二度目の目撃談を語る前に、私が籍を置く「未確認生物研究会」について書かせて頂きたく思います。
この研究会は歴史が古く、その活動は既に40年を経過しています。しかし、ツチノコを専門にテーマとして組み入れたのは20年ほど前からで、それまでは「未確認生物」の愛好家が集う情報交換所のような会でした。現在、名誉会長の手嶋蜻蛉の事務所兼自宅である横浜市都筑区池部町に本部を構え、事務一般は都内新宿区百人町にて執り行われております。全国に散らばる会員は約80名で、その多くがツチノコの目撃を経験していますから、当然ツチノコ一辺倒に片寄った会研究となっておりますが、それだけにツチノコの情報は豊富で、5年前に手嶋名誉会長が出版された「ツチノコの正体」と題した著書は、当研究会の実績を物語るに充分、と言って過言ではないでしょう。
因みに「ツチノコ」には幾種類かが存在すると提起したのも当会の名誉会長であり、会員によるマスコミ取材、目撃体験、接近遭遇、捕獲失敗、暗視ビデオの設置、等々、他のアマチュア研究家や同好会の及ばぬところではないでしょうか。また、季刊発行の会報も内容が濃く、評判は上々です。
しかしながら、長年の探索にも関わらず未だに捕獲されないツチノコに対し、無駄に年を経てしまった主要メンバーの誰もが、今や諦めムードに侵食され始めているのも否めない事実であります。
ツチノコを一度でも自分の目で見てしまったら、それこそ白日の元に曝そうと思うのは当然至極です。それなのに捕獲できないもどかしさは、想像以上に大きなストレスを生む結果になるものです。つまり、我々「未確認生物研究会」も疲労困憊の極みに達した状態だということです。それでも意地を張って今後も探索活動に執念を燃やせるか…、現況では「甚だ難しい」と言うしかないでしょう。
…… 序にひとこと ……
最近、ネット上でツチノコの情報を検索していて思うのですが、サイトによってはその棲息範囲が九州から東北の秋田県までと書かれているのを多くみかけます。ところが、沖縄県や青森県、果ては北海道でも目撃例はあるんです。だからツチノコは全国区です。因みに北海道では、昭和27年頃に十勝地方のある寒村でツチノコを叩き殺したという話もあるくらいです。また、伊豆の大島でも目撃されていますし、佐渡島や小豆島からも目撃報告は届いています。ですから太くて短いツチノコは、全国に棲息しているのです。都道府県で目撃例の皆無などという所はありません。
…… 更にひとこと ……
話は変わってツチノコをテーマにした某出版物についてです。で、この本ですが、タイトルには「ツチノコ」と書いてあって、いざ読み進めるといつしか「野槌(ノヅチ)」という活字のオンパレードなんです。やはり少しでも多く本を売るためツチノコの知名度を利用したのだろうと、この点は許せました。ところが、本文中の中ほどに見開き状態で左ページに「ノヅチ」の実物写真、右ページに骨格標本の写真が掲載されているではありませんか! 贋作で無ければセンセーショナルです、とても。
初見だったのでド肝を抜かれましたが、よくよく見ると何かが変なんです。山の神、野の神、萱原の神と崇められている「ノヅチ」が、愛くるしい眼差しで落ち葉の下から顔を出しているから変なんです。得てして神と仰がれる存在なら、もっと威厳に満ちた風貌でしかるべきはず。それなのにヌイグルミにでもしたい可愛いキャラなので笑えちゃいました。しかもです、右ページの骨格写真に至っては「もっと細工を施しなさい」と応援したくなるくらいなんですね。
この本は実際の出来事を綴ったという触れ込みだったので、私は出版元まで行って著者であるKさんの連絡先を教えてくれと頼み込みました。すると担当者氏は、それは著者から伏せてくれと言われているので不可能だとケンもホロロ。食い下がったが、埒があきそうも無いので一旦は帰宅。やや時間を置き、テレビの取材と偽り声色を変えて電話を入れてみた。すると、著者からインタビューや出演は拒否されているのでお断りしますと言う素っ気無い返事が返ってきたのだ。
私は素直に思いました。「この本は捏造によって書かれた本だ」と。それにしてもよく出来た本で、話の構成や時代背景、熟達した文章、それに筆者のKという御仁はツチノコの特徴をかなり把握しているようで感心した。だけど捏造はいけないと思うんですよ。初めからフィクションとして売り出すべき本です。こういう事をするから「ツチノコ」の信憑性が薄らぐんです。反省して下さいKさん!
余談ですが、この本を出版した「H」という出版社は、昨年の春に自己破産して消滅してしまいました。「野槌」の怒りに触れたのだと私は信じてやみません。
ついついウサ晴らししてしまいました。では本題に進みましょう。
…… 二度目の目撃 ……
昭和48年7月中旬…の某日、長野県下高井郡山ノ内町大字夜間瀬に在する「長元荘」で目覚めた私は、極度の興奮を感じつつ身支度を整えると、徒歩で徳竹則重宅へ向った。装備は至って簡単で、ハイカー程度の軽装である。
徳竹氏は紺色の作業着の上下に汚れたゴム長靴を履き、農協のマーク入りの黄色い帽子を被って待っていた。「よし、行こうか」「お願いします」と、まるで師弟のような素っ気無く短い会話を交わすと、徳竹氏は足元のビニール袋を拾い上げ、スタコラ歩き出した。このビニール袋は分厚い肥料用のもので、よく見ると袋の上部には紐が付いており、中にプラスチック製のパイプが入っている。袋から20cmほど突出したこのパイブが空気取り入れ口で、蛇やツチノコを捕獲したらパイプごと口を縛れば簡易な生簀になるという訳である。透明なので中の様子も良くわかり非常に便利だと思った私は、後年、ツチノコ探索の際はこれと同じ物を持ち歩いたものだ。
徳竹氏は小柄なくせに歩度が速く、並んで歩くには厄介だった。目的地は木島平の萱原だと言う。歩いて3時間の道程だと聞かされ、思わず軽装備で来た事を反省すると同時に水や食糧が気になった。困惑した私の顔色を見て「山に入れば水は幾らでも飲めるさ」と、さり気なく言った徳竹氏は、ポケットから煎餅を取り出し私に寄越した。これだけ有れば何とかなるかな、という分量であった。
私はボーイスカウトでサバイバルは嫌と言うほど経験していたので、「たかがツチノコ探し」と高をくくっていたのだ。まさか片道3時間、しかも登坂である。汗をかきかき杣道を登ったのだが、道の両脇は熊笹に覆われ、鬱蒼と繁茂した樹木によって陽は遮られている。言うなれば、昼なお暗き、という形容がピッタリの山道だった。その中を歩度も緩めずスタコラ歩く訳だからたまったのではない。30分もしないうちに脱水して喉が渇いてきた。ふと足元を見ると、杣道を横断するように小さな流れがあった。綺麗な水である。私は屈み込むと、その水を両手ですくって嫌というほど飲んだ。いまだ嘗て生水に当った経験は無い。だから気にせずぐいぐい飲めたのだ。
更に30分ほど歩くと登坂が緩やかになり、道幅も広がっていた。それまで徳竹氏の後方を歩いていたが、ここからは並んで歩くことができた。徳竹氏と並行して歩き始めた直後、私の足にとんでもない物が付着した。それは、鼻水、いや鼻汁だった。蓄膿症を患っているのか、徳竹氏はしょっちゅう手鼻をかんでいるのだ。その噴出物が私の足を直撃したという寸法だ。本人は気づいたが平気な顔をしている。だから私も平静を装ってみたものの、暫くは手鼻を警戒しながら歩く羽目になった。
「あと1時間で着くよ」と言われた頃、道の右側に鉄搭が見えだした。スキー場のリフトである。かなりの標高であることから推して、上級者専用のリフトであろう。そんな事を考えていると、生理現象が襲ってきた。水を飲み過ぎたために大量の尿が生産されたらしい。私は徳竹氏に断り、杣道からリフト側のヤブ陰に移動した。失礼の無いよう少しでも徳竹氏から距離を離そうと、リフトの鉄塔を覆っている萱原を目指したのだ。その時だ、右手の萱の繁みから1.5メートル程の高さに跳び上がり、放物線を描いて左方向へ飛んで行く小動物がいた。瞬間、全神経をそのものに集中すると、牛乳瓶よりやや長めのネズミに似た生き物だと分かった。しかし、手も足も見当たらない。彼我の距離は凡そ3メートルと至近であった。
ザザッという着地音を立て、そのモノは萱の根本の草むらで動く気配が無い。私は「今のは何だろう?」と、単純に考え込んだ。手も足も無く、ネズミに似て細い尻尾のある生き物、しかも萱原である。もしかしたらツチノコではないか、そう考えつくまでに十秒はかかったと思う。既に小便が満タンだということも忘れていた。「徳竹さ~ん! 出ました!」「じゃ早く行こう」と、完全に勘違いした言葉が返ってきた。次に私は「ツチノコがいたんです!」と叫んだ。今度は敏感に反応した徳竹氏は、呆然と立ち尽くす私の背後に忍び寄ってきた。「何処だ?」と鋭い目で私を睨む徳竹氏。「そこの萱の根元です」と、興奮して答える私。
暫く着地現場を睨んでいた徳竹氏が、足下に落ちていた枯れ枝を拾って萱の根本に投げつけた。だが、辺りは静寂だった。「もう逃げたな」、そう呟いた徳竹氏は踵を返すではないか。慌てて追いすがった私は、なぜ探さないのか、そう憤りをぶちまけた。すると「萱の中では無理だ」という経験者らしい落ち着いた声音が返ってきた。言われてみればそのとおりである。何十人もが包囲するなら兎も角も、たった二人で萱原に分け入ったところで成果は期待できないであろう。ヘビ獲りのプロが言うのだからと、私は自分に言い聞かせつつも、後ろ髪を引かれる思いでその場を立去らざるを得なかった。
その日、目的地では何の成果も無く、帰りは別ルートを通ったため目撃現場の萱原は通らず終いであった。しかし、帰り道でクマに遭遇したのは鮮烈な印象として焼きついたし、2メートル近い青大将を一瞬で捕獲する徳竹氏の裏技を見れた事は、せめてもの慰めになったのではないだろうか。
私はその頃(S48年当時)、リコー・オートハーフという小型カメラを持ち歩いていた。それによって徳竹氏や山ノ内町の自然などをかなり撮ったのだが、何処でどうなったのか、今では1枚も残っていないのだ。
ツチノコを語る上で重要人物である徳竹則重氏のスナップを、なぜに完全保管しておかなかったかと憂いてしまう今日この頃である。それと同様に、ツチノコに関する当時の新聞記事の切り抜きも散逸してしまったのだ。管理が悪いといえばそれまでだが、多数あった新聞の切り抜きは概ね日付を覚えているので、近々、然るべき所からコピーしてこようと思っている。
……… 死闘、4メートル超の青大将 ………
徳竹氏から聞き込んだ大蛇捕獲の話はその手の経験談としては逸品である。何故に逸品かと言うと、これも殺して食べたからで、しかも「落ち」まであるからだ。
昭和四十五年の話だったと思う。本人も記憶は曖昧なため正確な日時は不明である。
近くの村落に養鶏場があって、しばしばニワトリが消えるという事件が起きた。そこで不審に思った養鶏場のオーナーが見張っていると、犯人は大蛇だと突き止める。しかし怖くて手が出せない。そこで蛇獲りの名人で名高い徳竹氏に依頼が舞い込んだ。
現場に赴いた徳竹氏は、草を押し倒した大蛇の這い跡を追った。村の若い衆が三人ほど徳竹氏に従っていた。相手は大蛇であるから通常の蛇獲り用の刺又(先端が二股に分かれた蛇獲り用具)では通用しない。万が一の時は、腰に下げた鉈だけが頼りである。
草を掻き分け、藪を潜りぬけ、跡を追うこと二十分ほどでそいつと鉢合わせになった。優に4メートルを超えた青大将の大蛇がコウモリ傘を開いたほどの大きさでトグロを巻いていたのである。その大蛇は飲み込んだニワトリがまだ消化しきれていないのか、胴の一部が大きく膨らんでいる。目測で5メートル近い体長だと判断した徳竹氏は、脇で震え上がっている若者たちに指示した。「生け捕りだ。俺が大蛇に飛び乗って首を押えたら皆も飛びかかれ!」と。若者たちは身震いしながら肯いた。
頃合を見計らった徳竹氏は、無言で走って行き大蛇のトグロに飛び乗り、素早く大蛇の首を両手で締め上げた。すると驚いた大蛇は、物凄い力で鎌首を持ち上げるではないか。瞬間、小柄な徳竹氏は大蛇の首にぶら下がるような状態で両足が宙に浮いてしまったという。これでは巻かれてしまうと思った徳竹氏は、「早く飛び掛れ!」と若者たちに大声を張り上げた。ところが、先ほどまで居たはずの場所に若者がいなくなっているではないか。恐れをなした彼等は、遠くの方から傍観していたのだ。
やがて徳竹氏の身体は半分ほど巻かれてしまったそうだ。命あっての物ダネである。生け捕りを断念した徳竹氏は左手だけで大蛇の首を締め、右手で腰に下げた鉈を抜き放ったという。そして掴んでいる大蛇の首を目掛けて鉈を振り下ろしたのだ。数回それを繰り返すと流石の大蛇も両断され、辺りに鮮血を撒き散らしながらのた打ち回ったそうである。この時になって傍観していた若者達が戻って来たというが、頼りにならない助っ人である。
その後、斬殺された大蛇は村人によってヘビ鍋にされて食されたそうだ。しかし、この鍋を頬張ったほぼ全員が、その数時間後に食中りになりなり嘔吐や腹痛で苦しんだという。だが徳竹氏は例外で、普段から食べなれている蛇の肉であるから食中りの兆候は何も出なかったということだ。
この大蛇はぶつ切りにして鍋に入れたため、皮も骨も残らなかったというが、せめて頭骨の部分でも記念に残しておけば、それこそ日本の青大将最長公認記録が作れたはずである。因みに大蛇の体長は巻尺などを使っての実測ではなく、1メートルの物差しのようなもので計ったため正確さは薄いが、誰がどう見ても二間半(4.5m)はあったそうである。
……… 巨大マムシ ………
徳竹氏の自宅そばに小さな清流がある。その源は近くの山であるが、ある時、食膳にイワナでもと思い立った徳竹氏は、この清流を遡上したそうだ。初めは川幅1.5mほどであるが、2㎞も遡ると、50cmにも満たない幅になるという。その日は急に雨雲が満ちてきたため、イワナを諦めて引き返そうとしたそうだ。戻る道々、愛用の魚篭を忘れた事に気づいた徳竹氏は、心当たりの場所に急いで戻ってみた。すると、魚篭は置き忘れたままになっていたが、その傍に太いロープが落ちている。さっきは無かったはずなのに変だと思いながらよく見ると、太い胴体にかすれた銭型紋がある。まさかマムシではあるまい、何という蛇だろうと見ていると、繁みに頭を突っ込んでいたそれが急にUターンするように頭を見せたのである。
大蛇やツチノコにも動じない徳竹氏だが、この時ばかりは腰が抜けそうになったそうだ。何故なら、頭を見せたそいつは推定でも体長は六尺、太さはビール瓶ほどの大きなマムシだったからだ。
普通に見かけるマムシの体長はせいぜい60cmほどだが、寸胴気味のマムシをツチノコのように太くて短いと表現する人が多い。徳竹氏は推定で6尺の体長と言っておられたが、6尺といえば1.8mである。言うなれば、通常のマムシの3倍の長さであり、太さとなる訳だ。しかも有毒であるから、咬まれれば絶命間違い無し、といったところだ。こんな化け物を見たら誰でも腰を抜かすだろう。
流石の徳竹氏も巨大マムシには手が出ず、魚篭を拾い上げると一目散に逃げ帰ったそうである。この体験談の締め括りに徳竹氏は真顔で言った。「あれは山の神だ。そう思ったから手を出さなかった」と。
実は、巨大マムシの話は昭和50年頃、新潟の小千谷方面に渓流釣りへ行った時、釣り人から聞かされたことがる。その釣り師が目撃したのは1.5mはあったという。他にも、私の卒業した小学校の田口先生が若い時分に1.5mのマムシを捕らえたことがあると豪語しておられたし、新潟県の八日市場の某氏に至っては特大マムシの皮を保存しておられるのだ。この皮は私も現地へ行って見せて頂いたが、作り物などではなく生皮を乾燥させたものに間違いないと断言できるものだった。
このように、既知の個体が巨大化する事は多々あるのだと思う。先述した青大将の大蛇にしても、蛇獲りのプロが青大将だと言うのだから正真の青大将なのである。この大蛇が4.5mとするなら、我々が普段見かける1.5m程度の青大将の3倍ということになる。当然、ツチノコも蛇属であるならこの3倍が通用するはずで、ちゃんと巨大ツチノコの目撃もあるんです。いずれにせよ、そんな大物と山の中で出遭ったら一巻の終りです。出遭わない事を祈りましょう。
ということで、次回は「東京のツチノコ」を論じてみます。
※御意見・御感想・目撃情報等は zero1995zero@ybb.ne.jp へお願い致します。
この研究会は歴史が古く、その活動は既に40年を経過しています。しかし、ツチノコを専門にテーマとして組み入れたのは20年ほど前からで、それまでは「未確認生物」の愛好家が集う情報交換所のような会でした。現在、名誉会長の手嶋蜻蛉の事務所兼自宅である横浜市都筑区池部町に本部を構え、事務一般は都内新宿区百人町にて執り行われております。全国に散らばる会員は約80名で、その多くがツチノコの目撃を経験していますから、当然ツチノコ一辺倒に片寄った会研究となっておりますが、それだけにツチノコの情報は豊富で、5年前に手嶋名誉会長が出版された「ツチノコの正体」と題した著書は、当研究会の実績を物語るに充分、と言って過言ではないでしょう。
因みに「ツチノコ」には幾種類かが存在すると提起したのも当会の名誉会長であり、会員によるマスコミ取材、目撃体験、接近遭遇、捕獲失敗、暗視ビデオの設置、等々、他のアマチュア研究家や同好会の及ばぬところではないでしょうか。また、季刊発行の会報も内容が濃く、評判は上々です。
しかしながら、長年の探索にも関わらず未だに捕獲されないツチノコに対し、無駄に年を経てしまった主要メンバーの誰もが、今や諦めムードに侵食され始めているのも否めない事実であります。
ツチノコを一度でも自分の目で見てしまったら、それこそ白日の元に曝そうと思うのは当然至極です。それなのに捕獲できないもどかしさは、想像以上に大きなストレスを生む結果になるものです。つまり、我々「未確認生物研究会」も疲労困憊の極みに達した状態だということです。それでも意地を張って今後も探索活動に執念を燃やせるか…、現況では「甚だ難しい」と言うしかないでしょう。
…… 序にひとこと ……
最近、ネット上でツチノコの情報を検索していて思うのですが、サイトによってはその棲息範囲が九州から東北の秋田県までと書かれているのを多くみかけます。ところが、沖縄県や青森県、果ては北海道でも目撃例はあるんです。だからツチノコは全国区です。因みに北海道では、昭和27年頃に十勝地方のある寒村でツチノコを叩き殺したという話もあるくらいです。また、伊豆の大島でも目撃されていますし、佐渡島や小豆島からも目撃報告は届いています。ですから太くて短いツチノコは、全国に棲息しているのです。都道府県で目撃例の皆無などという所はありません。
…… 更にひとこと ……
話は変わってツチノコをテーマにした某出版物についてです。で、この本ですが、タイトルには「ツチノコ」と書いてあって、いざ読み進めるといつしか「野槌(ノヅチ)」という活字のオンパレードなんです。やはり少しでも多く本を売るためツチノコの知名度を利用したのだろうと、この点は許せました。ところが、本文中の中ほどに見開き状態で左ページに「ノヅチ」の実物写真、右ページに骨格標本の写真が掲載されているではありませんか! 贋作で無ければセンセーショナルです、とても。
初見だったのでド肝を抜かれましたが、よくよく見ると何かが変なんです。山の神、野の神、萱原の神と崇められている「ノヅチ」が、愛くるしい眼差しで落ち葉の下から顔を出しているから変なんです。得てして神と仰がれる存在なら、もっと威厳に満ちた風貌でしかるべきはず。それなのにヌイグルミにでもしたい可愛いキャラなので笑えちゃいました。しかもです、右ページの骨格写真に至っては「もっと細工を施しなさい」と応援したくなるくらいなんですね。
この本は実際の出来事を綴ったという触れ込みだったので、私は出版元まで行って著者であるKさんの連絡先を教えてくれと頼み込みました。すると担当者氏は、それは著者から伏せてくれと言われているので不可能だとケンもホロロ。食い下がったが、埒があきそうも無いので一旦は帰宅。やや時間を置き、テレビの取材と偽り声色を変えて電話を入れてみた。すると、著者からインタビューや出演は拒否されているのでお断りしますと言う素っ気無い返事が返ってきたのだ。
私は素直に思いました。「この本は捏造によって書かれた本だ」と。それにしてもよく出来た本で、話の構成や時代背景、熟達した文章、それに筆者のKという御仁はツチノコの特徴をかなり把握しているようで感心した。だけど捏造はいけないと思うんですよ。初めからフィクションとして売り出すべき本です。こういう事をするから「ツチノコ」の信憑性が薄らぐんです。反省して下さいKさん!
余談ですが、この本を出版した「H」という出版社は、昨年の春に自己破産して消滅してしまいました。「野槌」の怒りに触れたのだと私は信じてやみません。
ついついウサ晴らししてしまいました。では本題に進みましょう。
…… 二度目の目撃 ……
昭和48年7月中旬…の某日、長野県下高井郡山ノ内町大字夜間瀬に在する「長元荘」で目覚めた私は、極度の興奮を感じつつ身支度を整えると、徒歩で徳竹則重宅へ向った。装備は至って簡単で、ハイカー程度の軽装である。
徳竹氏は紺色の作業着の上下に汚れたゴム長靴を履き、農協のマーク入りの黄色い帽子を被って待っていた。「よし、行こうか」「お願いします」と、まるで師弟のような素っ気無く短い会話を交わすと、徳竹氏は足元のビニール袋を拾い上げ、スタコラ歩き出した。このビニール袋は分厚い肥料用のもので、よく見ると袋の上部には紐が付いており、中にプラスチック製のパイプが入っている。袋から20cmほど突出したこのパイブが空気取り入れ口で、蛇やツチノコを捕獲したらパイプごと口を縛れば簡易な生簀になるという訳である。透明なので中の様子も良くわかり非常に便利だと思った私は、後年、ツチノコ探索の際はこれと同じ物を持ち歩いたものだ。
徳竹氏は小柄なくせに歩度が速く、並んで歩くには厄介だった。目的地は木島平の萱原だと言う。歩いて3時間の道程だと聞かされ、思わず軽装備で来た事を反省すると同時に水や食糧が気になった。困惑した私の顔色を見て「山に入れば水は幾らでも飲めるさ」と、さり気なく言った徳竹氏は、ポケットから煎餅を取り出し私に寄越した。これだけ有れば何とかなるかな、という分量であった。
私はボーイスカウトでサバイバルは嫌と言うほど経験していたので、「たかがツチノコ探し」と高をくくっていたのだ。まさか片道3時間、しかも登坂である。汗をかきかき杣道を登ったのだが、道の両脇は熊笹に覆われ、鬱蒼と繁茂した樹木によって陽は遮られている。言うなれば、昼なお暗き、という形容がピッタリの山道だった。その中を歩度も緩めずスタコラ歩く訳だからたまったのではない。30分もしないうちに脱水して喉が渇いてきた。ふと足元を見ると、杣道を横断するように小さな流れがあった。綺麗な水である。私は屈み込むと、その水を両手ですくって嫌というほど飲んだ。いまだ嘗て生水に当った経験は無い。だから気にせずぐいぐい飲めたのだ。
更に30分ほど歩くと登坂が緩やかになり、道幅も広がっていた。それまで徳竹氏の後方を歩いていたが、ここからは並んで歩くことができた。徳竹氏と並行して歩き始めた直後、私の足にとんでもない物が付着した。それは、鼻水、いや鼻汁だった。蓄膿症を患っているのか、徳竹氏はしょっちゅう手鼻をかんでいるのだ。その噴出物が私の足を直撃したという寸法だ。本人は気づいたが平気な顔をしている。だから私も平静を装ってみたものの、暫くは手鼻を警戒しながら歩く羽目になった。
「あと1時間で着くよ」と言われた頃、道の右側に鉄搭が見えだした。スキー場のリフトである。かなりの標高であることから推して、上級者専用のリフトであろう。そんな事を考えていると、生理現象が襲ってきた。水を飲み過ぎたために大量の尿が生産されたらしい。私は徳竹氏に断り、杣道からリフト側のヤブ陰に移動した。失礼の無いよう少しでも徳竹氏から距離を離そうと、リフトの鉄塔を覆っている萱原を目指したのだ。その時だ、右手の萱の繁みから1.5メートル程の高さに跳び上がり、放物線を描いて左方向へ飛んで行く小動物がいた。瞬間、全神経をそのものに集中すると、牛乳瓶よりやや長めのネズミに似た生き物だと分かった。しかし、手も足も見当たらない。彼我の距離は凡そ3メートルと至近であった。
ザザッという着地音を立て、そのモノは萱の根本の草むらで動く気配が無い。私は「今のは何だろう?」と、単純に考え込んだ。手も足も無く、ネズミに似て細い尻尾のある生き物、しかも萱原である。もしかしたらツチノコではないか、そう考えつくまでに十秒はかかったと思う。既に小便が満タンだということも忘れていた。「徳竹さ~ん! 出ました!」「じゃ早く行こう」と、完全に勘違いした言葉が返ってきた。次に私は「ツチノコがいたんです!」と叫んだ。今度は敏感に反応した徳竹氏は、呆然と立ち尽くす私の背後に忍び寄ってきた。「何処だ?」と鋭い目で私を睨む徳竹氏。「そこの萱の根元です」と、興奮して答える私。
暫く着地現場を睨んでいた徳竹氏が、足下に落ちていた枯れ枝を拾って萱の根本に投げつけた。だが、辺りは静寂だった。「もう逃げたな」、そう呟いた徳竹氏は踵を返すではないか。慌てて追いすがった私は、なぜ探さないのか、そう憤りをぶちまけた。すると「萱の中では無理だ」という経験者らしい落ち着いた声音が返ってきた。言われてみればそのとおりである。何十人もが包囲するなら兎も角も、たった二人で萱原に分け入ったところで成果は期待できないであろう。ヘビ獲りのプロが言うのだからと、私は自分に言い聞かせつつも、後ろ髪を引かれる思いでその場を立去らざるを得なかった。
その日、目的地では何の成果も無く、帰りは別ルートを通ったため目撃現場の萱原は通らず終いであった。しかし、帰り道でクマに遭遇したのは鮮烈な印象として焼きついたし、2メートル近い青大将を一瞬で捕獲する徳竹氏の裏技を見れた事は、せめてもの慰めになったのではないだろうか。
私はその頃(S48年当時)、リコー・オートハーフという小型カメラを持ち歩いていた。それによって徳竹氏や山ノ内町の自然などをかなり撮ったのだが、何処でどうなったのか、今では1枚も残っていないのだ。
ツチノコを語る上で重要人物である徳竹則重氏のスナップを、なぜに完全保管しておかなかったかと憂いてしまう今日この頃である。それと同様に、ツチノコに関する当時の新聞記事の切り抜きも散逸してしまったのだ。管理が悪いといえばそれまでだが、多数あった新聞の切り抜きは概ね日付を覚えているので、近々、然るべき所からコピーしてこようと思っている。
……… 死闘、4メートル超の青大将 ………
徳竹氏から聞き込んだ大蛇捕獲の話はその手の経験談としては逸品である。何故に逸品かと言うと、これも殺して食べたからで、しかも「落ち」まであるからだ。
昭和四十五年の話だったと思う。本人も記憶は曖昧なため正確な日時は不明である。
近くの村落に養鶏場があって、しばしばニワトリが消えるという事件が起きた。そこで不審に思った養鶏場のオーナーが見張っていると、犯人は大蛇だと突き止める。しかし怖くて手が出せない。そこで蛇獲りの名人で名高い徳竹氏に依頼が舞い込んだ。
現場に赴いた徳竹氏は、草を押し倒した大蛇の這い跡を追った。村の若い衆が三人ほど徳竹氏に従っていた。相手は大蛇であるから通常の蛇獲り用の刺又(先端が二股に分かれた蛇獲り用具)では通用しない。万が一の時は、腰に下げた鉈だけが頼りである。
草を掻き分け、藪を潜りぬけ、跡を追うこと二十分ほどでそいつと鉢合わせになった。優に4メートルを超えた青大将の大蛇がコウモリ傘を開いたほどの大きさでトグロを巻いていたのである。その大蛇は飲み込んだニワトリがまだ消化しきれていないのか、胴の一部が大きく膨らんでいる。目測で5メートル近い体長だと判断した徳竹氏は、脇で震え上がっている若者たちに指示した。「生け捕りだ。俺が大蛇に飛び乗って首を押えたら皆も飛びかかれ!」と。若者たちは身震いしながら肯いた。
頃合を見計らった徳竹氏は、無言で走って行き大蛇のトグロに飛び乗り、素早く大蛇の首を両手で締め上げた。すると驚いた大蛇は、物凄い力で鎌首を持ち上げるではないか。瞬間、小柄な徳竹氏は大蛇の首にぶら下がるような状態で両足が宙に浮いてしまったという。これでは巻かれてしまうと思った徳竹氏は、「早く飛び掛れ!」と若者たちに大声を張り上げた。ところが、先ほどまで居たはずの場所に若者がいなくなっているではないか。恐れをなした彼等は、遠くの方から傍観していたのだ。
やがて徳竹氏の身体は半分ほど巻かれてしまったそうだ。命あっての物ダネである。生け捕りを断念した徳竹氏は左手だけで大蛇の首を締め、右手で腰に下げた鉈を抜き放ったという。そして掴んでいる大蛇の首を目掛けて鉈を振り下ろしたのだ。数回それを繰り返すと流石の大蛇も両断され、辺りに鮮血を撒き散らしながらのた打ち回ったそうである。この時になって傍観していた若者達が戻って来たというが、頼りにならない助っ人である。
その後、斬殺された大蛇は村人によってヘビ鍋にされて食されたそうだ。しかし、この鍋を頬張ったほぼ全員が、その数時間後に食中りになりなり嘔吐や腹痛で苦しんだという。だが徳竹氏は例外で、普段から食べなれている蛇の肉であるから食中りの兆候は何も出なかったということだ。
この大蛇はぶつ切りにして鍋に入れたため、皮も骨も残らなかったというが、せめて頭骨の部分でも記念に残しておけば、それこそ日本の青大将最長公認記録が作れたはずである。因みに大蛇の体長は巻尺などを使っての実測ではなく、1メートルの物差しのようなもので計ったため正確さは薄いが、誰がどう見ても二間半(4.5m)はあったそうである。
……… 巨大マムシ ………
徳竹氏の自宅そばに小さな清流がある。その源は近くの山であるが、ある時、食膳にイワナでもと思い立った徳竹氏は、この清流を遡上したそうだ。初めは川幅1.5mほどであるが、2㎞も遡ると、50cmにも満たない幅になるという。その日は急に雨雲が満ちてきたため、イワナを諦めて引き返そうとしたそうだ。戻る道々、愛用の魚篭を忘れた事に気づいた徳竹氏は、心当たりの場所に急いで戻ってみた。すると、魚篭は置き忘れたままになっていたが、その傍に太いロープが落ちている。さっきは無かったはずなのに変だと思いながらよく見ると、太い胴体にかすれた銭型紋がある。まさかマムシではあるまい、何という蛇だろうと見ていると、繁みに頭を突っ込んでいたそれが急にUターンするように頭を見せたのである。
大蛇やツチノコにも動じない徳竹氏だが、この時ばかりは腰が抜けそうになったそうだ。何故なら、頭を見せたそいつは推定でも体長は六尺、太さはビール瓶ほどの大きなマムシだったからだ。
普通に見かけるマムシの体長はせいぜい60cmほどだが、寸胴気味のマムシをツチノコのように太くて短いと表現する人が多い。徳竹氏は推定で6尺の体長と言っておられたが、6尺といえば1.8mである。言うなれば、通常のマムシの3倍の長さであり、太さとなる訳だ。しかも有毒であるから、咬まれれば絶命間違い無し、といったところだ。こんな化け物を見たら誰でも腰を抜かすだろう。
流石の徳竹氏も巨大マムシには手が出ず、魚篭を拾い上げると一目散に逃げ帰ったそうである。この体験談の締め括りに徳竹氏は真顔で言った。「あれは山の神だ。そう思ったから手を出さなかった」と。
実は、巨大マムシの話は昭和50年頃、新潟の小千谷方面に渓流釣りへ行った時、釣り人から聞かされたことがる。その釣り師が目撃したのは1.5mはあったという。他にも、私の卒業した小学校の田口先生が若い時分に1.5mのマムシを捕らえたことがあると豪語しておられたし、新潟県の八日市場の某氏に至っては特大マムシの皮を保存しておられるのだ。この皮は私も現地へ行って見せて頂いたが、作り物などではなく生皮を乾燥させたものに間違いないと断言できるものだった。
このように、既知の個体が巨大化する事は多々あるのだと思う。先述した青大将の大蛇にしても、蛇獲りのプロが青大将だと言うのだから正真の青大将なのである。この大蛇が4.5mとするなら、我々が普段見かける1.5m程度の青大将の3倍ということになる。当然、ツチノコも蛇属であるならこの3倍が通用するはずで、ちゃんと巨大ツチノコの目撃もあるんです。いずれにせよ、そんな大物と山の中で出遭ったら一巻の終りです。出遭わない事を祈りましょう。
ということで、次回は「東京のツチノコ」を論じてみます。
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