”スローライフ滋賀” 

【滋賀・近江の先人第180回】近江高島商人小野組に貢献/古河財閥の創始者・古河市兵衛(高島市)

古河 市兵衛(ふるかわ いちべえ、天保3年3月16日(1832年4月16日) - 明治36年(1903年)4月5日)は、明治の実業家で、古河財閥の創業者
京都岡崎の大和屋長右衛門の二男。幼名は木村巳之助、幸助。陸奥宗光の二男の潤吉を養子とした。従五位。


ヒストリー
 生家の木村氏は京都岡崎で代々庄屋を務める家柄であったが、父の代には没落しており、巳之助は幼少の頃から豆腐を売り歩く貧乏暮らしで苦労を重ねた。
 7歳で生母と死別し、継母も11歳の時死去し、その翌年に二人目の継母に迎えられた。その継母は新旭町の「木村利助」の妹であった。継母が病に倒れた際、盛岡南部藩で高利貸しを営んでいた母方の叔父で高島商人の「木村利助」が見舞いに訪れ、その際、その親族のもとで修行をすることを希望し、市兵衛は嘉永2年(1849年)18歳の時、叔父である「木村利助」を頼って岩手盛岡へ向かった。 木村利助も高島郡の青年と同様に東北で成功した高島出身の村井、小野組系の商店を頼って行くのが理想としていた一人だった。
 木村利助は盛岡の豪商井筒屋の支配人役を長年勤めた後、領主南部家の士分に取り立てられ勘定吟味役となっていた。利助は節約家で内職で高利貸しを維ちなんでいた。
 盛岡での市兵衛は幼名「巳之助」から「幸助」と改名し、木村利助の高利貸の貸金の取立てを手伝った。やがて南部藩御用商人の鴻池屋伊助店(草間直方が旧名時代に起こした店)に勤めるが、まもなく倒産する。
 ここで8年間勤め、安政4年(1857年)26歳の時、叔父利助の紹介で京都の井筒屋小野店の番頭だった「古河太郎左衛門」と初めて会った。
 「古河太郎左衛門」は新旭町安曇川(高島市)出身で毎年福島に生糸の買付を行い重用されていた。木村利助は幸助を古河家の養子に推挙し、安政5年(1858年)27歳の時、養子として迎えられた。この時、「古河市兵衛」と改名した。これが後の古河財閥の創始者である「古河市兵衛」である。

 その後、養父古河太郎左衛門と共に生糸の買い付けを行っていたが、養父に才能を認められ、順調に小野組内の地位を高めていく。
明治維新以降は築地製糸場(日本最初の機械製糸工場)の設立や院内銀山、阿仁銅山などの鉱山の経営にあたった。
 明治元年(1868年)太郎左衛門が亡くなり、明治2年、市兵衛は38歳で主家の小野善助家から井筒屋の暖簾分けで分家として独立した。

 明治維新期の時流にも乗り、東北地方の生糸を横浜に送り巨利を挙げるなどの成功を収めるが、明治新政府の公金取り扱い業務の政策変更の結果、明治7年(1874年)三井組、島田組と並び称された小野組が破産し、市兵衛は再び挫折を味わうことになる。市兵衛は小野組を去り、独立して諸鉱山の経営に当たることにした。
 しかしその際、政府からの引き上げ金の減額などを頼みに陸奥宗光のもとへ談判に行き、これが縁でのちに宗光の次男を養子にもらうほどの関係を築く。
また、小野組と取引があった「渋沢栄一」の経営による第一銀行に対し、市兵衛は倒産した小野組の資産や資材を提供することで第一銀行の連鎖倒産を防ぎ、渋沢という有力な協力者を得ることに成功した。

 小野組破綻後、市兵衛は独立して事業を行うことにした。まず手始めに秋田県にある当時官営であった有力鉱山、阿仁鉱山と院内鉱山の払い下げを求めたが、これは却下された。
続いて新潟県の草倉鉱山の入手を企て、渋沢栄一から融資の内諾を得るものの、やはりこれも最初は政府の許可が得られなかった。
 しかし、市兵衛は小野組時代から縁があった元相馬中村藩主を名義人に立て、市兵衛が下請けとして鉱山経営を行う条件で、明治8年(1875年)に政府から草倉鉱山の払い下げを受けることに成功した。
草倉鉱山の経営は順調で、明治10年(1877年)には市兵衛は鉱山業に専念する決意を固め、いよいよ足尾銅山を買収することになる(現在の古河機械金属)。

 同年、市兵衛は草倉鉱山と同じく相馬家を買い取り名義人として立てて「足尾銅山」を買収した。
相馬家では家令であった志賀直道(志賀直哉の祖父)が市兵衛の共同経営者となり、そののち渋沢栄一も共同出費者として名を連ねた。
 当時の足尾銅山は江戸時代を通じて無計画に採掘が行われた結果、旧坑ばかりの生産性が極めて低い状態にあり、長年採掘が続けられていたことなどから再生の可能性は低いと判断されていた。
 そのため一時官営化されていたものの、市兵衛の経営権取得時にはお雇い外国人であったゴットフリイの調査結果に基づき民間に払い下げられていた状態であった。しかし市兵衛は足尾銅山不振の真の原因は旧態依然たる経営状態の中で計画的な探鉱、採掘が行われていないことにあると見抜き、足尾銅山の経営に乗り出した。

 しかし、市兵衛が足尾銅山の経営に乗り出した当初は、経営にならない悲惨な状況が続いた。
まず当時の足尾銅山で採掘の現場を仕切っていた山師集団の強い反発に遭った。そのためせっかく経営権を入手したものの、市兵衛が実際に足尾銅山の経営を行えるようになったのは約半年後のことであった。
 続いて山師集団の反発を抑え、足尾銅山の再建に取り掛かったものの、約4年間にわたって全く成果が挙がらない状況が続いた。現場責任者の坑長も立て続けに3人交代し、4人目のなり手が現れないありさまであった。
 明治13年(1880年)、市兵衛は4人目の坑長として当時まだ20歳代の半ばであった甥の木村長兵衛を抜擢、そして翌明治14年(1881年)、木村坑長のもとで待望の大鉱脈を掘り当てた。

 その後、足尾銅山では立て続けに大鉱脈が発見され、銅の生産高は急上昇し、またたくまのうちに日本を代表する大銅山へと発展した。
明治18年(1885年)院内銀山と阿仁銅山を明治政府から払い下げを受けた。
 特に足尾銅山の経営には心血を注ぎ成功し、明治21年(1888年)より市兵衛の単独経営、明治30年頃66歳の時には銅山12、銀山8、金山1などを経営して「鉱山王」と呼ばれた。
 なぜ、このように成功したのは、以下のようなものがあったと考えられている。
1.小野組破産後、3年余死にもの狂いの努力で資金を蓄えた
2.最初の足尾銅山が相馬藩や渋沢栄一との共同経営で協力者がいた
3.小野組に勤務していたころに商才が養われ、政府との人脈、大事業への度胸があった
4.明治政府の払い下げ金が極めて安く、有利な条件だった

 古河財閥は足尾銅山発展の中で形成されていった。しかし鉱山の急発展の中、日本の公害問題の原点とも言える鉱毒問題が発生していくことになる。

 鉱山経営を進める一方で、銅山を中心とした経営の多角化にも着手する。
明治17年(1884年)には、精銅品質向上による輸出拡大と、銅加工品の生産による国内市場開拓を目指して本所溶銅所を開設した。この事業は後の「古河電気工業」へと発展していくことになる。

<Wikipedia及び『高島商人』(駒井正一著)から引用>
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「滋賀・近江の先人」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事