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【滋賀・近江の先人第100回】日本生命三代目社長で中興の祖・弘世 助太郎(彦根市)

弘世 助太郎(ひろせ すけたろう)、明治4年(1871年) - 1936年(昭和11年)。実業家。日本生命3代目社長で「中興の祖」とされる。弘世 現は娘婿。彦根市出身。

 


弘世家は元々嵯峨源氏の後裔で由緒正しい旧家だったというが、江戸時代に彦根城下に移り住み、商人として成功し、万延元年(1860年)の桜田門外の変以降、彦根藩の御用金役を務めた家柄だったという。

 



弘世 助太郎は、
1871年(明治4年)弘世助三郎(日本生命の創業者)の嫡男として滋賀県彦根に生まれる。
京都第三高等中学校(旧制三校・現京大/岡山大)卒業後、

父助三郎の事業の後継者としての素地を作るため
1896年(明治29年)、三菱合資銀行部、勧業銀行、日本倉庫支配人を経て
1900年(明治33年)、山口銀行副支配人に入り、
1908年(明治41年)、父弘世助三郎の取締役退任に伴い日本生命取締役に就任した。
助太郎は山口銀行の支配人・監査役をつとめ、その後、関西信託や三和銀行の取締役に就任し、山口財閥とは極めて密接な関係にあった。
1919年(大正8年)、日本生命専務取締役就任
1928年(昭和3年)12月29日、日本生命社長に就任。
1936年(昭和11年)に亡くなるまで、その任に当たった。
助太郎には3人の娘がいたが、嫡男がなく、その遺言により、当時常務取締役だった成瀬達(弘世現の長兄)が4代目社長に就任した。
そして、この助太郎の三女・芳子の入婿となり弘世家を継いだのが、「成瀬 現」こと「弘世 現(ひろせ げん)」だった。

中興の祖
日本生命は第2代社長片岡直温が、1919年(大正8年)2月18日にその職を辞してから、社長不在時代が続いたが、弘世助太郎は専務として実質的に経営の舵取りを担っていた。
この間、不況に加え関東大震災による罹災などがあり保険業界にとっては苦難の時代であったが、弘世の経営手腕で業界トップの地位を維持した。
そうした難局を切り抜けたことに加え、地方の富裕層による代理店中心の営業チャネルを日本生命が直接雇用する営業社員に切り替えたことがその後の日本生命の更なる発展の礎を築いたとされ、「中興の祖」と呼ばれるようになった。

この他、生命保険協会理事長、関西信託、三和銀行、日本無線電信、都ホテル、大阪ホテル、大阪毎日新聞などの重役も兼任した。

日本生命歴代社長
鴻池家第十一代当主・鴻池善右衛門(日本生命初代社長)
(*弘世助三郎(弘世助太郎の父)は実質、日本生命の創業者
片岡直温(日本生命二代目社長)
弘世助太郎(日本生命三代目社長)
成瀬 達(日本生命四代目社長、弘世 現の実兄)
弘世 現(日本生命五代目社長)

<Weblio辞書引用>

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