”スローライフ滋賀” 

【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第44回) 愛犬シンバとザンビアでの別れ

 1977年9月にアフリカのザンビア第2の都市で銅鉱山ベルト地域の都市のNdolaに着任した。
 着任後、戸建ての宿舎の手配が間に合わず着任直後1ヵ月くらいは官舎の1部屋で暮らした。
 その後、宿舎が割り当てられ庭付きの家に移ったが一人住まいには十分だった。
新しい家に移り1ヵ月もしない内に泥棒に入られホンダのバイクと日本から持って来た持ち物の3分の1ほど盗られてしまった。就寝中の出来事だった。
 そんなこともあり防犯のため番犬を飼うことにした。それが「シンバ」だった。「シンバ」シェパード系の雑種犬で生後2か月程度の赤ちゃんだったが現地人から譲り受けた。

 「シンバ」は現地語でライオンの意味で、逞しく育つように命名したのだった。そんな訳で毎日ミルクを与え大切に育てた。また、友人に立派な犬小屋も作って貰った。
 そんな「シンバ」だったがまだ成犬に成長する前の生後6-7カ月の頃、又もや我が家が泥棒にやられた。今度は留守中の出来事だった。
 シンバはまだ大きく成り切っていない時であり番犬として役立たなかったのだ。それまで家の周囲は屏で囲まれておらず我が家のテリトリーが曖昧だったので今度は家のぐるりにフェンスを作って貰った。
これでテリトリーがはっきりしたのと生後1年近くなると体も大きくなり番犬らしく逞しくなって来た。

 日本人には吠えず、基本的にサーバント以外のザンビア人と白人には吠えたが私が許した人には吠えなかった。命令は英語で教えた。行儀も教えた。お座りはSit downで腰を下ろすこと、Handでお手、Stopは停止、Goは行け、Come Hereはこちらへ来いなど多数。
食事も私がYesと言わなければ食べなかった。状況を十分察知できる賢いシンバだった。

 シンバに纏わるこんな出来事もあった。
私が仕事で1ヵ月ほど首都に出かけた時、餌にTボーン肉を準備し毎日シンバに与えるようサーバントにお願いして出かけた。
仕事が終わりNdolaの自宅に帰ってみると痩せているではないか。。。以前は栄養満点で胴のくびれがやや太かったがそれがほっそりしている。
 餌が十分でなかったのは直ぐわかった。早速サーバントの尋ねたところシンバ用の肉は自分が食べたと明確には言わなかったが自分が食べたことは明白であった。サーバントが出張前の申し付け通りしなかったのはシンバが痩せていることが証明している。

 サーバントを叱り、申しつけ通りしなかったので解雇することもあり得たが冷静になってみればサーバントも十分に肉が食べられないのに主人が可愛がっているとは言え、お犬様に毎日肉を食べさせる矛盾を感じたに違いないと思い反省した。愛犬シンバには十分な食事を与えたが、以降、サーバントにも肉や米などを分け与えるようにし、給与も上げた。

 シンバは私のことを親のようになつき、私がいないときは家の軒下の立派な犬小屋を居場所としていた。私が帰ってくればさっと出迎え、家にいるときは何も言わなくても状況を察知し私の動向を見て室内にも入って来る賢さだった。シンバは常に私のことを気にしてくれていた。

 そんなシンバとの生活も2年間の任務終了に伴う別れが待っていた。
赤ちゃんの時から育てたので日本に連れて帰ろうかとも考えたがシンバはザンビア育ちでありザンビアの犬であることから残すことにした。現地人に引き取って貰うことにしていた。
 シンバは私が何やら帰国準備をしているのを知ってか知らぬか察知しているかのように別れの日が近づきに連れて、いつもになく私の周りにいるようになっていた。別れを感じていたに違いない。別れの数日前からシンバは目が潤んでいた
 別れの当日は目からポロポロと涙を流した。まるで人間と同様な有様であった。
シンバは私が自宅を離れるとき追いかけて付いて来ようとした。私はシンバにStop静止命令を何回も発し止めさせた。まるで映画の別れのシーンのようだった。
 愛しの愛犬シンバだったが帰国も幸せな生活であって欲しいと願っていた。
これは43年前の1979年8月のことである。懐かしい思い出である。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「海外の旅」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事