どさ

詩を投稿しはじめました。
そのうち、紀行文も予定しています。
落ち着きに欠けたものが多くなりますがそれしかありません。

わたしがオロロン 優雅の鳥

2019-11-07 05:52:31 | ドサ日記

わたしがオロロン、優雅の鳥 (留萌支庁:羽幌)(07年8月15日) 

 

白浜に 墨の色なる 島つ鳥 筆も及ばば 絵に描きてまし(玉葉集)―なーんちゃってね

 

 オロロン鳥。千鳥目うみすずめ科の一種で和名は海ガラス。鳴き声が「ウォルーン おろろー」と滑稽なようなもの悲しいような声で鳴くのでオロロン鳥と名付けられたという。それ以外は、日本では天売島という小島にほそぼそと暮らすということしか知らなかった、つまり姿形も知らなかった。 

この鳥を意識したのは、20年ちょっと前、嫁さんと北海道旅行をしたときだ。

羽幌町でたまたま車を停めた道のわきに小さく「天然記念物オロロン鳥」という看板。どんな鳥かとちょっと興味を持ったが、自動車の旅というのは早すぎてせっかちである。天売島まで渡る時間があれば、北海道を半周できるのでドンドン進もうぜ!ということで、まだ若かった我々はドンドン、ドンドン先に進み、そのまま人生を進んでいった。 

 旅行後、なにげなくオロロン鳥を調べてみた。黒い頭に白い胴体、潜水して魚を補食するところなどペンギンに似ている。しかし、オロロン鳥の方がはるかに線がなめらかで優雅に見える。

それに、両者は目レベルで異なる全く別の鳥。第一、海ガラスの類は北半球、ペンギンの類は南半球が住み家。元来、船乗り達は、海ガラス、特に大海ガラスなる鳥をペンギン(“このデブ!”という意味)と呼んでいたそうだ。しかし、船乗りがはるばる南極あたりまでたどり着いてみりゃ、

「おや、ここにもペンギンいるじゃん!」と、

そいつらもペンギンと名付けてしまったとのこと。

ちなみに、北半球の大海ガラスは喰って旨かったらしく荒くれ船乗り達の胃袋におさまり、19世紀に絶滅。南の方は不味かったらしく今も元気、因果―。

 

 さて、ドンドン人生を進んでいった自分だが、疲れたのか、このところに来て、ぐっと進むスピードが遅くなった。例えてみれば、自転車を漕ぐくらいのスピードまで遅くなったので、実際に自転車漕いで、野宿を重ね、こんなところをうろついているわけだ。

遅くなると、目に見えるものは減るが、目が行くものは増える。留萌から羽幌町へ進むと、20年ぶりによれよれとなった「天然記念物オロロン鳥」のカンバンがある。

「ああ、これいつか見たいなと嫁さんと言っていたやつだ」、いつかって来るもんだな~。              

--嫁さんも来れば良かったのに--

  では、予定には無かったけど、我が愛車「偶然号」よ、天売に渡り、オロロン見物といこうではないか。島に渡るまでの間、そのオロロン鳥についてもう少し蘊蓄:

「絶滅しなかった方の海ガラスことオロロン鳥だが(よっぽど不味いのかね?)、日本ではずいぶんと減ってしまいました。一大生息地であった天売島の個体数は、1938年には4万羽。んで、この旅をしている2007年には13羽。おや、99.97%減りましたよ。というよりこれほとんど絶滅ですよね。なんか夕張の人口みたいで悲しいなー。原因は幾つかあり、最初は、北海道にニシンが回遊しなくなりオロロン鳥も減少。次に、60~70年代にかけて天売島周辺で行われたサケ・マス流し網漁で、潜り自慢のオロロン鳥も元気よく網に突っ込んで集団お陀仏=激減。さらに個体の絶対数は、あるレベルを下回ると、天敵からの捕食・気候変動等に集団を維持できなくなるそうだが、オロロンもその域に達し、今でも完全絶滅への道を歩んでいるのが現状。」

などと、オロロン鳥について覚えていたことを反芻しているうちに、港に到着。

天売フェリターミナルは大きなオロロン像が目印とあったので、像を探す。すらりとした姿を想像していると、なるほど向こうにすらりとした大きなものが見えてくる。おお、いよいよオロロン鳥の全貌が見える、優雅な~すがたー、ん?

 

わたしがオロロン、カモメのトイレ

                                                                

 うわ!きったねぇー 自分のイメージでは優雅の鳥オロロン、その像に出会ったとき、思わず発した最初の言葉。オロロン像は見事にカモメのWCと化している。

そう、さきほどから言っているオロロン鳥の天敵ってやつが、このカモメ。オロロン鳥と同じ千鳥目ながら、こいつらは、海上に漂着する屍魚、陸上のヒナ、ゴミなどを漁る海のハイエナ。潜水がほとんどできないせいであります。海鳥としては進化の劣等生だったわけですね。ところが、これが幸いして、オロロン鳥が次々網に引っかかって激減する中、この世の居場所をば広げ、あまつさえ天敵としてオロロン鳥の絶滅にだめ押しをしている次第。元来、天売島に100羽に満たなかったカモメは今やその数千羽を数えるとのこと。うーむ。進化と適応ってそんなに相性にいいものじゃないのかね~?

そして、あわれなオロロン鳥は、像になってまでカモメの攻撃を受け、今や、きやつらのフンまみれで、“どろろ~ん”と曇天に立ちつくしている。

--うわ~嫁さん来なくて良かった--

 

それにだよ!なってこったい。天売島行きフェリーの切符売り場のかあちゃん曰く:

「オロロン?今いないよ。今ごろソビエトじゃないかい?遅かったね、がははー!」

はあ、そうですか、オロロン鳥は渡り鳥だったのですね。。。

 調べもせず来ればこうなる方が断然多い。風任せ・足任せの旅とは、実際のところ、“はぁそうですか..”と終わる事が8割。そういうものと割り切ってはいるが、やはり、あーあ。

 

 さて、“あーあの珈琲はブラックでありき。”やることないし、すぐに出発する気もない。そういう時はコーヒー頼みましょう。船も出て、切符売り場従業員から茶店従業員に代わったかあちゃんが、やはり“がははー”と笑いながらコーヒーを出してくる。うろつくカモメを眺め、哀れなオロロン像を眺め、ぼけーっ。コーヒーが3杯目になるまでぼけた頃、レジ横の“カモメ餌50円”という紙袋が目に止まる。やることもなく、何となく買って外に出る。ガサガサと開けると、中は魚のあら。ホッケの頭やら雑魚が乾物状態で詰まっている。「うへぇー、こんなもの食ってのどに刺さらないのかね?」と思ったが、カモメだしね、朝昼晩と魚丸呑みなら、これが当たり前だよなー。そして、餌をぶらさげ、ぼーっと港に立っていた。ほんとうにぼーっと立っていたのです皆さん。例えてみれば、畳に寝ころんでいると、目の前を猫がぶーらぶらする。その尻尾を軽く弾くと尻尾もぶーらぶら。たまにそこに洗濯ばさみなど挟んでみる、猫ブニャ~と怒る。そんな事を繰り返し、気づけば一日が終わっていた。そんな、ぼーっとした感じ(我ながら何という的確な比喩)。若い頃はあれだけぼーっとすることに憧れたものだが、実際にこういうシチェーションで、やることなくぼーっとしてると、なんだか踏み込んではいけない領域に達したかのように、ぼーっとする。                  

と、そのとき、うろうろしていたカモメの一匹が目ざとくもこちらの袋に気がついた。彼女は、不実な恋人に再会したかのように、上目遣いでシュリ、シュリと近づいてくる「ごはん頂戴- - - 」。そのうち、周囲の連中も気がつき寄ってくる「ごはん頂戴- - - ごはん頂戴- - -」シュリ、シュリ。うへ~目付き悪りー。シュリ、シュリはさらにシュリ、シュリを呼び、じぶんは徐々にカモメの輪に囲まれてきた。

 

あーだこーだ言ってねーで、早く出すもんお出し!。

 

囲まれて、ぼーっとしていた頭が、ハッと我に返った。「おーし、やるぞ、やるぞ。たっぷりあるぞー」50円でこりゃ3kgぐらいあるな、今日日のどこぞの水より安い。

あーらよーっと!手づかみでどばっと投げる。おお、どよめく風のように動くカモメ、すげぇ。餌の両端くわえて翼でぶん殴り合うは、前を突き飛ばして、餌に突進するは、まさに貪り合い。ほーれ、もう一丁!グァー、ギャー、阿鼻叫喚。鳩より下品、ぜってぇ下品!

それにしても、何回投げても餌減らねぇぞー。向こうの空からもどんどん寄ってくる。江戸の若旦那が庶民に小判を投げるがごとく、ほーれ、拾え、ほれ、拾えー。ははは、なんだかおもしれぇや!

--嫁さんも来れば良かったのに--

ふと後ろを見ると、小さな女の子もおもしろそうに見ている。「はい、きみもあげてごらん。」とホッケのアタマをごそっと手渡した。女の子、喜んで“えぃ!” しかし、いけねぇな、少女の投擲力はとーぜん弱い。とーぜん、ホッケは女の子の足下にポトッ。とたん、ドドーンと押し寄せるカモメの嵐。瞬間、女の子はカモメの竜巻に消え、次に、キャーという悲鳴とともに、竜巻から飛び出してフェリーターミナルに駆け込んだ。

ありゃりゃ、何だか悪いことしてしまったな、これで一生、鳥嫌いかな、ははは!

 

はて、そんなことしているとき、群れの中に、カモメと似ているが一回りチビで、羽は白茶まだらで少々キチャナイ(目は真っ黒で可愛らしい)のが数匹混じっているのに気がついた。なんだ、この鳥?

 

このチビ、カモメに比べ、鈍くさいか、頭悪いかどちらか。ともかく群れを走り回る「ゴパンだ、ゴパンだ」どたばた。餌を投げると、もっとどたばた。餌はすべてカモメがパクッ。チビ、全くありつけない、ただ闇雲に「ゴパン、ゴパーン、ゴパーンーー」、けど、やはりカモメがパクッ!チビ、さらにどたばた、たまにドテッ、転けてやんの。が、このチビ、腹は思い切り空いているとみえ、餌を投げる自分の手をウズウズしながら見つめ、終いにはピゥー、ピゥーと泣き始める。不憫になって、近くに餌を投げてやるが、やはり、どたばた、ピゥゥ~。ああ、このアホウ鳥。こんなうすらバカ、よくもこの厚かましいカモメと共存していけるな~、近いうち滅びるぞお前らも。そう思いつつ、餌を投げ終わる。結局、雑魚一つさえ、このチビどもには渡らず、すべてカモメの胃袋におさまってしまった。可哀想だがどうしよもない。

                                                                                         

 

        どんくせぇんだ、こいつがまた

 

 とっても、下らないが、何となくすっきりし、出発する気分となる。ありゃ、もう午すぎ。ずいぶんぼけーっとしたがまあいいさ。偶然号にまたがる。今度はフェリー乗り場清掃員となっているかあちゃんがガハハと笑い、見送ってくれる(どうでも良いけど、オロロン鳥もたまには洗ってやれよな、かあちゃん)。そして、鳥どもの群れをちらと見て「しっかりせいチビ」と一瞥し、国道に戻り北上再開。

 

 結局、いつかオロロン鳥を見るという機会は、再び、いつかの領域に去っていった。まあ、そのうちと思うが、こういう何の根拠もない期待は楽観仮説と言って、人生を過ごすのに実に必要な資質なのだ。人は何となく、特に若ければ若いほど、自分はずーっと生きていると思うし、何となく将来はバラ色になるものだと思うものだ。もちろん、実際はそんな事はま~~~ったく無い。若かろうが、老けていようが、不幸も、幸福も、やってくるものの確率はそんなに変わらない。歳を取れば取るほど嫌な事ばかり多くなるというのは、単に、分別や知恵が増殖して、この楽観仮説を保てなくなるのが大きい。

(そうすると、知恵と幸せは、そんなに相性の良いものではないのかな~~)などとくだらねぇ事を考えながら海辺を走る。走っている海辺にぽつらぽつらとカモメ。相変わらず、不景気な顔つきで佇んでいる。よく見るとあのキチャないチビも混じっている。さっきのに比べ、もう少し小さいかな。

 

“うん?またカモメと一緒にいるぞ、一体なんだあの鳥”

すると突然、その小ちゃいのが、ぬぬぬ、と大きいカモメの胸元に入り込んだ。

あれ?

小ちゃいのは口をカモメの口元にすり寄せ、ピゥー、ピゥーと鳴いている。

おや、何かねだってる~? ?

あ、親子だ、あれ。

(後で調べたところ、やはりこの小ちゃくてキチャないのは、カモメのヒナ)

 

ピゥピゥピュウーと鳴いて、母にすり寄るヒナ。でも、何もないのだろう。

母:「知らん」。

目つきの悪さもさりながら、無表情でもカモメに勝てる奴もそういない。

何回もすり寄っても、

母:「知りません、何―もありません」。

ヒナ:ピゥ、ピゥ、ピゥゥー

母:「知りません。うちは浄土真宗なのでサンタさんは来ません」。

ヒナ:ピーゥ、ピーゥ、ピピピ、ぴーぅ

何回も、何回も、何回も- - -

 

そのうち、何ももらえないヒナは波に向かってピーゥー、ピーゥー泣きはじめた。もちろん、波の音にも表情はない、ざざーと響くだけ。そして自転車が遠ざかるにつれヒナの声は少しずつ小さくなり、波の音は少しずつ大きくなり、いつしか周囲は海の音一色となった。

この風景は別に自分の人生とやらに関係ないが、ぼーっとした旅では、何故かこういうものまで心にしまい込むことができる。そして、いつか、しまいこんだ色々な代物を、天気の良い日なんかに虫干しして、施設の隅でふふふと笑っているのが多分、自分の落日の風景である。

ふふふ、いいぞ自転車は。のんびりするぞ、落ち着くぞ。単に居場所がないなんて本当のことを言ってはいけないよ。ほら、ゆっくり走れたし、カモメの親子に会えたし、それに、もうすぐ夕暮れの燈色が金色を少し混ぜながら海に広がるはずだし。

 --独りですすんでいる、それだけのこと--