ツチノコで頭がいっぱい

幼児期に目撃したツチノコにより、その存在を確信。35年間ツチノコ捕獲に情熱を注ぎ、今までに4度の目撃体験あり!。

昭和48年/ツチノコを食べた男!

2007-09-28 02:20:47 | Weblog
昭和48年にツチノコがマスコミを賑わし、一躍有名人?の仲間入りした事は周知の出来事だが、この年はパチンコ台が電動化されたり、競馬ではあのハイセイコーとタケホープが競い合う等、博打的要素を多分に含んだ年だった。  
 この昭和48年に、ツチノコがセンセーショナルにデビューした要因は、幾つかの出版物の賜物であろう。それは「すべってころんで/田辺聖子著」「逃げろツチノコ/山本素石著」「幻のバチヘビ/矢口高雄著」等の書籍や漫画本が次々に刊行されたからである。当然、書籍にはイラストが載るため、それまで幻とされていたツチノコが、陽の目を見るに至ったという当然の経緯である。初めは関西が発火点になっていたが、関東にも飛び火して東京都町田市、埼玉県飯能市、茨城県土浦市などでも目撃者が名乗り出て、この年の夏場はツチノコフィーバーで明け暮れたのだった。  
 ツチノコは漢字で書けば「槌の子」であり、古くは「古事記」「沙石集」「和漢三才図絵」等々の書物にも「野槌」という名称で登場している。つまり、ツチノコは正式に言えば「野槌(ノヅチ)」であり、野山に転がっている「槌」と解釈すべきで、「ツチノコ」というのは関西方面の俗称であって全国的なものではないのである。しかし、今ではそんな事はお構い無しでツチノコで通ってしまっている。ツチノコと言うと可愛らしいが、ノヅチと言うと厳しい、と言った理由なのだろうか?  
 実は、昭和48年のツチノコブームには陰の功労者がいたのだ。その方は、斐太猪之介さんと言って、当時は大手新聞社の嘱託をされていたのだが、野生動物の観察が趣味で日本中の野山を歩き回っているうちに、いつしか「日本オオカミ」の大家になられた人物だ。この斐太先生が三部作で「山がたり」という本を出版されていて、その中に「野槌」という名称でツチノコの目撃談を載せていたのだ。しかも出版は昭和42年から47年にかけてである。ブームの先駆者と言っても過言では無い存在なのだ。当時、斐太先生は兵庫県芦屋市に住まわれていて、もう一人の立役者である山本素石氏は京都府に居住されていた。言うなれば、ツチノコは関西人によって知名度を上げたことになる。  
 当時、新宿の紀伊国屋書店で「山がたり」三部作をいち早く購入した私は、この本でノヅチを食べた人物がいることを知った。これは私にとって、かなり衝撃的な内容だった。しかも三度もノヅチを目撃し、二度も捕獲に成功しており、おまけに殺して食べたというのだから、私のみならず衝撃であって当たり前なのである。  

 このノヅチを食べてしまった方は「徳竹則重」さんと言って、長野県下高井郡山ノ内町乗廻村に住んでおられると知り、私は是が非でもお会いして事の顛末を聞いてみたい欲望に駆られてしまった。そう思うと矢も楯も堪らなくなり、前年に購入したホンダのシビックに乗って、地図も持たずに家を出たのだった。所持金は親から借りた2万円で、宿泊は車中と決め込んだ。  
 
 その頃の私は日大芸術学部二年生で八王子市に住んでいた。だから甲州街道に近い。取敢えず甲州街道を甲府方面にひた走り、笹子トンネルを過ぎた辺りで右折して闇雲に車を走らせた。だが、悪運尽きて遂に道に迷ってしまい、初めて車外に出て近くのバス停の停留所名を読むと、な、な、な、な、なんと「乗廻」と書いてあるではないか。キツネに化かされたような不思議な気分で周囲を見回すと、バス停の左後方に数十件の民家が見えた。多分、あの集落が乗廻という村だろうと 見当をつけ、足を踏み入れてみて驚いた。どの家の表札も「徳竹」なのだ。仕方なく大きな構えの家の玄関をノックすると、田舎には稀な洒落た格好のオジサンが現われた。そこで「徳竹さんを探してる」と言う主旨を告げると、「ここらは殆ど徳竹姓 だ。で、下の名は?」と問い返された。迂闊にも私は苗字の「徳竹」しか記憶しておらず、咄嗟に「ヘビを獲っている徳竹さんですが」と答えた。するとそのオジサンは合点して一件の家を指差したのである。反射的にその方向を見詰めた私は唖然とした。トタンで囲まれた塀の至る所に細長い紐のような物がかけてあり、それが日干の蛇だと気づいたからだ。
 
 目指す「徳竹則重」さん宅は母屋の壁にも蛇が干してあり、まるで蛇御殿という有様だった。しかも、庭先に置かれた縁台の上には、大小様々な瓶が置かれ、中にはマムシをはじめ数種の蛇が飼われているではないか。他人の庭先に勝手に入り込んでいた私に、痩せて小柄な男性が声をかけてきた。「東京から来たのか?」「そうです」、これが徳竹氏との最初の会話だった。徳竹さんの事を知ったツチノコ愛好家が、既に何人も訪れていると言う。自分も物好きの一人だと照れながら話を進めていくうちに、本人の口からツチノコ撲殺後に味見したという、核心部分に及んだのである。
 撲殺したツチノコは体長30cm程で、頭は三角形で体色は黒地に銭型紋が入っていたと言う。太さは牛乳瓶よりやや太目、敏捷で獰猛だったそうだ。因みにその味だが、脂がのっていて美味だが、ヒキガエルほど美味くないと、事も無げに言い放つではないか。私は「食べた後の骨や皮はどうしましたか?」と、興味津々で伺ったところ、「猫にくれてやった」と無表情で答えた徳竹氏は、近くでまどろんでいる頭の異様に大きな猫を顎でしゃくったのだ。どうやらその猫はツチノコの残骸をオモチャにして遊んだのであろう。その後、何処を探しても骨も皮も出てこなかったそうだ。この猫だが、異様に頭が大きいのは、徳竹さんが捕獲したマムシに跳びかかった際、その毒牙にやられたということだ。私はこの話を聞き、マムシの毒性は案外低いものだと初めて知った。
 
 この日、徳竹さんから夕飯に招かれた。更には低料金で宿泊できる旅館まで紹介していただいた。旅館の名は「長元荘」と言い、徳竹宅から車で10分もかからないと言う。思案したが、車中で寝るより旅館を選ぶ事にした。夕飯まで数時間ある。一先ず徳竹宅を辞し、旅館へ向った。その道々、虹鱒の養魚場が目に付いたので、取り分け大きなものを2匹、選別しておいてくれるよう係りの人に頼んだ。夕飯に招かれて手ぶらでは失礼と思ったからだ。
 長元荘はスキー客を見込んだ旅館で、冬場は近くの竜王スキー場へ訪れる客で満杯になるらしい。だが、夏場は学生の合宿程度で閑散としていた。旅館の主は誰でも好感を抱くであろう人柄で、その奥さんも優しく面倒見の良い方であった。長元荘は山の中腹に位置していたから眺望が抜群だった。
 
 その夜、徳竹宅の夕飯は、私が手土産に持参した虹鱒がメインデッシュとなった。徳竹氏は私に食べるように勧めるが、その時の私は食事など手につかないほどの緊張に包まれていたのだ。と言うのも、徳竹宅は四人家族で奥さん、娘さん、息子さんという構成なのだが、この娘さんたるや鄙には稀な美形だったからだ。年齢は二十くらい、スタイルが良くて日本人離れした顔立ちなのだ。東京でもお目にかかれない美女である。モデルにしたらさぞや売れっ子になるだろうと思ったほどだ。
 こんな美女を前にしたら、徳竹氏の語る「ツチノコ談議」も上の空である。だからと言って、相槌を打たないわけにもいかず、やるせない時間だった事を強く記憶している。三十数年を経た今でも、その娘さんが夢に現われる事がある。せめて名前だけでも聞いておけばよかったと、自分の不甲斐なさを呪うこと幾度ぞである。ただ不思議なのは、徳竹氏と奥さんが共にスラブ系のような顔立ちであったことだ。だから娘さんは日本人離れしていたのだろうが、中学生だった息子さんは平凡な顔立ちだった。今さら、徳竹家の詮索をしても始まらないが、いろいろ複雑な事情があったのだろう。
 晩餐も終りに近づいた頃、徳竹氏が「明日、ツチノコのいる場所に案内する」と言い出した。「お願いします!」と即答した私は、この時点で二度目のツチノコの目撃を体験するとは夢にも思っていなかった。
 
■次回は、二度目の目撃体験のあらましと、徳竹氏から聞き込んだ大蛇捕獲、巨大マムシのエピソードを綴ってみたい。
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