noriba-ba's garden

若草物語7

若草物語の旅は続く…。

 

さて、居間の次に入った部屋は

オルコット姉妹の父親、ブロンソンの書斎である。

壁際の書棚には古めかしい装丁の本がずらーっと並んで

かなりの読書家だったと見える。

 

それもそのはず…実は彼は

貧しい農家に生まれ、独学で読み書きを学び

若い頃から生涯、自分の考えや体験を日記に書き続け

後に、超絶主義の哲学者かつ教育者になった。

そういう経歴の持ち主だった。

 

暖炉の横にはブロンソンの胸像が置かれ

マントルピースの上には彼が

コンコード町の教育長をしていた時に受け取った

100ドルの小切手が見られる。

 

この書斎では

友人の哲学者エマーソンや

「森の生活」で有名なソローをはじめとする

哲学者や教育者たちとともに

超絶主義の哲学談議に花を咲かせていたという。

 

ブロンソンの教育に関する考え方は

当時の教育者の考えとは異なっていたそうだ。

彼は、子どもたちにただ知識を詰め込むのではなく

良い環境の中で学ぶことが大切であり

子どもたちとの会話によって

子どもの中にあるものを引き出すことが

何よりも重要であると考えた。

そして子どもたちに「自分で考える」ということを

学んでほしいと思っていたそうだ。

 

そこで彼は子どもたちを野外に連れて出て

自然の中で多くを学べるようにしたり

体を使ってアルファベットの文字を教えたりした。

当時としては画期的な教育方法である。

 

このブロンソンの教育に対する考え方は

性善説に基づく子ども観のもとで

ルソーやフレーベルによって生まれてきた

ヨーロッパの近代教育理論につながるものだと思われる。

哲学を学んでいた彼は

こうしたヨーロッパの先進的な思想や教育について

いち早く書物で読み共感していたのだろう。

 

のちにルイザは、父の教育について

「私の父は、ちょうど花のつぼみが自然に花開くかのように

賢い方法で教えてくれた」と語っている。

 

なるほど…

だからルイザという作家が生まれたのだ。

この父にして、この娘ありだ。

 

しかし… 

彼の教育法は当時としては進歩的すぎて

多くの人々には認めてもらえなかったらしい。

そのため何度も学校を閉校することを余儀なくされ

そのたびに引っ越しをすることになる。

だが、自分の考えを貫いたため

家族は経済的に大変な苦労をしたという。

彼の哲学である「質素な生活、思想は高く」を

身をもって実践したのである。

 

ルイザがオーチャードハウスに引っ越した時

「できることなら、今から20年は引っ越さない」と

自らの決意を日記に書いていたり

作家として成功し、家族を金銭的困難から救い

心地よく生活できるようにすることが夢だったりしたのには

そういう理由があってのことだったのだ。

 

でも、妻のアバは夫の考えを正しいと信じ

献身的に夫を援助し支え続けた。

やはり、この母にしてこの娘あり…だ。

 

その母親のアバについては次回。

今日はここまで。


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