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こんな曲で涙した頃

あのアルバムの、あの一曲(仮)

Carry On 'Till Tomorrow - Badfinger

2004-09-16 | Weblog
「明日の風」 バッドフィンガー
「Maybe Tomorrow」という大げさな、でも記憶に残る名曲をIvysというグループがヒットさせてから1年もたたないうちに、そのメンバーは「Badfinger」と名を変え再デビューする。のちにアップルの秘蔵娘、メリー・ホプキンと結婚するトニー・ヴィスコンティが手掛けたIvysの「Maybe Tomorrow 」がまったく売れず(全米で51位)、急きょアルバム発売中止(発売されたのは日本、イタリア、ドイツのみ)。ポール・マッカートニーが「Come And Get It」を提供し、7曲をマル・エヴァンスがプロデュース、Ivys時代の曲でヴィスコンティのプロデュース6曲もミックスが変更され、さてBadFingerと名を変えて最初のシングルは「Come And Get It」。ポール・マッカートニーの入れ込み方は並大抵のものではなく、ほぼアレンジまで一緒のビートルズによる同曲のデモテープも存在している。この曲はIvysのアルバムと数曲を入れ替えただけでタイトルも「Magic Christian Music」と変えられたBadfingerのデビューアルバムに収録されている。
メンバーのピート・ハムとトム・エバンスによるこの曲は、リンゴとピーター・セラーズが主演した映画「マジック・クリスチャン」の挿入歌。ピートお得意の哀愁いっぱいのアコースティックな曲にファジー(ファズってるってことです)なギターと分厚いオーケストレーションがかぶる、これでもか! の泣きの1曲。
ビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンはFAB4以前にピーター・セラーズやジョージ・マリガンといった喜劇陣のお笑いレコードを手掛けた経緯もある。Badfinger名義のこのアルバム以外にオリジナル・サウンドトラック盤にも収められ、こちらでは映画のセリフ等も聴ける。ちなみにサントラの音楽を担当したのはビートルズの映画「Help」同様にケン・ソーン。アップル関係者ががんじがらめで固めたアルバムという印象は強い。でもこの曲はトムの繊細な曲調を殺すことないドラマチックな盛り上がりが聴きどころだ。しかし彼らは「ミニ・ビートルズ」のレッテルに応えることができなかったし反発もあったのだろう、バンドサウンドを中心としたハードな音を目指す。アップルレコードなき後ワーナーへ移籍するが、思ったような結果を出せず、ついにピートは自殺してしまう。いまでもバッドフィンガーに中途半端に参加していたジョーイ・モーランドがバッドフィンガーの名でライブを続けているようだが、これはロジャー・ウォーターズのいないピンク・フロイド、ウィルソン兄弟のいないビーチボーイズみたいなもので、聴いても悲しくなるだけ。96年ころ発表されたピートの未発表曲+バッドフィンガーのデモ(他の3人の演奏は消され、ピートに理解のあったロン・グリフィス等がオーバーダビングしている)の「7 Park Avenue」のほうが本来のバッドフィンガーのメロディを堪能できる。
80年代にはビートルズ以外のアップル盤を配給する会社がなく、彼らのアルバムも入手が難しく中古レコード店では高値を呼んでいた。が、91年に英EMI経由でLPとCDで再発された。しかしそろそろ市場でも見かけることがなくなってきた。同アルバムには他にもトム作の「Beautiful And Blue」そして「Maybe Tomorrow」と泣きの名曲は多い。これだけのソングライターを抱えながら、徐々に2流ロックバンドになっていってしまった理由はなんだったのだろう? 

Calorin, No - Brian Wilson

2004-09-16 | Weblog
この人もどの曲を選んでいいか困ってしまう。彼の半生自体が辛い挫折に満ちており、その繊細なハートから生み出された名曲は数知れず。「Calorin, No」は90年代になって高い評価を受けるようになったビーチボーイズのアルバム「Pet Sound」収録曲だが、アルバムに先行して発売されたシングル盤(66年)はブライアン・ウィルソン名義だった(日本でのシングル発売は67年、名義もビーチボーイズとなっていた)。
「おまえは"変わることなんてないわ"と言っていたのに……キャロライン、ノー……優しい日々が死んでしまったのを見るのは辛い……」
ブライアンの名で出されたことからもわかるように、ビーチボーイズの曲では数少ない、コーラスのない構成で、それだけにブライアンの独白のイメージが強い。作詞は当時広告代理店に務めていたトニー・アッシャー。ブライアンは詩作を得意とせず、そのイメージを伝えながら共同作業することが多かった。この曲もブライアンのハイスクール時代のマドンナ、キャロル・マウンテンのイメージと言われている。ブライアン言うところの「フィール」という曲の断片とイメージに、アッシャーがその場で詩をつけていったものだ。脳天気が身上の、それ以前のビーチボーイズの曲なら共作者はマイク・ラブでも用は足りる。しかしこれを作らされたアッシャーはそうとうしんどかったのではないだろうか? まあ、この仕事で一躍有名になった彼は以降ポール・ウィリアムズやロジャー・ニコルスと記憶に残る仕事をすることになり、充分な「報酬」を受け取ることになるのだが。
誰もが引用するフレーズだが、ここにも挙げておこう。この曲のトラックダウンが終わった4月のある日、当時の妻マリアンとふたりでブライアンはこの曲を聴いた。最後に飼い犬ルーイとバナナの鳴き声がインサートされ、列車が通り過ぎるSEが聴こえる。ふたりは感動のあまり泣いていたという。
「あの汽車の背後に僕が感じられたかl?」
「ええ、でも消えてゆくわ」
音楽ファンには座右の書となっているSF「グリンプス」では、このシーンをそのまま幻の「Smile」完成後の状況へと移し換え、主人公レイ・シャックルフォード自身が67年から消えて現代に戻るきっかけに使われている。これもファンには興味深いエピソードだ。
ところでこのSEはブライアン名義のシングル盤には入っていない。ビーチボーイズの「Pet Sounds」バージョンのB面ラストで聴くことができる。97年11月に日本でもやっと発売された「ペット・サウンズ・セッションズ」のボックスセットでは、セッションテイクとバックトラックのみのオケ、ブライアンのボーカルだけのトラックも聴くことができる。
またこの曲は95年にドン・ワズがディズニー・チャンネルのために制作したドキュメンタリーのサントラ盤「I Just Wasn't Made For These Times」のなかで再録されているほか、96年にビーチボーイズ名義で発表した「Stars & Stripes Vol.1」ではメイン・ボーカルこそティモシー・シュミットだがブライアン自身バックでコーラスをつけ、ジム・ウェッブがオーケストラ・アレンジをしたバージョンを聴くことができる。

Blue River - Eric Andersen

2004-09-02 | Weblog
ニューヨークのフォーク・サーキットでデビューし、65年のファースト「Today Is the Highway」収録の「Come To My Bedside」は日本語訳されてフォークの定番曲にもなっていたエリック・アンダースン。4作目「Avalanche」の邦題が「フォークの貴公子 エリック・アンデルセン」だったことを知る人ももう少ないか。パン屋じゃないっつうの(笑 彼は硬派の多かったフォーク界にあって彼は、軟弱でリリカルな詞を歌うことで知られていた。ちょうど岡林ノブヤスを筆頭とするアングラ・フォーク絶頂期に登場した井上陽水のような存在か? それとも遠藤賢司を引き合いに出せばいいのか? まあ軟派として認識されていたわけだ。そんな彼に時代が追いついたのが72年。シンガーソングライター・ブームがやってきて、ミーイズムの時代、なんて言われる頃には、そんな私的な世界をすでに情景美にまで昇華させた名盤「Blue River」を発表する。マスル・ショールズの重鎮ノーバート・プトナムをプロデューサに迎え、ナッシュビルで録音されたこのアルバムは、ほんとうに不思議な雰囲気に満ちていた。
川縁に、人生の重さを捨てにいく老人。長く共に暮らした犬のモーに思いを馳せる、やはりこれも老人だろうか。そして薪を割る手を休めて、家族や友人のことを考える若いロブ。……そんな3人の思いをよそに、ブルーリバーは流れてゆく。自然と人の対比。そこには大きなドラマもない。まるで静物画のような世界は、泣ける、というほどダイナミックなものではない。でも怖いほどに哀しい。ケネス・バットレーのドラムにプトナムのベースという黄金のマスル・ショールズのリズムセクション。淡々としたサポートがアンダースンの詩情を邪魔することなく彩る。地味なアルバムながら、ベストセラーになった。
むかしなにかの本で、ある人物に「金持ちになったら、なにをしたい?」と質問したところ、その人物が「ひとりで、ブダペストのレストランへ行って、耳元でジプシー・バイオリンを奏でてもらい、さめざめと泣きたい」と答えていたのを思い出す。その、ぎりぎりの静けさみたいなもの。30年近く経っても色褪せていないのがすごい。
アンダースンはこのアルバムの成功に気をよくして、9枚目のアルバム「Stages」をプトナムと制作するのだが、ジャケットも完成してプレス直前という時期にマザーはおろかマルチトラックのテープまでが紛失してしまう。意気消沈したアンダースンはCBSを離れアリスタへと移籍。当時のアリスタ特有のAOR風オーバープロデュース作「Be True To You」を発表し、せっかく「Blue River」でつかんだファンを手放してしまう。翌76年「Sweet Surprise」を発表するもあまり話題にならず、ここまで毎年のようにアルバムを制作していた彼はぷっつりと消息を聞かなくなってしまった。次のアルバムまで13年ものブランクを生む遠因となった「Stages」だが、不思議なことに89年になってCBSが失われたアルバムの大捜索をおこなった結果、10月30日、コロンビアの地下倉庫でなくなったはずの40本のテープが発見されるのだ。
このアルバムは91年に「Stages: The Lost Album」として発売される。そんな彼の数奇な運命を頭の片隅に置いて、この曲を聴いてみてほしい。その切なさも倍増すること、間違いないだろう。
ブルー・リバーをカバーした人は少ない、というかできないだろ、これだけの曲は。唯一カバーといっていいのは91年に発表された「Danko/Fjeld/Andersen」のもの。これは察しのいい人ならリック・ダンコとイェルド(と読むのか)というノルウェーのフォークシンガーと3人で組んだアルバムでのセルフカバー。リードボーカルは今は亡きリック・ダンコ。あの泣きのボーカルで再演されたブルー・リバーは、オリジナルを耳タコになるほど聴いた人にはいまひとつかも知れない。でも、やはり3人のコラボレーションなくしては生まれなかった、貴重なテイクでもあるのだ。

P.S. その「Stages: The Lost Albun」もあっという間に廃盤。本当に名盤でありながら、あまりにも遅すぎた。It's Too Lateとはこのアルバムのためにある言葉だ、と思った。

Late For The Sky - Jackson Browne

2004-09-02 | Weblog
いまは30~40歳になるんだろう。70年代に思春期を迎えた心優しき青年たちは、この曲に涙した経験があるはず。シンガーソングライター・ブームのなかでも、シニカルなジェームス・テイラーや、女性の意識を歌ったキャロル・キングと違い、自分と同じように悩み傷つく姿を見せてくれたジャクソン・ブラウン。その彼の3枚目のソロである「Late For The Sky」のタイトル曲が、この「Late For The Sky」だ。愛する人を失った気持ちを綿々と歌う。そんな当たり前の内容を、飾らずに歌える。それがこの人の魅力であり、そのスタイルはデビュー後30年近くたつというのに一向に色褪せない理由だろう。このアルバムがいまだにフェバリットだという人も多いし、またジャクソン・ブラウンが好きというわけではないが、このアルバムは別、という人も少なくない。
「あの空は遠い……」という歌詞は確かに臭い。LP時代はA面トップに配されたこの曲。A面のラスト、4曲目の「The Late Show」まではひと続きの作品のようにも感じらる。「Late For The Sky」のデヴィッド・リンドレーのラップギターで始まり、「The Late Show」のエンディングでクルマのドアを閉じるSEを聴くまで、針を上げることができない緊張感が持続する。名盤であることは疑う余地もない。泣ける曲満載のアルバムだ。
ジャクソン・ブラウンは72年のデビュー「Staturate Before Using」から名作が多く、ここからは「Doctor My Eyes」「Rock Me On The Water」「Jamaica Say You Will」のヒットを放っているし、彼の曲のカバーも数多い。「Jamaica...」はバーズが「Byrdmaniax」で、「Under The Falling Sky」はボニー・レイットが「Give It Up」で取り上げている他、セカンド「Foe Every Man」には イーグルスのデビュー・ヒット「Take It Easy」がセルフ・カバーされている。しかしこの「Late For The Sky」はプライベートなイメージが強く、さすがにカバーはないだろう。同アルバムの「For a Dancer」は75年にプレリュードが「Owlcreek Incident」で、クライブ・グレッグソンが90年の「Love Is a Strange Hotel」でカバーしているほか、「Before the Deluge」はジョーン・バエズが82年の「Honest Lullaby」でカバーしている。
彼はソロでデビューする前ニッティ・グリッティ・ダート・バンドに在籍していたことがあり、辞めた後は音楽出版社「Nina Music」と契約して職業ライターをしていた。68年頃にはティム・バックレーのバックで演奏していたり、ヴェルベット・アンダーグラウンドと活動していたニコの「Chelsea Girl」にも3曲参加するなど、その活動は多彩だった。この頃彼の曲はトム・ラッシュやスティーヴ・ヌーナンにも取り上げられている。ニーナ時代、売り込み用にエレクトラのスタジオなどで録音された「ニーナ・デモ」の30曲は、本人に無断で100枚ほどアセテート盤にプレスされたが、それを知ったブラウンによって半数は割られてしまったといういわく付きの作品。90年代になってブートCDで流出している。もうひとつ「クリテリオン・デモ」というのもあり、こちらではファーストに収録された「Jamaica Say You Will 」「Song For Adam 」「Doctor My Eyes」等のデモ・バージョンを聴くことができる 。
日本ではファーストから順調に評価された数少ない幸運なシンガーソングライターのひとりで、77年の初来日はやはり名作「The Pritender」後。ヒット曲「Stay」を収録した「Running On Empty」直前で乗りに乗った時期だった。とはいえ前年には最愛の妻フィリスの自殺もあり、それを乗り越えようと迫真のステージを展開していたことを覚えている人も少なくない。ステージ上で無邪気に遊ぶ愛息イーザンの姿が目撃されたり、また後日談だが、プロモーターが接待でソープへ誘い、それを本気で怒った極少数の来日アーチストのひとりだったという話も聞いた。この公演はFMでオンエアされた音源は、当時「LIVE '77 」というブートLPで出回っていた。現在はオーディエンス音源のCDがあるらしい。

Long Way - Dan Fogelberg

2004-09-02 | Weblog
イリノイの大学生だったフォーゲルバーグが、コーヒーハウスで歌っている頃に知り合ったのが、REOスピードワゴンのマネージャ、アーヴィング・エイゾフ。彼の縁でロサンゼルスへとやってきたフォーゲルバーグは、ヴァン・モリスンの前座などをしながらレコード・デビューする。「Home Free」(72年)は話題にもならなかったが、そんな時期に知り合ったイーグルスなどのメンバーをゲストにリリースした「Souvenir」(74年)はプラチナヒットとなる。この「Long Way」はそのアルバムの、LP時代はA面ラストにあたる曲だった。アコースティックな佳曲が多いなか、唯一大げさにも聴こえるオーケストレーションをバックに朗々と歌い上げるフォーゲルバーグの歌は、ひたむきな情熱にあふれている。愛する女性と別れるそのライブな葛藤は、まさに「後悔先に立たず」なのだが、ふたりで過ごした長い時間、そして彼女なしで過ごしてゆくこれから先の長い時間の、そのはざかいに立つ気持ちを歌っている。オーケストレーションはサウザー・ヒルマン・フューレー・バンドなどにも在籍した売れっ子のキーボード奏者ポール・ハリス。ねちっこいギターはプロデューサーも務めるジョー・ウォルシュ。ドタバタのドラムは同時期にジェームス・テイラーの「Gorilla」やニール・ヤングの「Zuma」でも叩いていたラス・カンケル、コーラスにはグラハム・ナッシュが参加している。このアルバムを発表した翌年にはイーグルスとツアーも経験し、ウエストコースト・サウンドの見本のようなシンガーソングライターのひとりだった。
一般的に彼のヒット選には入らない曲だし、彼ならではのスタイル、というわけではない。実際97年に発売された4枚組のボックス「Portrait: The Music of Dan Fogelberg 1972-97」にも入っていない。でも、この切々とした歌い方は、25年経った今も耳に残って離れない「泣きの曲」のひとつだ。
日本では「The Innocent Age」(81年 )からのヒット曲「Leader Of The Band(バンドリーダーの贈り物)」くらいしか知られていないが、ファーストから10作目までで計1000万枚を売ったというから、アメリカでの評価はちょっとしたもの。ジャズ・フルート奏者ティム・ワイズバーグとのデュオ作「Twin Sons」は発売3週間で100万枚のセールスを上げている。また先に挙げた「Inocent Age」からは3枚のシングル・ヒットを出している。80年代に入ると、アメリカのAORブームの悪しき影響を受け、そっちに走ってしまったのが残念。私見だが、この時期間違ってしまったシンガーソングライターのアルバムを見ると、必ずTOTOのリズム陣やブレッカー・ブラザースがらみのホーンがクレジットされている。案の定82年発表の「Exiles」はマイケル・ポーカロ(B)、アンディ・ニューマーク(Dr)、リック・マロッタ(Dr)、マイケル・ブレッカー(Sax)の名がある。ま、それはさておき、彼のバックバンドが独立したフールズゴールドのAOR風味のウエストコースト・サウンドも、いまとなってみると懐かしい。

Brass Buttons - Gram Parsons

2004-09-02 | Weblog
バースのファン、カントリー・ロックのファン、果てはストーンズのファンにも一目おかれるグラム・パーソンズ。ロック・シーンに「保守派の音楽」と嫌われたカントリーを持ち込んだその功績はさておき、泣きたくなるほどメローなこの曲は、25年以上経った今もその魅力を失っていない。ただ、この人の評価はそれほどのものか? と思うこともないわけではない。「ロデオの恋人」がバースの最高傑作とは思わないし、残されたアルバムも名盤、というのとはちょっと違う、と思っている。これは少数意見なんだろうか? ただ楽曲だけをとれば、名曲が少なくない人であることも確かなのだが。
バーズ脱退後に発表したセカンド・アルバム「Grievious Angel」(74年)に収められた「Brass Buttons」は、ファースト「GP」(73年)の「She」などに通じるバラード曲。印象的なピアノのイントロと、アクセントとなるスティールギターのリフ、決してうまいとはいえないグラム(バース組ではジーン・パーソンズというメンバーもいるので、ここではグラムと表記する)のボーカル……。あらためて聴いてみて、やっぱりカントリー・バラードは演歌なんだな、と実感する。彼のソロは、いまさらロックのビートを強調したり、ロック的なアプローチ(たとえばポコなどに見られる)をしているわけではない。だからアルバム自体は純然たるカントリー・アルバムのイメージが強い。当時は「髪の長いヤツがカントリーをやっている」だけで、充分革新的なことだったのだ。アルバム・ガイドならその辺の事情が重要になってくるのだが、「泣ける選曲」では、この曲の魅力だけにポイントを絞ろう。
「真鍮のボタン、緑の絹、銀の靴」……と、状況を淡々と描写するイントロ。「彼女の言葉はいまも頭の中を踊り、彼女の髪の毛はいまもベッドの上に」……と、いなくなった彼女の思いにひたる展開。韻を踏んだ歌詞も最近のロックでは重要視されないパターンで、これも新鮮に聴こえる。コットンランドから出てきたひとりの女性を描写した前作の「She」に比べても、どんどんカントリーの文法へと戻っているのが面白い。
どちらも名盤の誉れ高いのに、リアルタイムではまったく売れなかった。それが原因でドラッグに走り(手助けをしたのがストーンズのキース・リチャードだという説もある)、結局それが原因で73年の9月19日に死去。死後発表されたフォーリン・エンジェルズ(彼のバンド、エミールー・ハリスもいた)でのグラムの声は、明らかに調子が悪そうだ。
バースのメンバーのなかでもグラムはとりたてて評価が高い。ハードコアなファンも多く、死後数々のコンピュレーション盤が発売されている。でも、そのほとんどはグラムが在籍したインターナショナル・サブマリン・バンドやフライング・ブリトー・ブラザースからの寄せ集めだし、その曲も「初期のカントリーロック」という資料価値以上のものは少ないように思う。同様に、グラムのソロ2枚でも、もろカントリーの曲はカントリーのファンでもなければ聴き飛ばしてしまうのではないだろうか? 30年の時代の流れとは、そんなものなのだろうか。しかし名曲は名曲。この1曲のためにアルバムを買うのは、決して損なことではないと思う。
「Brass Buttons」は73年のアルバム「Crazy Eyes」でポコがカバーしている他、90年にレモンヘッズがアルバム「Lovey」でも取り上げている。偶然買ったジョニー・リバースの「   」にもこの曲はカバーされていたが、どうもGPの印象が強すぎるせいか、情けない声でないとあの情感は伝わりにくい気がするのは自分だけか?

Adios - Jim Webb

2004-09-02 | Weblog
早くして認められた才能、その後の作品への周囲の理解のなさと挫折。そして再生。この曲は彼が完全復活した93年のソロ・アルバム「Suspended Disbelief」に収録された、やはり泣ける曲だ。初出は89年のリンダ・ロンシュタッドのアルバム「Cry Like A Rainstorm」だから、これはセルフ・カバーということになる。
輝かしい栄光の過去。それに「アディオス」と別れを告げる決意。それが淡々と歌い上げられる。ほとんど自身のピアノだけをバックに歌う様は、悪いがすっかり貫禄のついてしまったロンシュタッドより、頼りなくて切ない。このアルバムの前作「Angel Heart」(82年)ででっぷりと太ったウェッブの姿を見たときはどうしようかと思ったものだが、11年のブランクを経てエレクトラから発表された本作の、精悍な姿に胸をなで下ろしたファンも多いのではないだろうか。その後コレクター向けに本人の再録盤を企画しているガーディアンから「10 Easy Peaces」を96年に発表。これにはグレン・キャンベルでヒットした「ガルベストン」の2度目のセルフ・カバーも収録されている。
ここまで当然のようにウェッブの事を語ってきたが、いちおう彼の経歴も見ておこう。コンポーザーとしてウェッブが注目を浴びたのは66年、まだ20歳の時だ。グレン・キャンベルの「By the Time I Get to Phoenix」「Wichita Lineman」、フィフス・ディメンション「Up Up and Away」、そして俳優リチャード・ハリスの「MacArthur Park」「Didn't We」と立て続けに大ヒットを放って、時代の寵児となる。69年には初のソロ・アルバム「Jim Webb Sings Jim Webb」を発表。以降計9枚のアルバムを発表するが、どれも話題を呼ぶほどではなかった。
ウェッブはポピュラーミュージック界の変動期に登場した「時代の寵児」でしかなかった。彼のソロアルバムを聴く限り、当時はそんな印象が強かった。特にワーナー時代までの作品は「ジム・ウェッブ好き」でなければピンとこないかも知れない。いわゆる「シンガーソングライター・ボイス」というやつで、歌の説得力のなさったらアル・クーパーと双璧、といまだに思っている。しかし楽曲の親しみやすさは別格だ。彼の曲を愛した歌手も多いが、そのなかでもグレン・キャンベルとアート・ガーファンクルはウェッブに「惚れた」歌手といっていい。カントリー歌手のイメージが強いグレン・キャンベルだが、デビュー前はセッションマンとしてハル・ブレイン等とビーチボーイズのアルバムでギターを弾いていたこともある。ヴェンチャーズやサーフグループのレコードでも影武者としてプレイしているらしい、とは「急がば回れ'99」を出した鶴岡氏の受け売りだ。最初のシングルはブライアン・ウィルソンからもらった「Guess I Dumb」だが、ウェッブ作の「フェニックス」「ウィチタ」「ガルベストン」……と続く「ご当地ソング」シリーズがなければ、現在の経歴は無かったに違いない。もっともウェッブはこれらの土地に行ったこともなかった、というハナシも聞いたが本当だろうか? 一方アート・ガーファンクルのほうはサイモン&ガーファンクル解散後ソロになってジム・ウェッブにはまったクチ。ほとんどジム・ウェッブの曲ばかりという名盤「Watermarks」がある。
また俳優リチャード・ハリスが歌った「MacArthur Park」も忘れてはいけない。7分20秒という当時は画期的な長さであったにもかかわらず、全米チャート2位を13週も記録した。この曲、ウェッブ自身が惚れまくってアソシエイションに持ち込んだが、3分でも長いといわれたシングルの時代、相手にされなかった。最終的にウェッブの友人でもあったハリスがアルバムに収めるのだが、この曲のオケはロサンゼルスで録られ、歌はダブリンでかぶせるという変則的な仕上げがされている。そのリチャード・ハリスは2002年に没。ヘッドコピーは「あのハリー・ポッターの校長先生、死去」だから、こっちのハナシのほうが泣けるかも知れない。このほかチェックして損はないのがジョー・コッカーの「I Can Stand A Little Rain」。やはり名曲「Moon Is A Harsh A Msitress」「It's a Sin When You Love Somebody 」の2曲をジムのピアノをバックに熱唱している。そして「雨に濡れても」で知られたB.J.トーマスの「Rock' n' Roll Lullabye」。変わったところではSwing Out Sisterのファースト「 Kaleidoscope World」のオーケストレーションも彼。どおりで「You on My Mind」を聴いたとき、「Up Up And Away」を思い出したはずだ。最後に99年にCDで再発となったウェッブの「Words & Music」(70年)の「Three Songs」は「Let It Be Me」と「Never My Love」「I Wanna Be Free」を組み合わせて1曲にしたという、ソフト・ロック・ファンなら気が変になってしまうほどの名演。

Tonight, Sky's 'Bout To Cry - Eric Justin' Katz

2004-09-02 | Weblog
「トゥナイト。スカイズ・アボウト・トゥ・クライ」 エリック・ジャスティン・カズ
日本でのみ、といっていい人気のエリック・ジャスティン・カズ。「名盤発掘」で知られる小倉エージ氏らの努力もあり、98年にソロアルバムが2枚ともCDで再発された、この曲は彼のファースト「If You're Lonely」に収録されている。
ジョン・アンドレオリとの共作による「Tonight, Sky's 'Bout To Cry」は、彼のピアノと弦楽器だけをバックに切々と歌い上げる様が堪らない。「まるで今夜は、空も泣いているようだ……」と、テーマはよくある孤独な男の独白なのだが、その切なさはとびきりだ。エリック・カズ(セカンド以降この名称になる)はシンガーソングライターにくくられているが、ジャンルにおさまらないサウンドをこのアルバムで聴くことができる。ゴスペルやR&B、果てはフォスター(もちろん「オールド・ブラック・ジョー」他アメリカの古典愛唱歌を数多く作曲した彼だ)の影響まで感じられる幅広い音楽性も彼の魅力のひとつ。当時リアルタイムで聴いた人は少ないだろうが、いまCDで初めて聴いても「懐かしい」思いを感じることだろう。近年聴くことのない、絶滅したサウンドのひとつといえる。
バックにはチャック・レイニーをはじめとするジャズ陣、ボニー・レイットのギター、トレイシー・ネルソンのコーラス。この曲でもストリングス・アレンジを担当しているデオダートは、2作目「Cul-De-Sac」では全面的にオーケストレーションを担っている。そういえば一世を風靡したエミル・デオダードも、すっかり過去の人となってしまった。
初出は彼が在籍していたゆるゆるのサイケデリックバンド「Blues Magoos」時代。アルバム「Galf Coast Bound」で取り上げられている。だからこのソロでの再録はセルフカバーとなる。もっともこのオリジナルはあえて探すほどの出来ではない。曲はいいが演奏は素人にケが生えたよう、という当時のセルフ・コンテインド・バンドそのままの音だ。
60年代にはのちのウッドストック系のお友達、ハッピー&アーティも在籍した「チルドレン・オブ・パラダイス」でピアノを弾いていたのがプロキャリアの始まり。カズが注目されたのは、リビー・タイタスとの共作「Love Has No Pride」をボニー・レイットやリンダ・ロンシュタッドが取り上げたことによる。「Love Has No Pride」は他にもトレイシー・ネルソン、ピーター・ヤーロウ、ポール・ヤングなどにも取り上げられている名曲。彼自身のソロ・アルバムには収録されていないが、76年に元ピュア・プレイリー・リーグのクレイグ・フラーや元BS&Tのスティーブ・カッツ、元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのダグ・ユールと組んだアメリカン・フライヤーのファースト「Amrican Flyer」で、自身の歌声が聴ける。ちなみにプロデュースはジョージ・マーチン。アメリカン・フライヤーは2枚のアルバムを残し解散し、のちクレイグ・フラーとデュオ・アルバムを2作残した。
その後ボニー・レイットの「Nine Lives 」(86年)にピアノで、エイドリアン・ブリュー等のベアーズにアーティ・トラウムと共に客演して以降、「収まるべくして収まった」感のある、ウッドストック人脈の「Woodstock Mountain Review」(87年)の参加を最後に彼の演奏を聞くことがなくなってしまった。噂ではコンポーザーとしてそこそこのヒット曲を出しているらしいが、やっぱり彼のソロをあらためて聴いてみたいもの。でも出してくれそうなのは日本のDreamsvilleくらいのものか。
追記 約30年振りの新作が2002年に発表された。新作といってもデモや未発表テイク中心。この曲のデモも収録されている。