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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第80回) 家族で行ったオーストラリアの旅

  1995年1月、赴任中のタイのバンコクから正月休みを利用して家族5名と義母の6人がオーストラリアのシドニーとゴールドコーストのあるブリスベンを訪れた。その前年の正月はシンガポールだった。
 
 バンコクでは正月休みなどの時間中、現地のトラベルエージェントが外国人向きに色々の対地の5日間~1週間程度のツアーを企画販売していた。(団体旅行ではない)
 我が家も中国雲南省、カンボジア、ビルマ、ベトナムの東南アジアの国も検討したが最終的にオーストラリアにした。オーストラリアは広大で東西南北、国内と言っても遠いので短期では多くは行けない。
 私は昔からシドニーの貝型のオペラハウスに行ってみたかったし、ゴールドコーストにも興味があった。タイでもプーケット、コサムイ、パタヤなどの海水浴のリゾートにも行っていたので家族をゴールドコーストに連れて行ってやりたかった。
 
 
 オーストラリアへはバンコクから英国航空でまずカンタス航空でゴールドコーストに入った。タイからの時差は無いが飛行時間は真南に8時間程度のフライトで結構遠い。
 ゴールドコーストのホテルは「パインズリゾートプリンスホテル」だった。このホテルは日本のプリンス系のホテルだった。ゴールドコース海岸から少し内陸側のリゾート地でゴルフ客なども多数宿泊していた。丁度。我々が滞在した時、元日テレのアナウンサーの徳光和夫が宿泊していた。
 
 ブリスベンの「ゴールドコースト」は輝くばかりの強い太陽の海岸で世界から来た外国人で溢れていた。ハワイのワイキキビーチに似た雰囲気で、海岸通りの店には「ワーキングホリデー」で来ている日本人が多くが店員として働いていたのには驚いた。数日間ブリスベンを楽しんだ後、「シドニー」に向かった。
 
 
 「シドニー」のホテル名は忘れたが中心部の落ち着いた5スターのホテルだった。オーストラリの首都はキャンベラであるが「シドニー」はオーストラリア第1の都市だ。
 
 まず家族6人でバスによるシドニー市内観光に出かけた。英国の移民国家だけに英国風の地名、街並み、スロープのある地形、ゆったりとした生活リズム、普通の人がヨットなどを持つ豊かな日常生活など日本人には羨ましいところであった。
 
 シドニー全体を把握した後、あちこちと出掛けたがやはり最大は畔に建つ「シドニー・オペラハウス」だった。1973年に竣工したこのオペラハウスは出来た時から注目していた。私は昔からオペラが好きでニューヨークのメトロポリタン歌劇場も出張の空き時間を見つけ鑑賞したことがある。
 シドニーでは2晩、オペラハウスに出かけた。1晩は管弦楽、2晩目はプッチーニの『トゥーランドット』(Turandot) を家族で観に出掛けた。
私は念願のシドニー・オペラハウスでのオペラ鑑賞で満足だったが下の子供にはさすがに長くて面白くなかったらしくコックリコックリしていたのを思い出す。
 私は英国に滞在したことがあるので分かるのだがシドニーのダウンダウンは街並みが英国と似ているので好きだった。家族の印象もそれにちかいものだったようだ。
 オーストラリアではどんな食事を摂っていたか記憶にない。多分、国民食のハンバーガーや一般的な西欧料理やオージービーフ、魚料理だったに違いない。オーストラリア料理といったものはなかったと思う。その点、食事に関してタイは正にタイ料理天国だった。
 
 あっという間のオーストラリアの旅だったが確かバンコクに戻ったのは学校の始業1日後だった。バンコク日本人学校では色んな事情で帰国できないこともありこのくらいの誤差は認められていた。
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