goo blog サービス終了のお知らせ 

”スローライフ滋賀” 

【滋賀・近江の先人第221回】織田信長・豊臣秀吉に仕えた名将・蒲生氏郷の父・蒲生賢秀(滋賀県日野町)

 蒲生賢秀(がもうかたひで)、蒲生定秀の子。(1534年ー1584年)戦国時代の武将。満50歳没。出身:近江国(日野町)出身。
織田信長・豊臣秀吉に仕えた名将・蒲生氏郷の父。官位は左兵衛大夫。近江日野城主。 

 蒲生賢秀は近江国守護六角義賢(よしかた)の家臣だったが、永禄11年(1568年)近江に侵攻してきた織田信長により六角氏が滅ぼされる(観音寺城の戦い)と、信長の家臣となる。
このとき、織田軍に人質として差し出された嫡男・鶴千代こそが、後の名将・「蒲生氏郷」である。

 本能寺の変が起こったとき、蒲生賢秀は安土城二の丸の留守居であったため、賢秀は本能寺の変勃発を知ると「信長様の側室方やお子様たちをまず日野の谷まで避難させようと決め、日野城へ使者を飛ばして氏郷に牛馬や人足を連れて安土の手前の腰越まで来るよう指示」した。日野谷というのは、綿向山などに囲まれ東西に延びる谷あいの町、日野のことであり、信長の妻・濃姫らを日野城にかくまった。後に明智光秀が莫大な恩賞により賢秀を勧誘するも、一貫してこれを拒絶して、ろう城した。

 賢秀は名分を重んじ自分の考えを曲げない人物で、「頑愚」(『老人雑話』)とさえ評された。しかし、彼が頑固だったお陰で近江国では光秀に与する者が多かったにも関わらず山岡景隆が甲賀土山の山中城に籠もって抵抗を続け羽柴秀吉に情報を連絡し続けるなどし、光秀は警戒のため安土城に明智秀満以下の将兵精鋭1000人を残す必要が生じ、秀吉との決戦に不十分な態勢で臨まなければならなくなったという。

 蒲生賢秀の墓は「日野商人街道」を挟んだ向かい側の「法雲寺」(滋賀県蒲生郡日野町西大路1373)にある。

↑写真:蒲生賢秀の墓(『戦国ガイド』より)
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「滋賀・近江の先人」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事