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【滋賀・近江の先人第39回】朝鮮通信使実務に尽くした儒学者・雨森 芳洲(長浜市)

雨森 芳洲(あめのもり ほうしゅう、寛文8年5月17日(1668年6月26日) - 宝暦5年1月6日(1755年2月16日))は、江戸時代中期の儒学者。
諱は俊良、のち誠清(のぶきよ)、通称は藤五郎・東五郎、号は芳洲、字を伯陽、漢名として雨森東を名乗った。近江国雨森村(現長浜市高月町雨森)出身。

 
 
中国語、朝鮮語に通じ、江戸時代中期、対馬藩(現長崎県対馬市)に仕えた儒学者で藩の教育のほか、李氏朝鮮との通好実務にも携わった。新井白石・室鳩巣ともに木下門下の五先生や十哲の1人に数えられた。

朝鮮通信使来日の際にはその随行儒者として、正徳元年(1711年)の第8次と、享保3年(1718年)の第9次の通信使に同行し活躍した。自らの経験から、朝鮮外交の指針書「交隣提醒(こうりんていせい)」を著し、国際関係における文化の相互理解や、「誠信の交わり」を説くなど、日本と朝鮮の善隣外交に顕著な業績を残した。

ヒストリー
寛文8年(1668年)、近江国伊香郡雨森村(現・滋賀県長浜市高月町雨森)の町医者の子として生まれた。

1679年、12歳の頃から京都で医学を学び、1685年頃、江戸へ出て朱子学者・木下順庵門下に入った。同門の新井白石、室鳩巣、祇園南海らとともに秀才を唱われ、元禄2年(1689年)、木下順庵の推薦で、当時、中継貿易で潤沢な財力をもち、優秀な人材を探していた対馬藩に仕官し、元禄5年(1692年)に対馬国へ赴任した。この間、長崎で中国語を学んだこともある

元禄11年(1698年)、朝鮮方佐役(朝鮮担当部補佐役)を拝命。元禄15年(1702年)、初めて朝鮮の釜山へ渡り、元禄16年(1703年)から同18年(1705年)にかけて釜山の倭館に滞在して、朝鮮語を学んだ。この間、朝鮮側の日本語辞典『倭語類解』の編集に協力し、自らも朝鮮語入門書『交隣須知』を作成した。
また、江戸幕府将軍の就任祝いとして派遣される朝鮮通信使に、6代・徳川家宣の正徳元年(1711年)と8代・徳川吉宗の享保4年(1719年) の2回、通信使の江戸行に随行した。なお、吉宗の時の使節団の製述官であった申維翰が帰国後に著した『海遊録』に、雨森芳洲活躍の姿が描かれている。

対馬藩の文教や朝鮮外交文書の専門職の真文役(記者)となった。篤実な人格で人々に信頼を獲得して、名分や徳業を重視して、熱心に子弟の教育にあたった。
隠居の日々

享保5年(1720年)には朝鮮王・景宗の即位を祝賀する対馬藩の使節団に参加して釜山に渡っている。 しかし、朝鮮人参密輸など藩の朝鮮政策に対する不満から、享保6年(1721年)に朝鮮方佐役を辞任し、家督を長男の顕之允に譲った。
その後は自宅に私塾を設けて著作と教育の日々を過ごしたが、享保14年(1729年)、特使として釜山の倭館に赴いた。享保19年(1734年)には対馬藩主の側用人に就任、藩政に関する上申書『治要管見』や朝鮮外交心得『交隣提醒』を書いている。

宝暦5年(1755年)、対馬厳原日吉の別邸で死去した。享年88。諡は一得斎芳洲誠清府君。墓は日吉の長寿院にあり、傍らに顕之允も葬られている。
逸話

芳洲は様々な外国語に堪能であったことから、とある中国人に「君は多彩な語学に精通しているようだが、なかんずく日本語が最も流暢だ」と冗談交じりに言われたことがある。
思想的には大陸思想(小中華思想)を信仰し、自身が日本人である事を悔やみ「中華の人間として生まれたかった」と漏らした記録が後世に伝わる。
当時日本で流行していた男色を、芳洲も嗜んだようだ。申維翰は、日本の男色趣味を「奇怪極まる」と眉をしかめ芳洲に苦言を呈した折、「学士はまだその楽しみを知らざるのみ」と逆に諭されたという。

東アジア交流ハウス雨森芳洲庵
長浜市高月町雨森1166
0749-85-5095
 
<Wikipedia引用>
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