風の吹くままに

昨年2月半に家内が胃癌で他界し間もなく一年が過ぎようとしています。
記憶の中にある思い出を書きしるしていきます。

記憶の中に(終章)

2009-04-14 20:02:06 | 胃癌
葬儀社に遺体搬送を依頼した後に
子供達に付添を言いつけて私は準備の為に
吹雪の中を家に向かった。

午前3時半頃だったろうか?車を車庫へ入れ
玄関へ向かう途中で力が抜け雪の上に膝と
手をついて思わず涙してしまったが手が冷たいとは感じなかった。
車の音を聞いて残って休んでいた弟が飛び出してきた。
肩を支えられて家の中へ入った。

仏壇の前には昨日葬儀を終えたばかりの母の遺骨や
お供え物が並ぶ中を布団を敷いて家内の亡骸の到着を待った。

病院では、準深夜や深夜当番の看護師さんや医師の方々が
大勢並んで見送りをして頂いたそうで、葬儀社の方が驚いておられた。

家に到着後、お線香をあげて息子を呼び一緒に葬儀社と打ち合わせをし
皆を休ませて、家内の側に着いていてあげ
午前6時を回ってお寺に枕経を頼む為に電話をしたが
住職もビックリして飛んで来られた。
そして、親戚にも電話をした。

駆けつけてきた人達は、
何て事なの貴方だけ何でそんな目に遭わなければ成らないのと
一様に涙してくれた。

その後、中々休む気にも成らなかったが
息子と仲の良い従兄弟に任せると夕方から
一休みさせてもらい2時間程休んだ。

お通夜の夜は吹雪いていたにも関わらず
多くの方には連続での参列となり、励ましの言葉を頂くなど
会場から溢れる程に参列頂きました。
その夜は、家内の妹二人も夜伽をしてくれた。

翌日の葬儀は雪も上がったが寒い日に成ったが
前夜にも増して大勢の方々に参列を頂き
火葬の時に息子が一時ショック状態で倒れそうに成ったが
無事に葬儀を終える事が出来た。

何が何やら解らないまま駆け抜けていった10日間
沢山の方々に支えられ励まされた10日間でも有った。
享年52歳、彼女の生きた生涯の半分を
私と一緒に生き、子供達を残して行ってくれた。
病気が見つかり手術をして、精神的にも肉体的にも
辛かっただろう2年余りの歳月の中で
夫婦としては、一番密度が高かった2年間でも
有ったのではないだろうか。

そして、後片付けや届け出の為と気持の整理の為
仕事も休ませて貰い、春分の日に少し早めだが
二人の四十九日の納骨と法事を済ませた。

一周忌も終え今は三人それぞれ自然に分担が決まり
静かに生活をしています。




記憶の中に(突然に)

2009-04-09 17:42:21 | 胃癌
その日は突然に遣って来た。

10日の朝、7時30分を廻った頃私の携帯が鳴った。
家に居る娘からだった。

ばあちゃんが、朝ご飯の時に誤飲をしたので
念の為救急車で病院へ連れて行くと連絡が有ったので私もそっちへ行くから。
と言って来た。

丁度午前8時をまわると救急の担当が
他の病院から家内の入院している病院に変わる時間だったらしく
院内の移動だけで様子を見に行く事が出来て良かったと思った。
家内は如何したのかと聞くので内容を聞かせてあげた。
そして、病室で救急車の音が聞こえて来るまで
待っていて、見に行って来るからと言い救急処置室へ向かった。

施設から付き添って来た顔見知りの看護師さんが私に状態を説明してくれた。
処置室にはストレッチャーで運ばれて来た
私の母がモゴモゴと少し微笑んで居る様な顔で私に話掛けて来た。
唯、難聴で認知症なので何を言っているのか
解らなかったが、手を握ってウンウンと返事をしてあげた。

そこへ医師が来てレントゲンを撮りますので
と移動しはじめ様とした時、突然呼吸が停止した。
急いで救急処置が始まったが回復せず
AEDなども使ったが、あっ気無く息を引き取った。
救急車で到着して1時間程の命だった。

まるで死期の迫った家内を先に逝かせる訳にはいかない
順番に自分が先に逝って待っていてあげる
とでも言う様な突然の最後だった。
近くに居た家内の担当医も一緒に処置を手伝ってくれたが唖然とした様子だった。
着替えをしてもらってる時に病室へ戻り母が亡くなった事を伝えると
私も連れて行って欲しいと言うのでナースセンターへ事情を説明すると
寝られる車いすを用意してくれてそれに乗せて母が居る救急へ向かった。
顔を見るなり、ゴメンネ、ゴメンネ最後の面度を見てあげられなくて、
と手を出して既に冷たく成った母の手を握って泣き続けた。

家内の母に連絡をして付き添ってもらい、私は葬儀の準備の為に家へ向かった。

長く施設に居たので、少しでも長く家に居させてあげようと
お通夜は、12日夜、葬儀は13日に決めその合間を縫って病院へ通った。

葬儀の日には病室で時間に合せて手を合わせて居たという。
葬儀の後片付けが終わり病室へ行くと元気が無く
心配しながら子供達と一緒に帰宅した。
その夜から雪が降り出して吹雪に成った12時少し前
何と無く嫌な予感がして起きだしたら
病院から、危篤だから直ぐに来るように
家内の母から電話が掛かり、子供たちを慌てて起こして
吹雪の中を病院へ向かった。
間も無く義妹夫婦も駆けつけた。

病室では、酸素吸入をされ、既に意識は無く
心臓の波動も弱く、色々声を掛けてみたりしたが
やせ細り、痛々しい腕に点滴をされながら14日午前2時20分息を引き取った。
まるで母の葬儀が終わるのを待って居たかの様な最後だった。
娘も息子も、おあかさん!と取りすがって泣いた。

遺体搬送をお願いする為に病院から葬儀社へ電話をすると、
昨日葬儀が終わったばかりだったので
何で夜中に電話して来たのか理解されず、
家内が亡くなったのでと説明をすると
電話の向こうで、葬儀社の方が絶句するのがわかった。



記憶の中に20

2009-04-06 17:10:10 | 胃癌
日に日に弱って行く体力を如何な風に感じているのか
私なら耐えられないだろうと思いながら
日々出来る限りの事をしてやるしかなかった。

殆ど寝た切りに近い状態で、床ずれが出来て
床ずれ防止シールを何箇所かに貼って貰っている。
1月も20日を過ぎた辺りから、掛け布団が重いと言いだした。
病院の布団は軽く出来ているのでこれ以上と言われて
自分のダウンの寝袋を使う事にした。
全部開いた状態で掛けてやると暫くして
とても暖かいよ。と嬉しそうな顔で言った。

ある朝、医師の巡回の後、そっと手まねきをされて
付いて行くと、
そろそろ逢わせたい人が居られたら
逢わせてあげてください。
と言われ、解りました、と返事をしたが
言われた言葉の重さをその一瞬、理解出来なかった。

その日、見舞に来た家内の末の妹を
談話室に呼んでその旨を話した。
ある程度の覚悟は出来ていたのだろうが
解りましたと泣きながら帰って行った。

そして連絡を受け県外へ行っている妹も
正月に帰れなかったからと二泊の予定で帰って来てくれ
二日半付き添って呉れた。

冬としては暖かい日が続いていたが家内の様態も不安なためと
家内の母を少し休ませようと2月の連休を含めて
有給を取って7日から11日まで私が付き添う事にし
何事も無く三日間が過ぎた。


記憶の中に19

2009-04-03 13:53:21 | 胃癌
正月の三が日が過ぎて
見舞客も減ったが、疲れ体力も消耗し
病気は更に進行したのだろう
歩いてたのが、歩かなくなり
悲しいかなトイレへは行けなく成って
おむつをするようになった。
ベッドで半身は起こせるので
歯磨きなどは、なるべく起こしてさせた。

朝、目覚めるとタオルを熱いお湯で温めて
顔を拭いてやり、何度も温めては身体や指先も拭いてやる
足の先が冷たく靴下だと足首のゴムで
締め付けられ痛いというので
山用のテントシューズ(羽毛)を履かせた。
これは、締め付けも殆ど無く
暖かく眠れると好評だった。

抗がん剤は入院した頃から止めていたので少しずつ
髪の毛が生えて来たが毛糸のぼうしを被っており
知人が代わりの色違いなどを作ってくれた。

食事は一日で健康な人の三分の一程度しか食べないが
それでも便の出が悪いので
二人掛かりでお尻からチューブを入れ
お腹をマッサージしながらガスと便を
押し出していたが何処にこんな水分と便の量が
有るのかと思うくらいに出たが
される側は、お腹は楽に成るようだが
見ていても体力の消耗は解り
終わると、ぐったりとして一時間程眠っていた。

記憶の中に18

2009-03-31 22:38:04 | 胃癌
この頃から緩和ケアーが始まって
24時間痛み止めを極少量点滴に近い状態で
打って痛みが激しい時にボタンを押して
増量する様に成っていた。

手を貸せば何とか歩いたりも出来て
歯磨きや洗顔も出来、気分が良いと
腕を支えて部屋の中を歩きたいとも言い
部屋から廊下までの間を何度か歩いた。

年末からは、見舞いに来る人に
逢いたいと言い出して
今まで、ナースセンターで断ってもらってた
お見舞いも部屋へ来てもらう事にしたが
正月などは一度に大勢が見舞に来てくれ
却って疲れて体力を消耗したように思えたが
本人が逢いたいと言うのを止める事も出来ず
好きなようにさせていた。

正月の三が日には子供たちも日中の時間は
部屋で一緒に過ごしてくれ
また、五月に結婚する予定の甥っ子も
婚約者を連れて見舞いに来てくれ
伯母ちゃんは、元気になってキット
結婚式に出席するからね!
と、言っていた。