 滋賀県長浜市下坂中町
 湖北の土豪下坂氏の居城。堀、土塁による屋敷の地割りが良好に残っている。2020年8月8日より一般公開中。

自治の城
16 小川城(おがわじょう): 滋賀県甲賀市信楽町小川
 多羅尾氏旧城。本能寺の変に際して、家康が三河に脱出した時に滞在したことで知られる。

17 新宮城・新宮支城(しんぐうじょう): 滋賀県甲賀市甲南町新治
 甲賀特有の二城近接型の城館。両城とも、尾根を空堀で断ち切り、この前面に土塁を方形に巡らしている。

18 望月城・望月支城(もちづきじょう): 滋賀県甲賀市甲南町杉谷
 甲賀特有の二城近接型城館。望月城には高さ6mにも及ぶ、日本最大級の土塁や深い空堀などが残る。

19 和田城(わだじょう): 滋賀県甲賀市甲賀町和田
 和田は、多数の城郭が密集している地域。足利義昭が一時身を潜めた場所とされている。

境目の城
20 佐和山城(さわやまじょう): 滋賀県彦根市古沢町
 鎌倉時代の初期に佐々木氏によって築かれた佐和山城は、交通の要衝にあったため、しばしば城をめぐる戦いが繰り返されていた。近江を支配下に置いた織田信長も、この地を水路交通の要として重視し、重臣の丹羽長秀を入城させている。
 秀吉の時代の文禄四年(1595年)城主となった石田三成は大規模な整備を行い、佐和山城は「三成に過ぎたるもの」と呼ばれるほどであった。しかし、関ヶ原の合戦に三成が敗れると城は落城し、その後に城主に任じられた井伊直政の子、直継によって彦根城が築城されると城郭の石垣など全て彦根城の普請に使用された。 現在は大手口付近の土塁や本丸付近にわずかに残る石垣によって往時を忍ぶのみとなっている。

21 鎌刃城(かまはじょう): 滋賀県米原市番場
 江北と江南の国境線に位置する「境目の城」です。その地理的条件から合戦の最前線となることも多く、石垣や畝状竪堀群など、当時の最新技術が投入された城郭だった。土豪の堀氏の居城だったが、近隣の情勢により度々城主が代わっていた。
 元亀元年(1570年)にそれまで浅井(あざい)長政に属していた堀秀村は、織田信長へ内通した際に鎌刃城を長政に攻め落とされる。しかし、信長が姉川の合戦に勝利すると再び城主として復活し、その後長政に攻められるも、木下藤吉郎の活躍で落城を免れた。しかし、信長が美濃と近江を平定した後の天正2年(1574年)に秀村は重臣の樋口直房とともに改易となり、まもなく廃城となった。 <続日本100名城>

22 太尾山城(ふとおやまじょう): 滋賀県米原市米原
 美濃と近江、江北と江南の境目の城として機能。南北二城により構成される「別城一郭」の城郭。

23 長比城(たけくらべじょう): 滋賀県米原市柏原 
 姉川の合戦に際し、信長の侵攻に備えて築城。戦うことなく廃城となったため、築城時の形状をよく残している。

苦闘天下布武 信長近江に侵攻す!
24 坂本城(さかもとじょう): 滋賀県大津市下阪本三丁目
 比叡山の焼き討ちを行った織田信長は、比叡山と湖南・湖西地方を抑えるために、交通の要所である坂本の地に、元亀2年(1571年)に明智光秀に坂本城を築かせた。築城に造詣の深かった光秀は、琵琶湖の湖岸に大天守と小天守をもつ豪壮絢爛な水城を建て、その姿は宣教師フロイスの書に安土城に次ぐ城であったと記された。
 光秀は天正10年(1582年)の本能寺の変で信長を討ったが、直後の山崎の戦いにおいて羽柴秀吉に敗れて自刃した。その翌日、重臣の明智秀満が光秀の一族と共に城に火を放ち自害し、坂本城は焼失した。その後、丹羽長秀によって坂本城は再建されたが、秀吉が浅野長政に命じて大津城を築城した天正14年(1586年)頃に廃城になった。

堅固な石垣造りの伝承の地
 坂本は、城の石垣などを作った穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団の出身地としても知られている。比叡山延暦寺の門前町でもあった坂本で、僧侶の住居として使われていた里坊には穴太衆の石垣が残されている。
  自然石を綿密な計算のもと積み上げて作られたその見事な石垣は、白壁の塀や植え込みなどと調和して、落ち着いた雰囲気を漂わせている。

25 黒川氏城(くろかわしじょう): 滋賀県甲賀市土山町鮎河
 縄張りに、土塁や空堀に加え、石垣や石段を用いた構造が見られる。織田勢が築城したとみられる。

26 虎御前山砦(とらごぜやまとりで): 滋賀県長浜市中野町(登山口)
 小谷城の正面に位置する丘陵上にある、小谷城攻防戦における織田勢の前線砦群。

27 宇佐山城(うさやまじょう): 滋賀県大津市南滋賀町
 比叡山延暦寺および、朝倉・浅井連合軍に対抗するため、信長の命により森可成が築城。石垣が残る。

28 安土城(あづちじょう): 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
 織田信長が天下統一に向けての象徴として、天正四年(1576年)から築城を開始。当時の信長の拠点である岐阜と京のほぼ中間点にあたり、また琵琶湖に臨む水陸交通の要地であったことから、築城の地に安土が選ばれたと思われる。丹羽長秀を普請奉行とし、東海・北陸・近畿の家臣、大名を動員。加えて狩野永徳をはじめとする京都・奈良・堺などの名工を集めて築城された、我が国で最初の近世的城郭である。
 当時の建物は、信長により城内には移築された摠見寺(そうけんじ)の楼門〈二王門〉と三重塔(共に国重要文化財)が残り、天主は五層七重(地下一階地上六階)で、その壮麗さはイエズス会の宣教師によってローマまで報告されたと伝えられている。<日本100名城>

29 大溝城(おおみぞじょう): 滋賀県高島市勝野
 織田信長が安土に居城を構えたとき、対岸にあたる高島支配の拠点として、天正6年(1578年)に信長の甥である織田信澄によって、大溝城が築城された。設計は、智将の明智光秀であったとされる。現在、天守台跡とされる石垣が乙女ヶ池に隣接して残ることから、内湖を巧みに利用した美しい水城であったと考えられ、琵琶湖の湖上交通を重要視していたことがうかがえる。「本能寺の変」の後、明智光秀の娘婿であった信澄は関係を疑われ、大坂で自刃した。
 以後、元和5年(1619年)に分部光信が、伊勢上野から大溝に入封し、大溝藩として廃藩置県まで治世が続く。分部光信は、織田信澄が築いた大溝城三の丸に陣屋を構えた。大溝藩は、学問への関心が高く、近江諸藩の中でも早くから藩校(脩身堂)が開かれた。いかに教育に力をいれていたかを知ることができる。

30 打下城(うちおろしじょう): 滋賀県高島市勝野
 元亀年間の争乱において信長の高島攻略の拠点となった城郭。2箇所に分かれた曲輪群により構成される。虎口に石垣を用いている。

苦闘天下布武 近江信長に抗す!
31 壺笠山城(つぼかさやまじょう): 滋賀県大津市坂本本町
 朝倉・浅井連合軍が立て籠もり、信長軍と戦った城郭。近江最古級の前方後円墳を改造して築城している。

32 三田村氏館(みたむらしやかた): 滋賀県長浜市三田町
 京極氏、浅井氏に仕えた三田村氏の居城。姉川の合戦時には朝倉景建の本陣が置かれた。

33 山本山城(やまもとやまじょう): 滋賀県長浜市湖北町山本
 湖上交通を押さえるための小谷城の支城。土塁と堀により構成された縄張りが残っている。

34 清水山城(しみずやまじょう): 高島市新旭町熊野本・安井川
 史跡清水山城館跡は、饗庭野台地の南東部に位置している。西佐々木一族の惣領家である佐々木越中氏の居城と伝えられている。標高約210mの主郭を中心として、北西・南西・南東の三方の尾根上に曲輪を配置する放射状連郭式の山城である。主郭からは、琵琶湖と安曇川流域を一望できる。湖西の山城で最大の規模を誇る。
 山城の中心地である主郭では、発掘調査により大規模な礎石建物跡や多量の遺物が見つかったた。出土した遺物から、織田信長が高島を攻略する元亀4年(1573年)頃まで存続していたと考えられている。滋賀県下最大規模の堀切や畝状空堀群や土塁、曲輪など厳重な防御機能が残っている。戦国期の有力豪族のあり方を知る上で貴重な城郭であることから、平成16年に国の史跡に指定された。
 
35 横山城(よこやまじょう): 滋賀県長浜市石田町
 戦略上の拠点として重視された城郭。信長の命により、秀吉が城主となり、小谷城に対する押さえとして用いられた。

36 小谷城(おだにじょう): 滋賀県長浜市湖北町伊部
 日本五大山城のひとつである浅井(あざい)氏三代の居城である。守護大名・京極氏の被官であった浅井亮政は京極氏の相続争いに乗じて頭角を現し、やがて京極氏に代わり北近江一帯に勢力を伸ばした。三代目長政は朝倉氏と共に織田信長と争い、元亀元年(1570年)姉川の合戦で敗れるものの、小谷城の堅固な守りにより、その後落城するまでの3年もの間、信長を苦しめた。 浅井氏の後、小谷城主となった羽柴秀吉は、城の石材や部材などを今浜(のちに長浜と改名)に移し、小谷城は廃城となった。現在、城跡には石塁や土塁、供養塔が残され、往時をしのばせている。 <日本100名城>

37 田屋城(たやじょう): 滋賀県高島市マキノ町森西
 北陸道、海津の港を見下ろす位置にある。堅固な土塁と、多数の竪堀で防御された6箇所の郭により構成される。

38 多喜山城(たきやまじょう): 滋賀県栗東市六地蔵
 東海道を見下ろす要衝にある。安土城から先行して元亀2年(1571年)以降に栗太郡一帯を支配する目的で織田信長公により築城されたものであるとされている。現在では枡形虎口や土塁、櫓跡などが残っている。

太閤、天下取りの城
39 水口岡山城(みなくちおかやまじょう): 滋賀県甲賀市水口町水口
 京への街道の防備、そして甲賀、蒲生の支配を目的として秀吉の命により築城された。

40 長浜城(ながはまじょう): 滋賀県長浜市公園町10-10
 天正元年(1573年)浅井氏の小谷城を陥落させた武功により浅井領12万石を拝領した羽柴秀吉は、初めて城持ちの大名となった。当時今浜と呼ばれていた地を「長浜」と改名し、城づくりに必要な材木は小谷城などから転用して築城されました。後に三代目の城主となる、大河ドラマでおなじみの山内一豊も5年間在城している。
そして江戸時代になり、徳川家康によって廃城された長浜城の石垣や部材は、大通寺(長浜市)などの寺社や彦根城の築城に利用された。彦根城天秤櫓は長浜城の遺構と伝えられている。
昭和58年(1983年)に安土桃山時代の城郭を模して天守が復元された。内部は長浜城歴史博物館となり、秀吉・一豊・石田三成・小堀遠州など湖北ゆかりの人物や長浜の歴史・文化を紹介している。

41 玄蕃尾城(げんばおじょう): 滋賀県長浜市余呉町柳ケ瀬
 賤ヶ岳の合戦における柴田軍の本陣。土塁と堀により複雑に構成された大規模な縄張りが残る。

42 八幡山城(はちまんやまじょう): 滋賀県近江八幡市宮内町 
 天下人となった豊臣秀吉の甥、秀次によって築かれた城である。八幡山城の築城には旧材を使用したとも思われるが、現在は高い石垣が残る。麓の伝秀次館跡から出土する金箔瓦は、新たに作成したものである。
 まちづくりに関しては武士と町人の居住区を八幡堀で区切り、町人居住区の城下町は碁盤の目状に整然と区画されている。
 28才で切腹させられた秀次亡き後、京極高次が城主となった。その後、城は廃城となったが、計画的に整備された都市基盤は近江(八幡)商人の活躍の基礎となった。以後近江八幡は商業の町として繁栄した。<続日本100名城>

43 田上山砦(たがみやまとりで): 滋賀県長浜市木之本町大字黒田
 賤ヶ岳の合戦に際して、実質上の羽柴軍の本陣が置かれた。羽柴軍の高度な築城技術が見られる。

44 東野山城(ひがしのやまじょう): 滋賀県長浜市余呉町東野
 賤ヶ岳の合戦における羽柴軍の最前線砦。西に位置する堂木山砦と連動して北国街道を封鎖した。

45 大津城(おおつじょう): 滋賀県大津市浜大津
 秀吉が、大津城を築城した。ほとんど痕跡が残っていないが、昭和55年(1980年)に城郭の石垣と思われる遺構が発掘された。
京極高次は城主の時、浅井三姉妹の次女初を妻にし、東西両軍のプレッシャーを受けた。
 
元和偃武(げんなえんぶ)と天下泰平の城
46 膳所城(ぜぜじょう): 滋賀県大津市本丸町7
 徳川家康が関ヶ原の合戦に勝利した翌年に、交通の要所であるこの地の守備のために完成させた城である。湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせ、本丸と二の丸が琵琶湖に突き出ていた水城で「湖上の浮城」と呼ばれていた。その姿の美しさは「瀬田の唐橋唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に浮かぶは膳所の城」と里謡にも謡われるほどだった。
 明治維新後に廃城となり、建物は取り壊されたが、膳所神社などに移された城門は重要文化財に指定されている。また跡地は現在、膳所公園として整備され、春には桜の名所として親しまれている。
 
47 永原御殿(ながはらごてん): 滋賀県野洲市永原
 徳川家康などの上洛宿舎として整備された「御茶屋御殿」の一つ。現在は竹やぶとなっているが、石垣の一部が今も残っている。令和2年(2020年)に国史跡に指定される予定となっている。

48 水口城(みなくちじょう): 滋賀県甲賀市水口町本丸
 徳川将軍の上洛御殿の一つ。本丸には水堀、高石垣が残る。櫓を復元し資料館として活用している。

49 彦根城(ひこねじょう): 滋賀県彦根市金亀町1-1
 悠久の時を経て、さらなる雄姿を見せる名城・彦根城。
 桜並木に彩られ、広大な城内をぐるりと囲むお堀。緑濃い丘にどっしりと構え、今も彦根の街を見守っているかのような天守。国宝に指定された五城の一つ。建設が開始されたのが慶長9年(1604年)。徳川四天王の一人、井伊直政の遺志を継ぎ、直継、直孝によって築城された。工事は7カ国12大名が助役に命じられるほどの天下普請。間に一時の中断を挟みながら、元和8年(1622年)、約20年の歳月をかけて完成した。
 明治時代の廃城令や戦火を免れて残る勇壮な姿。国宝の天守をはじめ、国の重要文化財である天秤櫓、西の丸三重櫓、太鼓門櫓、そして名勝に指定された大名庭園・玄宮園。いずれもが名城と呼ぶにふさわしい景観を誇る。彦根城は、世界文化遺産暫定リストに登載されている。  <日本100名城>

謎の城
50 北之庄城(きたのしょうじょう): 滋賀県近江八幡市北之庄町、南津田町
 八幡山城に先行する中世城郭。大規模な土塁と堀に囲まれた大きな二つの郭により構成される。
 

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