”スローライフ滋賀” 

【滋賀・近江の先人第103回】トヨタ自動車の大番頭/中興の祖・石田退三(常滑市・彦根市)

石田 退三(いしだ たいぞう、旧姓澤田、1888年(明治21年) - 1979年(昭和54年)。旧姓澤田。
元豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)社長、元トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の社長・会長・相談役。戦後のトヨタ自動車の建て直しをし、豊田英二と共に「トヨタ中興の祖」と呼ばれる。


石田退三は、
愛知県知多郡小鈴谷村字大谷(現常滑市)に生まれた。澤田徳三郎の五男。家は農家で男の兄弟が五人あった。

父親を早くに亡くし、進学できず丁稚奉公に出されるところに遠戚に当たる児玉一造(豊田佐吉と親交があり、児玉一造の弟は佐吉の婿養子となる豊田利三郎)の支援で彦根市の滋賀県立第一中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)を卒業し、しばらくは代用教員として働く。

豊田 利三郎」については下記のサイトで紹介している。

【滋賀・近江の先人第10回】婿入りして豊田グループの総帥になったトヨタ自動車初代社長・豊田 利三郎(彦根市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/89a74f4f9d66af5f63ea262720830db9

石田退三の最初の勤め先である西洋家具屋で商才を身につける。
結婚を機に退職(養子縁組をしてこのときに姓を石田に改める。夫人を紹介したのは児玉である)上京して呉服問屋に勤めるも退職。

児玉一造の紹介で「服部商店」(現興和)に入社し、上海駐在中に豊田佐吉と出会う。
店主・服部兼三郎の急逝後に豊田紡織(現トヨタ紡織)に入社。紡織時代は豊田利三郎の下で働き新工場の建設の用地買収を任されたときに突然中止となるという出来事が起こる。
これは豊田自動織機製作所自動車部の新工場建設のために買収資金が回せなくなったというのが理由である。その工場は挙母工場(現在のトヨタ自動車の本社工場)の建設に当てられ、石田自身しばらくは自動車製造に対して(自動車部を作った豊田喜一郎に対しても)反対し続けることとなる。

豊田自動織機製作所自動車部発足後、豊田紡織の監査役(すぐに取締役)在任中、自動車部のピストンリングを探して欲しいと頼まれたときに本田宗一郎と出会い、ピストンリング製作の下請けを依頼。本田の会社東海精機株式会社は大きくなるが、三河地震による壊滅的被害と共にこの会社は豊田自動織機製作所に売却される。その際石田自身も社長を務めていた。


戦後の混乱期も、豊田自動織機製作所の人員整理や、度重なるGHQへの申請で輸出が許可され、戦後の経営危機の中、豊田自動織機だけはすぐに経営が安定した。

1948年(昭和23年)に豊田自動織機製作所の社長となったが、トヨタの労働争議が激化すると豊田利三郎より社長就任を要請される(喜一郎が労組との約束を果たせず、トヨタがただ一度行った人員整理の責任を取って辞職するという形となったためとされる)。
1950年(昭和25年)からトヨタ自動車工業社長を兼務すると朝鮮戦争が起こり、日産自動車といすゞ自動車との入札合戦に勝利し、急速に業績が回復する。

1961年(昭和36年)8月に会長、1971年(昭和46年)1月に相談役に就任。 1979年(昭和54年)9月18日死去。享年90。旧勲一等瑞宝章(昭和45年。現在の瑞宝大綬章に相当。)


冷静な判断でトヨタを救う
1950年7月18日、臨時株主総会でトヨタ自動車工業株式会社の社長に石田退三が選任された。豊田喜一郎社長の辞任を受けて、危機に立つ会社の再建を託されたのだ。豊田自動織機製作所社長との兼任である。“最後の大番頭”と呼ばれた闘魂あふれる男が、窮地を脱するための切り札だった。

ドッジラインによる不況で自動車の販売は低迷し、日銀の主導による協調融資でようやく息をついたところだった。労働争議も終結して社員の意欲は高まっていたが、借入金が10億円にも及ぶ中では石田の豪腕をもってしても状況の打開は簡単ではない。しかし、状況は突然変わった。社長に就任する直前の6月25日に、朝鮮戦争がぼっ発したのである。これによって発生した特需は、日本経済にとってカンフル剤となった。中でも大きな恩恵を受けたのが自動車業界だった。

石田はあらゆる手段を使って米軍からの受注をとろうと走り回った。7月31日、軍用トラック1000台の契約が調印された。販売額は5億円を超える。さらに8月には2000台以上の追加注文があった。受注金額は15億円以上である。トヨタは合計4676台の車両を販売し、売り上げた金額は36億円に達した。翌年の3月決算では2億2930万円の純利益を記録し、戦後初の配当を行った。石田は、わずか1年でトヨタを復活させたのだ。

石田は確かに幸運児だったが、運だけによって成功を導いたのではない。好機をとらえ、積極的な再建策を打ち出したのだ。月産650台の生産能力を1000台までに高めながら、従業員の補充は行わない。配置転換と残業で能率を上げ、引き締まった生産体制を整えた。ここで浮かれて人手を増やせば、特需が収まった時に過剰人員に苦しめられる。冷静な目で先を読み、将来のために力を蓄えた。人を増やさない代わりに設備投資には資金を使い、フォードの視察から帰ったばかりの豊田英二の意見を取り入れて設備近代化5カ年計画を策定した。大胆で的確な大番頭の決断が、トヨタが日本のモータリゼーションに取り組む基礎体力を作ったのである。

佐吉の言葉が行動の規範となる
石田は豊田家の人間ではないが、血はつながらないながら遠い縁戚関係にある。生まれは愛知県知多郡の小鈴谷村(現在の常滑市)で、農家を営んでいた沢田家の6人兄弟の末っ子として生まれた。高等小学校には行かせてもらったものの、当時の社会事情では中学進学は諦めざるを得なかった。彼を救ったのは、義理の従兄弟にあたる児玉一造である。彦根の児玉家から中学に通うことになったのだ。児玉は後に豊田佐吉の後援者となり、彼の弟の利三郎は豊田家に婿入りすることになる。

石田は中学卒業後に代用教員になるが、商売への思いは捨てがたく、京都の輸入家具店に就職した。商才を現した彼は大阪に支店を開いて成功させるが、児玉の勧める縁談を受け入れて彦根の石田家に養子に入り店を辞めた。今度は東京に出て呉服屋に勤めるが長続きせず、またも児玉の紹介で名古屋の繊維商社・服部商店で働くことになる。これが石田の転機となった。社長の服部兼三郎は佐吉の後援者で、豊田家とのつながりがここから始まったのだ。

服部商店は上海に出張所を開設することになり、石田はその駐在員に抜てきされる。1920年には佐吉が上海に紡績工場を作り、石田は発明王と親しく接する機会が多くなる。石田は、その頃佐吉から何度も同じ話をされたという。『石田退三語録』によれば、こんな言葉だった。
「石田、キミ、商売人ならカネをもうけてくれ。そうしてワシらめぐまれん研究家を助けてくれ」
この経験が、石田のそれからの行動の規範となった。

石田は服部商店を辞した後に商売を始めようとするが、児玉から強引に誘われて豊田紡織に入社する。1927年のことである。利三郎が常務取締役として会社を指揮していた。彦根時代、石田と豊田利三郎は兄弟同然の生活をした仲である。

大阪出張所長として業績を伸ばし、インドでも販路を広げた。名古屋に帰ってくると、ちょうど豊田喜一郎が自動車部門への進出を目指して熱心に開発を行っていた。石田はプロの商売人として無謀な賭けを是認することができず、強硬に反対論を唱える。しかし、それから15年後、トヨタ自動車工業の救世主となったのが石田だったのだ。

必要なものへの投資は惜しまず
再建を軌道に乗せ、石田は東京の喜一郎宅を訪れた。社長復帰を求めるためである。彼は社長就任のあいさつで、業績が好転すれば喜一郎に戻ってもらうことを提言していた。再び喜一郎を社長に迎え、ようやく乗用車の生産という夢を実現することができる。そう考えた矢先、喜一郎は若くして他界してしまう。乗用車の夢は、石田が引き継がねばならなくなった。

技術に関しては、豊田英二をはじめとして精鋭がそろっている。石田は佐吉に説かれたことを守り、彼らエンジニアが安心して開発を行うことができる環境を整えることに専心した。100万円の金を借りるにも苦労した危機の場面を忘れず、現金の大切さを重んじた。本業で稼いだ資金で借金を返済し、自己資本を充実させて強靱な財務体質を作り上げた。営々と積み重ねられた努力が結実し、1978年にトヨタは無借金経営を実現している。

倹約を旨としながら、必要な投資は惜しまなかった。1955年、初めての本格的純国産乗用車であるクラウンが誕生する。3年に及ぶ開発期間に投じられた資金は、50億円を超えた。他メーカーが欧州車のノックダウン生産を行う中、巨額な資金を投じて自主開発を進めたのである。技術を蓄積すれば、かけたお金は大きくなって戻ってくると信じたのだ。

1957年、クラウンより小型のコロナが発売される。従来の工場は手狭になり、英二の進言で新工場を建設することになった。それが元町工場である。建屋は月産1万台規模で、設備は5000台規模に抑えた。この時期のクラウンは月販2000台であり、販売が伸びなければ投資は遊休設備を増やしただけの結果になってしまう。それでも石田はモータリゼーションの進展を信じ、ゴーサインを出した。彼は、この賭けにも勝利する。岩戸景気の波に乗り、クルマの販売は急激に伸びた。1959年8月に工場が完成すると、その年の暮れにはフル稼働で生産を行うようになったのだ。

元町工場の成功を見届けると、1961年8月に石田は社長を退いた。還暦を過ぎて社長になった石田は、すでに72歳になっていた。喜一郎の自動車部門進出に反対した彼が、トヨタを日本一の自動車会社へと育てた。トヨタの体制は盤石であり、エンジニアは後顧の憂いなくクルマの開発にまい進することができる。佐吉の言葉を忠実に実践し、石田は次世代にバトンを渡した。

<Wikipedia等引用>

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