最近省庁再々編の議論の中で通信と放送の監督官庁を一元化する議論が活発化しています。
そんな中1月12日付けの読売新聞の社説を読んで、ちょっと違和感を感じました。
論旨は以下のとおりです。
■通信と放送は技術的に垣根が無くなっているため、法整備上や行政上も別々に捉えるのではなく一元化して検討するのは時宜を得ている。
■しかしながら、放送には「報道」という側面があり、そのことを忘れた議論はよろしくない。
■特に地方局などのように地域に根ざした「報道」が地方局の衰退に伴い損なわれるのは問題である。
いろいろ突っ込みたいところはあるのですが、私の感じている違和感の本質は、「通信」と「放送」という言葉が意味するものが私見と読売新聞の社説とで異なることにあるのだと思います。
私は「通信と放送の融合」という言葉を聴くと、以下の二点を思い描きます。
■片方向のコミュニケーションである放送番組に彩を添えるため、双方向のコミュニケーションが可能な通信インフラを用いる。(ユーザ参加型番組など)
■通信インフラを用いて片方向の放送番組を送信する。(多チャンネル放送、VoD、難視聴地域への再配信など)
前者は放送側が通信を利用するモデルなので融合といっても限定的であるのに対し、後者は明確な通信と放送の線引きがなく、放送番組の伝送媒体として放送波を用いるか通信網を用いるかの違いだけになっており、真の意味での通信と放送の融合(というか区別がつかない状態)と言えるでしょう。
つまり私の考える「通信と放送の融合」とは
「通信」=「通信網」
「放送」=「放送波」
という伝送媒体の融合を指しています。
しかし読売新聞社説では、情報源としての「通信」と「放送」の違い、という観点で問題提起しているように思えます。
「通信」=「パーソナルな情報発信(公正性、中立性が無く報道とは呼べない)」
「放送」=「報道などの放送番組(公正性、中立性を確保)」
このような分類をするならば確かに両者は全く性質が異なるような気がします。従ってそもそも通信と放送の融合など非現実的である、というのが読売新聞社説のバックグラウンドにある考え方ではないかと思います。
もし、今のテレビがすべて真実を報道し、今のインターネットが嘘ばかり垂れ流している、という考え方があるのであればそれは早計でしょう。インターネットに嘘があるのは周知の事実ですが、テレビだって国家によって免許が与えられているので、平時はまだ良いですが有事のときにはどんな統制がかからないとも限りません。また「意図的に」事実を報道しない、とか憶測で報道するという姿勢は平時であっても時折見受けられます。そういう時にはインターネットからより正しい情報を取得できるかもしれません。結局情報の真贋は視聴者が判断するより他ないのです。
それでもあくまで「免許を受けた放送局による放送番組」と「パーソナルな情報発信」とを区別する必要がある、というのであれば、コンテンツに放送局からの番組であることを証明する手段を用意し、セットトップボックス(STB)には放送局コンテンツのみ受信できるモードとあらゆるコンテンツを表示できるモードとを選択できるようすれば、伝送路が放送波でも通信回線でも免許を受けた放送局のコンテンツだけをテレビ受像機に表示させることもできるようになるでしょう。
また、社説では地方局の衰退について言及されていますが、現在の地方局は県域単位であるため、コミュニティ情報としてはかなり広域な情報となるでしょう。市民生活に密接に関わる市町村レベルの情報はそれ程放送されないのではないでしょうか。こうしたきめ細かな情報は帯域の限られた放送波で送信することは困難であり、通信インフラによる配信が適していると考えます。要は適材適所だと考えます。
このように深く突っ込んで考えよ、というのが社説の主張であるならば、まあ私も納得できますね。ただ不安だからやらない方向で検討すべし、ということであれば技術の進歩を無視したあまりに消極的な考え方であり賛成できません。