きみとのむミュスカデシュールリー

お酒はあんまり関係ありません あしからず

ノートの取り方のメモ

2016-02-21 19:43:55 | こうしたい
話を聞いてるときや、本を読み始めたときに、よくメモをとろうとしてしまうのだけど、大抵意味がない。
意味がわからないので、とりあえず書き出してみるかと思ってそのまま書いてみるのだけど、意味がわからないまま書いても結局よくわからないという…
一度理解する必要がある、それまではよく考えるという作業がいる。
鳥頭だから、すぐ忘れないように書くという作業に走ってしまうのだけど、あまり良くない。

SOS

2010-03-02 13:27:25 | こうしたい
疲れている、娯楽がない、という状態だととかく人を求めがち
なんとなくの孤独感でなんとなく誰かといようとする
それで解決できるときもあれば解決できないときもある
解決できないのは誰かに縋ろうとしているときで、
そういう時に必要なのは、誰かといることじゃなく、自分はひとりなんだ、と早く気づくこと

ちゃんとひとりで立たなきゃいけないんだ
すぐ忘れてしまう

2010-02-22 02:02:10 | こうしたい
意欲的で、責任感が合って、決断力があって うんぬんかんぬん
そういうのが肯定される世界を見ているけれど、でもそうじゃない世界もあって、そうじゃない世界にいるんだけど肯定されたいのでシフトするとき、そうじゃないほうを否定したくない気持ちがある

プレゼンテーションの必要性

2010-01-14 02:22:11 | こうしたい
伝えられる時間には限りがある。
プレゼンテーションの巧さというのは非常に大事だな、と思います。

前は、ありのままを伝えられたらそれが一番いい、とずっと思っていたし、私も受け取る側としてはそういう姿勢でいたかった。
だけども、ありのまま、でいるというのは傲慢である、という気もする。
私たちは、人によって態度が変わるし、日によって気分も変わる、機嫌も一定ではないので、「変わらない」ことを前提に、普遍的な話をするのは無理なのだ、と思う。

そのすべてに合わそうとするのも、合わすことができると思うのも、またひとつの思い上がりだろうけれど、実際問題、合わせなければ伝わらないものというものもある。人によって自分の言いたいこと伝わらないことがあるのは、個々人の意見の違いより、自分に関して持っている情報量が人によって違うから、と言う部分も大きいのだと思う。

より効果的に見せよう、という姿勢が前は恥ずかしくてしょうがなかったけど、いまはそんなに抵抗がなくなっている。大事なものと大事じゃないものを並列に言葉にして、自分の伝えたいことが伝わらないよりも、やっぱり大事なものを押し出して伝えていく方が向こうにもこちらにもわかりやすい。

どちらかといえば、自分の場合は甘えだったのかな、と思う。
自分が口に出しているから伝わっているだろう、という。
でも、1回聞いたことをそのまま忘れない人もいるし、10回話しても覚えられない人もいる。
相手のそういうポテンシャルを考えすぎることはちょっと嫌みかも、と思うので、自分の中で、伝えたいことをどうやったらより伝えられるか、というのを洗練させていくことは、意外に大事だったのかもしれない、と思いました。

なんだろな、それに騙されないように、って思う部分もいまだにありはするんだけど。

話す

2009-11-06 00:14:54 | こうしたい
相手の話を聞いてちゃんとそれに返すこと
どうも私は好き嫌いが激しくてかなわんです 聞きたくないことわからないこともとにかく聞く どうしても嫌いだったらまた考える。
あと矛盾するかもしれないけれどとにかく思ったことをしゃべること
ちゃんと言葉にすること
言葉にする、っていうのはたぶん訓練しないとできない
これをどっちもがんがんやりたい

ここからまた

2009-11-05 23:38:06 | こうしたい
こうなりたい、というのが、人目を意識してるものだと結局だめなんだな、と思う。
やさしくなりたい、っていうのが、人からやさしそうに見られたい、っていう動機からだと、絶対うまくいかない気がする。例えばもっと、芸能人になりたいなぜなら人に見られたいから!みたいのだったら直結なのだけど。

でももっと、いろんなものにぐらぐらさせられない人になりたいなあ、とはずっと思っていて。
私は人の反応で自分を見るところがあるから、相手の反応が悪いとものすごい不安になったり、落ち込んだりするところがあって、かといって相手の様子を見ることが悪いこととは思わないんだけど、それで意見がぐらぐらしてしまうのはやっぱり違うな、と。
あと、人を信頼することが、今更だけどすごい怖いな、と。
本当、一つのことが頭を占拠すると、他のことが考えられなくなってしまう。

だめだ、すごいふわふわしてるんだけど、このままじゃ駄目なこと、自分でこのままでもいいと思うことで楽になること、そういうのを、うまいこと振り分けて伸ばしたり叩いたりできたらいいと思うのだけど、自分の意識下でそれを行うのは非常に難しい。もう誰かに一任してしまいたい。でも誰かは自分じゃないわけで、どっかしらずれてくるわけで、っていうかそんなことをやってくれるひとなんて存在するわけもなく…うん。
自分で自分のいいとこをいい!っていうのは正直どうなの?って思うんだけど(別にわるくもない…けど、どんどん、多分ずれてくると思うんですよね。自分がいいって信じ込んでるもの、になってしまいそうなのがこわい)でも、自分はそういうもんなんだ、って思えることも結構必要なのかも、とは思う。
なんというか、自分はこうじゃない!ってなると、課題がひたすら多くて本当困るんだけど、自分はこうだ、って出発点がはっきりしてると、次にやるべきこととか、補うべきことがはっきりする気がする。


だいじにされたかったのだと

2009-10-26 01:45:10 | こうしたい
全然意識になかったけれど、私がいままで何のために生きてきたかっていうとほとんど「つなげる」ためだったんじゃないか、と思った。目的地はなくて、ただ将来に自分の未来をつなげるため。この先も生きていられるように。
そう思ったらいろんなことに納得がいった、限られた範囲の友達しかいないのはそれが続く見込みのある人だったからで、関わろうとしなかったのはそれがすぐに途切れそうな縁だと思ったからで、これで金輪際関わらないと思えば切り捨てることは容易かった。
簡単に言ってしまえば、「役に立つ」と思ったことしかやろうとせず、プラスやる理由もないと思った、というだけのことなのかもなあ。

その代りきっと、「役に立つ」って思ったことには全力だったな、と思う。そのために誠実とかやさしさがあって、それらは別に相手がすきだから、とか、かわいそうだから、とか、そういうもののためじゃなかった。
逆に、だから、相手に蔑ろにされたら、これ以上関わり合いになるのはやめよう、ってすぐ諦めモードになってたんだな、と思った。この人は続ける気のない人だから、私が本気になっても無駄なんだな、って思ってたってことなんだろう。

でも、続かない関係が価値のないものか、となると、それは違うよな、と思う。
今更だけど、「つづけなきゃ」ってそんな思いつめなくてよかった気がする。続かなくてもいい。その時その場にいる人とただ一緒に笑ってることが、嘘かも知れないなんて考えなくてもいいじゃないか、と思う。たとえその人が二度と自分のことを思い出さなかったとしても、と、そんな風に考えてしまうのは、なんだか、女々しい