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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第83回) タイでの日常生活(その4)

 タイでの日常生活について前回の(その3)から大分時間が経ってしまった。
タイでの生活は家族5人でバンコクに赴任したときのことがらである。1993年から1995年だったのでもう30年以上昔のことなる。今でも強く記憶に残っているものを思い出して書いてみた。
 
国内観光地旅行
 タイの国内旅行は家族でよく出かけた。バンコク市内だけでも行くところ、見る所は山ほどあったが結果的に全ては行けなかった。これは日本国内に居ても同じである。
タイの有名な観光地は大抵行ったつもりであるが代表的なところが以下である。
 
・バンコクの寺院群
・アユタヤ遺跡
・スコータイの遺跡
・ダムヌンサドゥアック 水上マーケット
・カンチャナブリ クワイ川鉄橋
・パタヤビーチ
・チェンマイ・チェンライ
・プーケット島
・コサムイ島
 
など数えきれないがタイには観光旅行に来ているのではなく、バンコクでは日本での普通の生活のような日常生活があり、バンコク市内やその周辺は日帰りでいつでも行けるとの理由で行っていないところも多い。灯台元暮らしである。
 
 国内旅行はバンコク及び近郊は私のドライバーの運転で何度も行ったこともある。国内旅行でもちょっと遠出をする時は運転手付きのマイクロバスをチャーターし家族 で行った。ドライバーも日本語が出来る人、英語が話せる人、全くのタイ語だけの3種類いたが私たちは英語のドラーバーが常だった。日本語が出来る人よりドライバー料金が廉価だったからである。
 マイクロバスで行った時は大抵3泊4日くらいの小旅行だった。妻の母親がバンコクに遊びに来た時は義母を含めて家族6人で行ったが今は亡き義母孝行が出来たのではなかったかと思う。
 
海外旅行(シンガポールとオーストラリア)
 バンコク駐在の2年間の期間中、2度国外旅行をした。日本にいた頃からみれば大国にいることだけでも一種、毎日が旅の連続だったかもしれないが子供達にタイ国以外の海外の国も見せてやるのもいい経験になるのではないかと小旅行を計画した。
 
 1度目は1994年の日本の正月休み期間中、「シンガポール」に出かけた。その理由は知人が石油元売り会社のアジア太平洋の社長としてシンガポールに駐在していて遊びに来ないかと誘ってくれたからである。勿論、日本人だが二人の子供も成長し、奥さんと二人でシンガポールの生活を楽しんでいた。4泊5日のシンガポール滞在期間中、あちらこちらと案内して貰い、隣国マレーシアのジョホルバルにも出かけた。あっという間のシンガポールだったが子供たちはタイとはまた違った中国人とインド人が中心となす国があることを肌で感じたに違いない。
 
 2度目の海外の旅は翌1995年正月、今度は「オーストラリア」に出かけた。バンコクのトラベルエージェントが日本の正月休み期間に日本人向けに企画した旅が数多くあったがその一つがこの旅だった。
旅先はゴールコースト・ブリスベンとシドニーである。この時は義母がバンコクに遊びに来ていたので家族6人でオーストラリアに出かけた。バンコクから真南に8時間のフライトで英国航空便だった。
 
 オーストラリアの第1Destinationはブリスベンだった。ゴールドコーストに行くためでここでは2泊した。ハワイのワイキキビーチに似た真っ白な海辺で強い太陽が燦燦と降りい注いでいた。海辺にはショップが多く並び、正にオーストラリアのワイキキである。店には日本人が店員として働いていて日本語が横行していた。彼らワーキングホリデービザを得て滞在し、アルバイトで働いているのだ。ビーチにはどこから来たのか定かでないが外国人も多数いた。
 ゴールコーストでは海岸から少し内陸側のプリンスホテル系列リゾートホテルに滞在した。この時ホテルには元TVアナウンサーの徳光和夫がゴルフを楽しむため来ていたのを思い出す。
 
 ゴールドコーストを数日楽しんだ後、シドニーに飛んだ。シドニーには4泊した。私はこの時に長年の夢であった「シドニーオペラハウス」に行くことができた。貝型のシドニーオペラハウスは出来る前から行きたいと思っていたが1995年の時点でもう20年も経っていた。オペラハウスでは一夜は室内楽、もう一夜はオペラ鑑賞でプッチーニの「トゥーランドット」を観た。下の子供はまだ小学生だったので途中眠気に負けZhooと寝てしまう有様を今も覚えている。
 シドニー市内観光にも出掛け、至る所に英国風の町を楽しんだ。英国からの移民が作った街並みなのだ。オーストラリアは極めて広い。シドニーはアメリカのニューヨーク見たいなもので首都キャンベラとはワシントンに似て離れている。シドニーだけ見て判断するのは早計であるが活力のある都市だった。
 子供達のはオーストラリアがどう映ったか分からないが日常生活しているタイとも違った国は良い経験になったに違いない。
 
タイ国のアマチュア無線団体(RAST)への加入と活動
 バンコクに赴任後、RASTに入会させて貰った。外国人にも門戸を開放していて歓迎してくれた。毎月、バンコクのシンハービールのビアホールでの例会には出席し現地のハムとは仲良くなった。特に今は亡き会長には親切にして貰った。
例会に参加するようになり直ぐハムの経験や力量を知られ、コンテストの度にバンコクのスクムビット通りにあったRASTのクラブ局のCWオペレーターとして呼ばれた。
 また、1994年に、SEANETコンベンションが隣国のバングラデッシュのダッカで開催された時、RASTの一員として参加させて貰った。私にとって20年ぶりのバングラデッシュ再訪で懐かしかった。

美味しかったタイのビール(シンハービール、クロスタービール、チャーンビール、プーケットビール)
 日本のビールは殆どなし。時々、アサヒドライがバンコク市内のローカルマーケットに出回ることあった。そんな情報があった時はマーケットに出かけたものだがアサヒドライが製造から日が経ち気が抜けて美味しくなかったことが多かった。多分、外国航路の船員が無断で持ち込んだものに違いない。(国際線の船は領海外では無税。領海に入って持ちこむ場合は税金を払う必要があるが密輸で持ち込んだものだろう)
 タイのビールはアルコール度数が日本のビールよりも高く、同じように飲むと早く回る。また、味は日本のビールより甘い。タイのトップビールメーカーは「シンハービール」である。しかし、私はグリーンボトルの「クロスタービール」が好きだった。クロスターは元々ドイツであるがローカルボトリングをしていて、真は―の甘いビルよりすっきりした味が好きだった。値段は少し高かったが。。。今ではタイではこのブランドはなくなったらしい。
 
現地中学生への学業支援
 帰国直前に我が家は当時まだ貧しくて中学校に行けないタイの中学生のために、中学年間分の学費を寄付した。日本のあしながおじさんのようなものである。
 1993-1995年の2年間だったが我が家の子供達3人は日本人学校でほぼ不自由なく過ごせた御礼の代わりに、現地の中学校の生徒3人分、中学卒業までの3年間の学費を一括寄付した。
 日本に帰国後も3人のタイ人生徒本人から御礼の通信が定期的に送られて来ていた。この生徒たちは無事卒業したようで彼ら成長に何らかの役に立ったすれば嬉しい。小さな感謝の贈りものであった。
 
余暇(ゴルフ天国) タイの古式マッサージ バンコク日本人会
 タイはゴルファーには「ゴルフ天国」だった。良好なゴルフコースが数多くあり、フィーも日本と比べて格段に安かった。私個人は家族ケアーもあり赴任期間中はゴルフはしなった。特に単身赴任の人は毎週末楽しんでいたようだ。帰国後何年か経って兄とタイでゴルフ三昧の旅をしたことがある。
 
 タイでは「タイマッサージ」が有名である。性サービスを伴ういかがわしいマッサージもないことはないが私はタイの「古式マッサージ」が好きだった。タイのワットポー寺院で修業したマッサージ師にやって貰うマッサージは最高である。疲れた時、1時間位マッサージをして貰ったことが何度もある。
 
 「タイ国日本人会」 日本人会はバンコクに置かれていた。休日などにぶらっと出かけることがあった。この組織は現地に工場を持つ日本企業などの人が役員として構成した日本人を代表する現地の日本人の民の団体である。会員は1万人近くいたのではないか。当時、日本大使館に正式滞留(住民)登録した日本人は1万人以下だっと思うが、短期ビザで入国を繰り返す人、短期滞在の人を含めると5万人以上は軽くいたと思う。
 日本人会は大使館や現地の人や組織とも連携が取れていた。当時、バンコク日本人会が盆踊りを開催した時は現地のタイ人を含め大人数なものになったのを覚えている。
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