諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

塩竃の志波彦神が阿須波神であるとする理由。その6

2024年09月10日 11時12分10秒 | 神道
続きです。

猿田彦尊を考える上で無視できない存在が有ります。沖縄の祖神と言えるサダル神です。杖をついた老婆の神です。

猿田彦命とサダル神。どちらも道案内の神です。そして「猿田」と「サダル」。語源が似ている。

猿田彦尊は男性器を示していると言いましたが、猿田彦尊の鼻の長さは110㎝もあるのです。流石に男性器が110cmあるとは思えない。

しかし、杖の長さだとしたら110cmはジャストな長さだと言える。猿田彦尊の鼻は男性器と杖。猿田彦尊の鼻は、どちらもそれを示していると思われます。

そう考えると疑問も出ます。猿田彦尊の源流は沖縄のサダル神と考えられるが、それだと猿田彦尊は女神になってしまう。

それは猿田彦尊の「猿」で説明ができると思います。

「猿」は「貝が大好物」との事です。そして猿田彦尊はアメノウズメ命に真珠をプレゼントしようとして、あこや貝に手を挟まれて溺死している。猿田彦尊は死んでいる。

アメノウズメ命は猿田彦尊と夫婦になった事から、「猿女(サルメ)」と呼ばれている。アメノウズメも猿なのである。

だったら志波彦神である阿須波神の妻神も志波彦神社に祀られてもおかしくないのでは。

実は志波彦神社に対し、二社の志波姫神社が存在しています。一社の祭神ま木花咲耶姫。もう一社の祭神はアメノウズメ命となります。

だとすると「木花咲耶姫=アメノウズメ命」なのか。

実は前出の元塩竃神社と言える鼻節神神社の祭神は猿田彦尊ではなく、木花咲耶姫だったことがあるのです。

この事例は今の時点では何とも言えませんが、アメノウズメ命も木花咲耶姫も瀬織津姫に被る女神です。カギは瀬織津姫が握っている感じがします。

それともう一つ。志波彦命が阿須波神であるなら、つの妻神の立場と考えられる波比岐神は塩竃のどこにいるのか。

波比岐神にも阿須波神同様、「波」の字が付く。津波をイメージする。

更には「岐」の字。岐神(クナト神)は黄泉の国から帰った伊弉諾尊の杖から産まれた。

波比岐神も「岐」の字から岐神の系統だと考えられる。そして猿田彦尊も岐神の系統。波比岐神も猿田彦尊とイメージが重なる。

塩竃はモレ一族を長とする蝦夷の土地。阿須波神が志波彦神であるなら、猿田彦尊であるなら、塩竃のどこかに波比岐神が祀られていてしかるべき。

実は波比岐神であると思われる女神が祀られている神社が塩竃神社の境外社として存在します。多賀城市の「荒脛巾(あらはばき)神社」です。

この荒脛巾神社の祭神は、塩土老翁(しおつちのおじ)と塩土老女です。私は「しおつちのろうじょ」では無く、「しおつちのおば」と呼ぶのだ思えます。

荒脛巾神社の祭神をこの二神に定めたのは、やはり伊達綱村の研究チームだと思えます。

蝦夷の信仰を集めていた荒脛巾神です。朝廷に蝦夷が支配され祭神の名が消された。或いは忘れ去られた。それで伊達綱村は塩竃神社同様、祭神を塩土老翁に定めた。その妻神として塩土老女を創造した。

「荒脛巾神(あらはばきかみ)」と「波比岐神(はひきかみ)」。発音が似ているでしょ。つまり、荒脛巾神社に祀られている塩土老女は波比岐神と考えられる。

以上の理由から私は、荒脛巾神社、そして志波彦神社、塩竃神社、そして鼻節神社、大根神社を含めて全て阿須波神・波比岐神の夫婦神を祀る鬼渡神社だと考えています。

今のところですけどね。


ではでは。












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塩竃の志波彦神が阿須波神であるとする理由。その5

2024年09月09日 16時36分59秒 | 神道
続きます。

えっー、長らく書いてきましたが、塩竃神社の伝承では主祭神・塩土老翁は猿田彦尊、若しくはその子孫の太田命であるとする説が残っています。権の根宜さんにも直に聞いています。

この猿田彦尊は志波彦神、そして阿須波神なのだろうか。

塩竃に隣接している花渕浜には、元塩竃神社とされる鼻節神社が鎮座してたいます。私が元塩竃神社としているのは、その地で猿田彦尊や仲哀天皇の子・忍熊皇子が塩を造っていたとの伝承・伝説が残っているからです。

そして鼻節神社から7キロ離れた松島湾内の海底には、藻塩の神事がなされている大根神社が鎮座している。

これは態々、海底に神社を建立した訳ではない。地震と津波、そして地盤沈下で大根神社が海中に沈んだ。つなり松島は地盤沈下で誕生したと言えます。

「鼻節」とは猿田彦命の「鼻」を指しているのは間違いないところでしょう。

そして大根神社の「大根」とは何か。それは男性器を指していると私は考えます。つまり猿田彦尊の長い鼻も男性器を暗示していると思えます。

私が住む東北地方では、男性器、女性器が御神体となっている神社が多く存在しますが、縄文時代からの信仰。日本最初の信仰は性器信仰と考えられます。

青森には日時計ではないかと考えられているストーンヘンジが有りますが、私から見たら性交を示していると思えます。

この性器信仰ですが、女性器は人間が持つ境界線です。

「性器信仰=境界線」。

猿田彦命は天孫降臨の道案内をした神ですが、旅立ちの神は境界線を越える神と言えます。猿田彦命は旅立ちの神、道祖神、境界線の神ですが、その源流は性器信仰にあると考えます。

阿須波神も旅立ちの神です。境界線の神。庭神です。その性格上、猿田彦命と重なります。私は阿須波神、そして志波彦神は猿田彦命と同神と考えて良いと思っています。

しかし、性器信仰であるなら、男神だけではなく、女神も存在している筈。

猿田彦命の妻神と言えばアメノウズメ命。アメノウズメ命は天孫降臨時、女性器や胸を露わにして猿田彦尊に対峙した。

天照大神が天岩戸に身を隠された時、胸や女性器を露わにして踊った。

アメノウズメ命は、女性器を象徴とする女神。猿田彦命とアメノウズメ命が夫婦になる事で、性器信仰を示していると考えます。


続く。
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塩竃の志波彦神が阿須波神だとする理由。その4

2024年09月08日 12時09分25秒 | 神道
続きます。

これまでの蝦夷討伐は田村麻呂の父・苅田麻呂らが征夷大将軍だった時、戦は蝦夷側が有利でした。

しかし、田村麻呂は兵士を専属とした。収穫期であっても戦を仕掛けた。しかも朝廷側の兵士を同じ蝦夷である熟蝦夷に命じた。蝦夷同士の戦いとなった。

それだけではない。以前の戦は兵士対兵士だったが、田村麻呂は女子供老人の差別なく殺させた。

ここまでの戦を仕掛けて来た田村麻呂。アテルイ・モレは仲間の為にも投降。
そして殺された。

「鹿島立」。阿須波神が旅立って行ったとされているが、正式には阿須波神を信仰している熟蝦夷達が、荒蝦夷との戦いに旅立ったと推測します。

そう考えると荒蝦夷の拠点とも言える塩竃に、阿須波神が祀られていたとしても不思議ではない。では、何故、阿須波神では無く、志波彦神と称していたのか。

それは「庭中の 阿須波の神に 小柴刺し・・・・」の歌で分かります。この歌からなのか、阿須波神は柴神と呼ばれている。

つまり「志波彦神」の「志波」は、「柴神」から来ているのではないか。「柴彦」が「志波彦神」に転じて行ったのではないのか。

阿須波神は「庭中の・・・」の歌から、庭神とも呼ばれている。庭は人に一番近い境界線。阿須波神は境界線の神でもある。

日本犬に柴犬がいるが、この柴犬は元々、死者の旅路に同行させられていた犬です。つまり「柴犬」は「死場犬」。死の世界に同行されられた犬。

だとしたら、柴神・阿須波神は人を死に誘う神。死と生の境界線の神と考えられる。

そう考えると阿須波神、志波彦神共に「波」の字が付くのも納得できる。

東日本大震災では、千葉県や茨城県の海岸線、そして宮城県の塩竃市にも津波が押し寄せた。古代でも何度となく津波が襲来していた。多くの人が地震や津波で亡くなって来た。だから阿須波神、志波彦神に「波」の字が宛てられたのではないのか。

縄文時代、千葉・茨城、そして仙台・多賀城・塩竃に多くの人が暮らしていた。地震・津波で多くの命が失われた。

それだけではない。死者をそのまま放置していたら痛いからペストが発生する。ペストは疱瘡。疱瘡は津波よりも人の命を奪った。日本人の半分の命を奪った時代もある。

故に阿須波神・志波彦神は、人々に一番恐れられた疱瘡神だと言える。


続く。





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塩竃の志波彦神が阿須波神であるとする理由。その3

2024年09月07日 14時32分15秒 | 神道
続きます。

鹿島神宮、香取神宮にはそれぞれ、要石なるものが存在しています。地震を引き起こす存在を、この要石で抑え込んでいるとされています。

因みに地震を起こすとしては鯰が有名ですが、この鯰を信仰する人々がいます。主に大工達です。

自身が起きる。合わせて津波も起きる。

「風が吹けば桶屋が儲かる」と言われますが、地震で家が崩壊したり、津波で家が流されたら大工が儲かる。だから鯰が御大臣みたいな恰好をして千両箱を肩で担ぎ、人々に小判を撒いている絵??が存在しています。大工達はその鯰を福の神として信仰しているのです。

鹿島には「鹿島立(かしまたつ)」と言う言葉が有ります。「旅立つ、門出」と言う意味です。っと言う事は「鹿島から旅立つ」事を表している。そして旅立ったその存在は「阿須波神」であるとの伝承が残っています。

香取、鹿島周辺と言える千葉県市原市には、阿須波神社が鎮座しています。祭神は当然、阿須波神。

「庭中の 阿須波の神に 小柴刺し 我は斎はむ 帰り来までに」と言う万葉集の防人の歌が残されていますが、現在の阿須波神社は以前、その歌を歌った者の屋敷で、愛する者が良き差に旅立つ。その無事を阿須波神に祈願している歌です。

その旅立った者とは朝廷に服従した蝦夷でしょう。そしてどこに旅立ったのか。

縄文時代、古墳や発掘物等々、考古学的に人口が集中していた場所は千葉県と茨城県の海側だと言いましたが、二番目に集中して住んでいた地域は宮城県の仙台市、多賀城市、塩竃市周辺とされています。三番目は青森県弘前市周辺となります。

この三か所には当然、蝦夷達が住んでいました。そして蝦夷達はその地を行き来していた。

桓武天皇の時代、朝廷は蝦夷の地の金や略奪を主なる目的に討伐を繰り返していたが、蝦夷の強い抵抗を受けいた。

そして中国系の武将、坂上田村麻呂が征夷大将軍に就任。田村麻呂は朝廷に服従した千葉県・茨城県の蝦夷を兵士として用いた。彼らは熟蝦夷と呼ばれた。

そして朝廷側に最後まで抵抗したアテルイ・モレらの蝦夷は荒蝦夷とされています。


続く。





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塩竃の志波彦神が阿須波神であるとする理由。その2

2024年09月06日 14時13分51秒 | 神道
続きです。

さて、「志波彦神が阿須波神である」と発言したのは、私ではありません。大日本地名辞書を編纂した吉田東伍です。明治大正時代の人です。

何故、志波彦神が阿須波神なのか。もしかしたら大日本地名辞書に記載されているかも知れませんが、私は確認していません。大変、高額な本なので。

っと言う事て、ここからは私の想像を申し上げます。

多分、吉田東伍は地名からそう結論付けたのだと推測しますが、私は蝦夷の信仰と因縁の鬼渡神の知識からお話しします。

先ず、志波彦神社に隣接している塩竃神社には、塩土老翁の他に鹿島神・建雷命と香取神・経津主が祀られています。共に天津神の武神です。

塩竃は蝦夷の地です。それなのに鹿島神・香取神の二大武神が塩竃神社に祀られている。

私、その理由は「怨霊には武神、仏教、乱暴者」の考えが流れていると考えます。

つまり、真の塩竃神は蝦夷の神である。敵の神は国津神であり怨霊である。

そう考えた朝廷側は自身の祖神である天津神の武神、鹿島神と香取神を配神として塩竃神社に祀った。

天津神最強の武神を二神も祀っている。それだけ本来の地主神である塩竃神は、朝廷側から恐れられていたと思われます。

話を縄文時代に変えます。

縄文時代は1万年続いたと言われていますが、考古学的に縄文時代で一番栄えた地域は北関東。今の千葉県と茨城県の海沿いです。圧倒的な古墳が発掘されています。勿論、蝦夷の土地です。

因みに茨城県の「茨城」は、蝦夷である佐伯氏の城から来ています。

そして蝦夷も自分達の神を信仰していた。その信仰の場所は鹿島神宮と香取神宮と考えて良いでしょう。

しかし、鹿島神・建雷命、香取神・経津主命は朝廷側の天津神である。これは有り得ません。蝦夷が朝廷側の武神を信仰する訳がない。

つまり、鹿島神宮、香取神宮の地主神は建雷命でも経津主命でもない。天津神最強の武神で調伏されている。

そして、その調伏された神は消された。人々の記憶から忘れ去られた。

その忘れ去られた神とは誰なのか。


続く。









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