”スローライフ滋賀” 

【滋賀・近江の先人第144回】小野組の恩人・初代村井権兵衛主元(高島市)

 初代村井権兵衛主元、1641年ー元禄2年(1689年)48歳没。近江高島大溝の小野新四郎則秀の二男。近江高島商人。
初代「村井権兵衛主元」は近江国高島郡大溝(高島市)の出身で本姓は小野であったが、盛岡に下った際、知人の「村井新七」の家にわらじを脱ぎ志和(現在の岩手県紫波町)に独立するまで世話になったので姓を村井と変え、屋号を「志和近江屋」といった。


↑出典:小野組物語(久保田暁一著)

 南部氏が盛岡に城下町を建設すると他領の商人が続々と入ってきて領内の商業活動を牛耳るようになるがその中でも目ざましい活躍をしたのが近江(滋賀県)出身の商人であり、その代表者が志和(岩手県紫波町)の「村井権兵衛主元」とその一族であった。

 志和の上平沢へ移った年代は明らかでないが、この地が八戸藩に編入された寛文の頃と推定される。
 村井権兵衛主元は1677年、志和近江屋を立ち上げ、ここに新居を設けると良質の水と志和米をもって灘仕込みの清酒(すみ酒)を造って売出した。当時この地方はもっぱら濁酒であったからこれは酒造業に対する一つの革命であり、後に優秀な志和杜氏を生む原因となった。
その表面上の醸造高は150石程度であったが実際にはこれをはるかに上廻るものであったろう。「あねこどこさいく一升樽さげて、志和の権兵衛どに面買いに」と唱われた程で、当時この地方ののんべい族には大きな魅力であったらしい。

 この外、滝名川の砂金採取、味噌醤油の製造販売、質屋の営業、塩の一手販売、京都の質流れの古着販売など広範囲の仕事に手をつけて僅々十数年の間に莫大な財産をつくりあげ、一代のうちに盛岡には井筒屋善助、井筒屋清助、芳野屋宇兵衛、日詰には井筒屋権右ェ門、桝屋佐兵衛などを分家させた村井家は大正13年(1924年)に至って没落したが、それまでは代々酒屋を経営し、明治30年頃には最高3,000千石にまで達した。その銘柄は福鯛と称して有名であった。

また、村井権兵衛主元は後の小野・村井家(100数十年後の小野組の元祖)を発展させた兄小野善五郎直嘉の長男小野善助教包(盛岡・京都井筒屋善印の祖)と二男の村井権兵衛唯貞(志和近江屋2代、京都鍵屋・郡山井筒屋の祖)を南部の店で預かり育成した。

 村井家の人々は商人として活躍しただけでなく、第8代目の村井義堂などは志和代官所の助役に起用され、また文人としても地方に名をなす程であった。

<紫波町ふるさと物語22より引用>

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