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【滋賀・近江の先人第230回】淀殿の乳母・大蔵卿局(京都府・長浜市)

大蔵卿局 / 大蔵局(おおくらきょうのつぼね / おおくらのつぼね、生年不詳 - 慶長20年(1615年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。丹後国の地侍で豊臣秀吉の家臣大野定長の妻。子に治長・治房・治胤・治純。

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大蔵卿の出自、場所、名はよく判らない不思議な人である。夫の大野氏は丹後の生まれと言われるが近江という説もある。夫大野定長が浅井長政の家臣だったことから茶々の乳母になりその後の人生が変わって行く。

それにしても自分の子供もありなから激動の戦国期、浅井、柴田、豊臣に仕え浅井3姉妹に尽くした人生は見事である。真性の近江の女性だったかどうか不明であるが近江と関わりが深かった人であることは間違いない

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生涯
大蔵局は浅井長政の家臣と言われる大野定長の妻で、淀殿・茶々の乳母で、豊臣秀頼の乳母を務めたともある。

浅井長政が姉川の戦い、小谷城落城後は一時清洲城、その後、信長の弟織田信包の伊勢・安濃津城(津城)でお市と浅井3姉妹と共に柴田勝家に嫁ぐまでの10年近く過ごした。(注:近年の研究によると尾張守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられたとされている)

本能寺の変で市、浅井三姉妹と共に、柴田勝家の北ノ庄城に入った。勝家滅亡後は市の遺言を守り、3姉妹を守るため権力者となった秀吉のもとに身を寄せることになった。その後、茶々は秀吉の側室になったがその時、大蔵卿の夫大野氏は丹後と摂津に1万石を得た。名目は夫の論功とのことだが大蔵卿の力大であった。また、息子たちも秀頼の側近に取り立てられている。

慶長3年(1598年)豊臣秀吉の死後、正室であるおね・高台院とその奥女中兼祐筆だった孝蔵主、お鍋の方等が大坂城から去ると、子の大野治長ら三兄弟と共に豊臣家で権勢を振るった。

慶長19年(1614年)に起こった方広寺鐘銘事件では、駿府の大御所・徳川家康の元へ使者として派遣される。その際に、家康は彼女には面会し、従前から交渉に当たっていた片桐且元とは面会せず、その後に本多正純と金地院崇伝を介して、両者に徳川家に秀頼に対する隔意が無いことを示すように命じている。

この時、片桐且元が提案した3案
 1.  「秀頼の駿府と江戸への参勤」
 2.  「淀殿を江戸詰め(人質)とする」
 3.「秀頼が大坂城を出て他国に移る」

に秀頼・淀殿は怒り且元を誅殺しようとしたので、且元は大坂城から退去し、一部の武将も豊臣家を見限り同じく退去した。
尚、「大蔵卿局は大坂に戻る途中に且元からこの3案を聞き、先に戻りこれを秀頼・淀殿に讒言した」とされるが、当時の史料には大坂帰還後の彼女が何かしらの役割を果たしたとする記述はない。


慶長20年(1615年)、大倉卿は大坂の陣で敗れ自害した秀頼や淀殿に殉じて、子の治長と共に自害した。浅井3姉妹を守り、茶々は非業を遂げたが二女初は京極家、三女小督は徳川家に嫁ぎ代々を引き継いだ。

戒名は智勝院桂宗春大禅定尼。

<Wikipedia等引用>

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