9月28日に88歳で亡くなった元内閣官房長官で元滋賀県知事の「武村正義さん」。
長浜市高月町の雨森集落が、地元出身の儒学者「雨森芳洲」の功績に着目し、芳洲が尽力した日朝交流を継承するのを、武村さんは後押しした。
芳洲の顕彰施設「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」の元館長平井茂彦さんは、雨森のまちづくりの礎を築いたのが武村さんだったと振り返る。


↑写真:中日新聞より
武村さんと雨森集落の交流の始まりは、滋賀知事時代の1980年ごろにさかのぼる。当時自治会長だった平井さんは「武村さんは『集落がよくならなければ市町村も滋賀県もよくならない』と訴えてくれた」と話し、取り組みの一つが「わが町を美しくコンクール」だったという。
1982年、魅力ある集落を表彰する滋賀県主催のコンクールが始まり、1983年の第2回で、雨森区(当時)は雨森芳洲の資料を守り続けてきた点などが評価されて金賞を獲得した。
平井さんは「私を含め、住民が芳洲さんの功績に目を向けるきっかけになった」と話す。
それまで芳洲に関する資料は、自治会の蔵に保管し、一部の専門家にしか公開していなかった。自治会として「芳洲先生の業績を広めるためにはオープンな施設が必要」と考え、武村さんに訴えると、「ええとこに目をつけたな」と賛同を得た。滋賀県の支援を受けて1984年に「芳洲庵」が完成した。
「滋賀県とのやりとりのうちに、いつの間にか『東アジア交流ハウス』の文言が付け加えられていた」と平井さん。命名したのは武村さんだと、後に本人が語っていたという。「(日朝外交に尽力した)芳洲に倣い、アジアが交流できる場所になるようにと願いを込めたようです」と回顧する。
武村さんが望んだ通り、「芳洲庵」は、韓国から朝鮮通信使や芳洲について学びに中高生らが訪れるなど日韓交流の拠点になった。平井さんは「武村さんによって、雨森のまちづくりは進んできた」と振り返る。
武村さんと住民が交流する写真や、当時の自治会の広報誌などを陳列している。平井さんは「この展示で感謝の思いを届けられたら」と語る。
【滋賀・近江の先人第39回】朝鮮通信使実務に尽くした儒学者・雨森 芳洲(長浜市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/d923c1ccc0f90783e275b34c3ba03328
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「武村さんありがとう展」
期間: 11月15日(火)まで。09:00〜16:00(月曜と祝日の翌日休館)
場所: 東アジア交流ハウス 雨森芳洲庵(長浜市高月町雨森1166)
入館料: 高校生以上300円、小中学生150円
問い合わせ: 芳洲庵=0749(85)5095
<中日新聞より>