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【滋賀・近江の先人第10回】婿入りして豊田グループの総帥になったトヨタ自動車初代社長・豊田 利三郎(彦根市)

豊田利三郎(とよだ りさぶろう、1884年(明治17年)3月5日 - 1952年(昭和27年)6月3日、68歳没は、滋賀県彦根市出身の実業家、トヨタ自動車の初代社長。
 
 
豊田利三郎は、豊田の創始者豊田佐吉の婿養子(長女愛子の夫)で、豊田自動織機製作所及びトヨタ自動車工業の初代社長である。但し、トヨタ自動車工業の実質的な創業者は、佐吉の実子で利三郎の義弟にあたる豊田喜一郎であるとされる。
因みに、豊田家は佐吉→喜一郎→章一郎→章男(現社長)の順となる。
 
利三郎と豊田との関係
三井物産綿花事業部長で、後に東洋棉花株式会社(後のトーメン、現在の豊田通商)の創業者・初代社長となる実兄の児玉一造が豊田佐吉の自動織機事業の理解者であったことから、1915年(大正4年)に豊田家の婿養子に迎えられた。妻の愛子は喜一郎の妹であるが、利三郎自身は喜一郎より年上であるため、旧戸籍法のもとでは、喜一郎の義兄ということになっている。
 
創業者の佐吉は発明の才能には恵まれていたものの経営には疎かったので、商才に長けた利三郎を迎え入れることは願ったりかなったりだった。
この頃の豊田は、佐吉が背水の陣で臨んだ栄生の織布工場が成功し、どうにか経営基盤を確立しつつある頃だった。栄生の工場は1918年(大正7年)、法人化して豊田紡織株式会社となった。社長は佐吉で、利三郎は常務に就任した。佐吉は発明に没頭していたので、実際の経営は利三郎に任されていた。利三郎は、豊田グループの総帥として経営手腕を発揮した。
 
一方、11歳年下の佐吉の長男喜一郎と利三郎は、性格が全く異なっていた。自動車開発に関しては、推進派の喜一郎と慎重派の利三郎ということで、事あるごとに衝突した。だが、経営の才能は利三郎にあり、利三郎が慎重に経営の舵取りをしたからこそ、喜一郎も自動車にのめり込むことができた。だから、利三郎あっての喜一郎であった。
 
豊田利三郎は、
1884年(明治17年)、滋賀県彦根市生まれ、旧姓児玉利三郎。
神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。東京高等商業学校(現一橋大学)専攻科卒業(商業学士)する秀才。
卒業後、伊藤忠商店(現丸紅)に就職。翌年に新設されたマニラ支店の初代支店長を歴任。
1915年(大正4年)に豊田家の婿養子に迎えられ、伊藤忠商店を退職。
1926年(大正15年)11月18日の豊田自動織機製作所設立に際し初代社長となり、
1937年(昭和12年)に同社自動車部が独立してトヨタ自動車工業が設立されるとその初代社長となった。その後、1941年(昭和16年)1月に喜一郎に社長を譲って会長となる。
1952年(昭和27年)6月3日、68歳にて死去。喜一郎が同年3月27日に死去しているため、彼の後を追うような形になった。
 
生前、利三郎は喜一郎が死んだとき既に病気で寝込んでおり、葬式にも出られる状態ではなかった。元社長の豊田英二が喜一郎の葬式の経過を名古屋の家に報告に行ったが、その時、利三郎は「とにかくトヨタは乗用車をやれ」と床の中からうめくように言った。
トヨタが自動車をやることに一番反対した人が、死ぬ間際に「トヨタはいまごろトラックばかりやってはいかぬ。何が何でも乗用車をやれ」とハッパをかける。私は利三郎に向かって「乗用車は今準備を進めております。間もなく完成するので、必ず見て下さい」と励ましたが、利三郎は遂にこれを見ることなく他界したとある。
 
新生の豊田を守り、トヨタ自動車の創業と乗用車の発展に尽くした見事な近江商人の一生だった。
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