故郷は遠きにありて

降って湧いた問題にゆれる故郷を思う日々

水琴窟のような

2009-09-26 10:39:29 | Weblog
ベランダがあまりにも暑いので暑さ対策として、実家から持って帰った瓶にバラの鉢を入れている。

バラに水をやると瓶の中に水がたまり、その上にまた水をやるととてもいい音がする。リズミカルなころころとした楽しくなるような音である。

本物の水琴窟にはほど遠い音ではあるけれど、ひそかにうちの水琴窟と呼んで喜んでいる。

最後の言葉

2009-09-24 16:58:05 | Weblog
姑は亡くなる前は自分の子どもが解らなくなっていた。自分では動くこともままならない状態の中で、「戦争はね、よくないことなのよ」と繰り返し言った。

私の父も亡くなる前は戦争中と思っていた。私が買い物に行って来ると言うと、「鉄砲の弾に当たらんように気を付けよ」と言う。「お父さん、もう戦争は終わったのよ、私は戦争が終わって産まれたんよ」と言うと安心したように「そうか」と大きくうなづいた。そして「戦争ほどばかげたもんはない」と繰り返し言った。

姑も父も元気なときは戦争の話を一度もしたことがなかった。今際の際にどうしても言っておきたかったのか、それともあまりにも強烈な体験でそれしか思い出すことができなかったのか。おそらくその両方かもしれない。

私は貧しいけれど希望に溢れていた時代に育った。死ぬ間際に何を思い出すのだろうか。どんな言葉を残すのだろうか。

断水騒ぎ

2009-09-19 15:03:57 | Weblog
10日の夜、夕飯の片付けをしようと水を出すといやに水圧が低い。後で我が家の水道管を見なければと思いながら、風呂に湯を先に張っていた。水圧が低いので全開にしてもいつもより時間がかかる。

すると玄関のチャイムが鳴る。出てみると今年の副理事をされている方だ。建物の東側で水道管が破れたようで水が溢れています。断水になるでしょうから水をためておいてくださいとのこと。我が家の水道管ではなかったことにはほっとしたけれど、たいへんなことには違いがない。

30分くらいして給水車が来てくれたが、いつも10リットルくらいはポリタンクにあるし、やかんにも水は入れてある。トイレ用はお風呂の残り湯でなんとかなるだろう。水は確保している家が多いようで、給水車に集まった方たちもやかんだけを持っている人が多かった。

その夜のうちに修理してくれて朝はいつもの朝だったが、またどこかの水道管が壊れるかもしれない。

写真は夜の10ころの修理現場。工事の方ごくろうさまでした。


出会いの季節

2009-09-17 10:39:10 | Weblog
中庭のツクツクホウシの声もいつの間にか聞こえなくなり、そよぐ風の音が耳に心地よい。緑の小道ではクズの花があちこちで満開になって甘い匂いを漂わせている。

いつもの年ならこんな時期はやたら寂しくなるのだけれども、なぜか今年はこの静けさがうれしく、余裕を持って、過ぎ行く夏と秋の初めの混じりあうのを楽しんでいる。夏をエネルギッシュな孫と過ごしたせいかしら。

写真は3度目の挑戦で今年初めて成功した朝顔(ヘブンリーブルー)。


ヒーリングミュージック

2009-09-12 10:35:39 | Weblog
孫娘がいてる間は幼児向きの音楽をいつもかけていたのだが、ヒーリングミュージックをかけてみた。孫は「あれっ」と言って興味を示し、ゆるやかな曲に合わせて踊りだした。ゆくりと手を回したり、最後には寝転んでしまう。お気に入りなのだと思い込んだ私は彼女が昼寝の時にかけてみた。気持ちよく眠れるのではないだろうかと思ったからだ。

ところが昼寝から起きた孫がぽろぽろと大粒の涙をこぼしている。ママが恋しくなったのかと思ってママに電話を掛けてお話をさせた。

「あのね、なんかね、悲しくなって泣いてしまったの」と繰り返しママに訴えている。

いつもの彼女らしくない。どうしたのかと考えてふと気が付いた。どうもヒーリングミュージックのせいらしい。その曲は「希望」という題名で大人には決して悲しくなるような曲ではないのだが、孫にとっては悲しみを誘うメロディだったらしい。