フランスへの階段

変わったこと。昔は階段を一段ずつ登って行くイメージだったけど 今は一段ずつ降りて行きたい。

久しぶりに書いてみる

2023-05-03 17:53:04 | 日々感じたこと

最後に書いたのは、1、2年前か。

以前と心境も環境も変わっているので ブログを閉じようかなとも思ったけれど

その決心もつかぬまま戻ってきました。

 

昔の記事をちらっと見ると 気負って書いていた感じがします。

これから 書くとしたらもっと気負わずに書いていくだろうと思っています。

 

時代は 地の時代から風の時代へ。

その過渡期の過去数年間 いろんな手放しがあって 自分の中の整理があって

それにエネルギーが必要だったので 書く余力がなかったんだなって思います。

みなさんは いかがでしょうか。

 

今はちょっと一息ついてお茶が飲めるようになった気分。

 

といっても昨日は息子が朝 高校の門をくぐらずに逆走して私がスタントマンだったら

アクセルいっぱいに踏んで車をバックさせるようなシーンも未だにあって。

(高校の前の道は一通なんです)

走る息子とカーチェイスしたあと車を降りて、足で追いかけた。

 

1時間目の試験の勉強をしていなくて、どんどん視野が狭くネガティブになり全てが嫌になってしまう。彼の情緒不安定さは今に始まった事ではない。

 

でも今回は 数分後私に連絡してきて「2時間目からは授業に出るから」と伝えてきた。

私はそれで 満足。

前みたいに 警察が出てきて一日中気を揉まなくてもいいのだから。

 

一方 娘は昨年の9月から中学に進んだ。こちらは小学校はとても小規模で身近な雰囲気だけれど

中学校からは大人扱いで、授業も教科によって学校を渡り歩くスタイル。いきなりの休講もある。

そんな大人扱いされる環境が娘は気に入ったようで、小学校より楽しいそうだ。

場面緘黙は続いているが、仲良しの女の子とは小さい声で話しているし、発表なんかも

極細の声でこなしている。(聞こえないので教師が繰り返したりするのだが、それがとても嫌らしい。)

 

夫は2年の単身赴任から1年前に戻ってきた。その間停電やネット回線の問題など

自分で処理してたくましくなった。

 

ちょっと近況報告でした。

 

 

 

 

 


子育てふりかえり 娘編

2021-12-29 05:43:55 | 日々感じたこと

子育てふりかえってみます。今日は 娘。

 

5、6年前

娘が幼稚園の年長さんか、小学校に上がった頃 遠足に出かけたことがこのブログに書かれていました。

こちら後半にあいのあの遠足のことに触れてます。

その時はまだ、学校で食べたり飲んだりができずにいて

それを緩和するために、私が放課後学校に行って、教室を30分ほど貸してもらって

娘と(息子もたびたびいっしょに)時間を過ごすという活動をしていました。

教室で ただ 遊んだり、話したりするのです。

 

これはフランスで ある場面緘黙の子どもを持つ親が、考案した方法です。

放課後 親と一緒に学校内で過ごすことによって、学校が親身な安心できる場所になるという

理由からです。

 

幼稚園時代3年間と小学校1年生の合計4年間 そんな時間を持ちました。

その後は あまりこれといった効果がなかったからか、あいのあが そこまで学校で緊張しなくなったからか

私の都合のせいか やめてしまいました。

 

それでも 振り返ってみると、学校で飲食ができなかった娘が

今では おやつも給食も食べることができます。

 

人前で食べられるようになったきっかけは、誕生日会で出したケーキを

友達の前で食べることができた頃からでした。

 

こちらでは 発話や発音、読み書きに困難がある場合かかる オートフォニストという人がいるのですが

そこでも ぽつぽつと声が出せるようになってきました。2年前からです。

 

あいのあの場合、話す以前に まず口が開けられない、声が出ないという状況だったので(特定の場所では。家では普通にできる。ただし日本語。)

言葉や話す練習というのが できませんでした。

 

それで オートフォニストで通常する練習がずっとできずにいて

オートフォニスト1年目は まったく声が出せないで 終わりました。

夫の提案で、家に来てもらってセッションをするようになりました。その方が安心できるからです。

はじめ のどをしぼるように小さな声が出ただけでも 大きな進歩でした。

1年後 なんとか挨拶や 文を読んだりできるようになって、家ではなく通常の場所でのセッションに切り替えました。

 

娘も とても大変でした。

でも 学校での学習や(聞いたり、書いたり。話すことはまだほとんどしない。)友達とは問題なく過ぎていきました。

本人が話さなくても 友達が数人いて、学習態度やフランス語にもそこまで抵抗していなかったからです。

 

今 ずっと同じ二人の友達と お泊まりしたり ときどき家に呼び合ったりして友情を深めています。

フランス語は、フランス語が母国語の子たちに比べて 言葉が少ないのと 自分でなかなか文を作って発話できないという点が問題ですが 学校の勉強は だいたい要領良くこなしています。

一番楽なのは、あまり神経質じゃないので 忘れ物をしたり、宿題がまちがっていたりしても

気にしないところです。まちがいや失敗を気にしすぎず、そこが息子と違います。

 

娘も 来年 中学に入ったらアシスタントを頼もうと、申請を準備しているところです。無事 申請が通るといいと思います。

 

今年に入って、担任が新しい男の先生になりました。きびしくて デリカシーにも欠けるタイプのようで

女子からの人気が著しく低いですが、中学への準備としてはいいという保護者もいます。

こちらの小学校と中学校の間には、それは大きなギャップがあって、中学からは急に大人扱いになるのです。

宿題や時間割の管理(休講もある)、教室(大学のように移動する)そして先生と生徒の関係も変わるので

少しつきはなしたぐらいの先生だと、中学校に近くあとで適応しやすいという理由です。

 

あいのあも あいつ絶対結婚できない と言っているアンチですが

なぜか 最初から この担任には返事を返すことができていて(短い最小限の返事ではあるが)

それが 私を喜ばせました。

今までの 先生はあいのあに 腫れ物に触るような対応だったと思うのですが

この先生は(あいのあの場面緘黙を知っていても)どんどん あいのあを指名し ずけずけものをいい(ちょっと 声が小さくて聞こえないから だれか代わりに読んでくれ ← これにあいのあは とても怒っていた。いいぞ と私は内心思った。)

次のステージに行くには いい試練だと思うのです。

 

娘も 頑固なところがあるので。強いんです。

 

不思議なことは 決して恥ずかしがり屋ではないというところ。話せないと言うと 恥ずかしがり屋なんだと思われてしまうのですが、いやいやどうして。

ハロウィンの トリックorトリートは 一人でも取りに行きますからね。私を背後に残して。

仮装してお菓子をもらうのを 心待ちにしている子です。ただ真顔で、話さないだけで。

 

息子も 気持ちを表すことに抵抗がある幼少時でした。娘は 人前では今でもできる限り 表情をおさえます。

 

最近は 私に対して反発も感じるようで、もう手を繋ぐのもあまり歓迎されません。

反抗的な態度もあります。

 

成長しているってことですね。

顔写真は載せるなと言われたので 風景を代わりに。

 

 

 


子育てふりかえり 息子編

2021-12-14 19:22:12 | 日々感じたこと

12月に入りました。1年の最後の月ですね。

今日はそんな締めくくりの月のせいか、

いままでの子供の成長を振り返ってみたくなりました。

 

自分のブログに子育てカテゴリーがあると思ってましたが、なかったので「日々感じたこと」を選びました。

今まで いろいろ子育てのことは書いてきたので これは意外です。

たくさんの 悩みや迷いを書き綴ってきました。

書き散らしたまま 現在の様子を書いてないなと気づいたのも 今回振り返ろうと思い立った理由です。

 

日本✖︎スペインカップルが、フランスで子育てをする。

思った以上に 問題が山積みな14年間でした。

 

まずは現在の状況

 

息子は14歳 9月から中学校の最終学年です。

こだわりのある性格と、アイデンティティ100%日本人で、フランスの環境を全く無視していた小学校時代。無論フランス語、拙い。

今は一念発起してすごい頑張りを見せていますが、もともとのフランス語の下地がうすっぺらなので、中学の勉強について行くのはとても大変です。毎回のテストでは詰め込みで良い点が取れても、まとめの総合テストではかなり厳しいはずです。そしてそのテストが今年度末(6月)に行われるので非常にナーバスになっています。

そして今年の5月、息子を車で送っていた時。忘れもしない校門の前で友達と混じってしゃべっているのを見ました。

私の中で一番の記念日です。

こんな光景を見たのは、14年間育ててきて初めてでした。✨

 

娘は 場面緘黙で 10歳。こちらも小学校5年目の最終学年です。場面緘黙の子は集団生活の場で話せないので、フランス語もちろん使わない、なかなか身につかない。それでも 集団生活でおやつも給食も、水も飲めなかった幼稚園児が、今では学校で給食が食べられるようになりました。

女の子なので つるむ友達はいて、少々のコミュニケーションはしてるようです。息子に比べ小学校の勉強を卒なくこなしていますが、いかんせん言葉が足りないので中学に行ったら大変になるでしょう。ただ、要領の良さと諦めの良さ、パニクらない冷静さがあるので、息子より精神的に安定していてその点は心配していません。

 

では まず息子から行きますか。

 

思春期というのは、がらっとその人を変えてしまうすごいパワーがあるみたいです。

もともと反抗期気味だった息子は、そこは相変わらずでしたが

全く周りの目を気にせず、忠告も耳に入れないこどもだったのが

いきなり すごい人の目、社会の目を気にするようになりました。

 

これはとても面倒です。

(まったく人の話を聞かず勉強しないのも大変ではあったが。)

中学校1年目。学校の課題の指示が複雑ではっきり何をするか分からずパニくる日々。

もちろん学校の時間割や宿題が見られるサイトがあるんですが、大まかなことはわかっても肝心なことはわからないことが多く

家で荒れる。もちろん親はわからない。時間があれば、教師にメールを送ったり保護者仲間からなんとか聞けることもある。

彼は友達がいなかったので、そっちにも頼れない。

そして、これでいいんじゃないのかという推測でやればというんだけど

それが嫌なんですよね。

周りと違うのが嫌、浮くのが嫌、へんてこなことしていったら恥ずかしい

というわけで、勉強に取りかかるまでが 大変な中学の1年目でした。

 

そして 自分を客観的に見るようになったので

(他人の目に映る自分を想像するようになった。)

まったく 自分軸からぶれ もともとなかった自信をなくし

うまくできない自分が許せなくて はさみで自分を傷付けるようになったんです。

これは 授業中に発見されて、はさみを取り上げられ、先生たちと話し合いの場を持ち

これでは いけないと 授業中横についてサポートしてくれるアシスタントを頼むことにしました。

先生たちによると、息子はすごいストレスを感じていたようでした。

フランス語で自分を表現できないことと 言われたことがよく分からなくてできない。

そんな自分が許せなかったようです。

 

その頃 小学校の時から時々会っていた心理科の先生のすすめで 3、4人のグループで物作りをする

アクティビティを始めました。

心理科の先生には、学校で心を閉ざしていて 友達を作らない。フランス文化に興味を示さない、完璧主義で思い通りにできないと

ストレスがある、自分に自信がないなどという点について相談していました。

このアクティビティも2、3年続けていますが 最初はそこまで積極的に参加していませんでした。

ですが今年の2月、ある少年がグループに加わり

その子と気が合い(フランス人相手には初めてのこと)それ以来 がぜん彼の周りの人間関係が進展していきました。

息子の恩人の一人です。

 

中学校2年目にすぐアシスタントがつくかと思いきや、学年が変わるとまた話を最初から始める必要があったようで(がっくり)

手続き開始。1年後に申請が通ってアシスタントのセシールが付くようになります。

だから中学2年目は一人で奮闘し、撃沈し、調子も悪くなりやすく、学校を楽しんでいませんでした。

その頃はまだ 給食は一人で食べていました。

フランス語で話しかけられるのが怖くて 未知のフランス文化が怖くて

(フランス生まれで育ちなのにもかかわらず)

自分から距離をとっていたのだと思います。

この年はコロナが始まって3月から6月までまるまる学校が閉まりました。

息子曰く、これが天の助けだったと言います。

もう 自分は疲れ果てていて、学校でもお腹が痛いばかりだし、家で勉強が溜まったとしても自分のペースで過ごせたのが自分を癒してくれたのだそうです。

 

そして3年目。

アシスタントがつき、セシールとの関係は 初めはぎこちなかったようですが、信頼関係ができてきて助けを頼むようになり、彼のストレスが大幅に軽減されたようでした。

2学期から 平均点を上回るようになりました。時を同じくして、人間関係が発展し出して、5月のある日 息子が友達と群れているのを目撃するという忘れられない日を迎えました。

3学期も過ぎ 明日から夏休みだという最終日

学校から帰ってきた息子は少し残念そうに、1年の思い出を噛み締めている様子でした。やっと学校に楽しみを見つけた頃だったからね。

 

こうしてみると わずか半年前からです。本当に調子が良くなってきたのは。

4年目の今年。9月はとてもいい新学期のスタートを切れた(これも初めて)のですが

学年末にある中学生活まとめのテスト、ブルベというワードが盛んに行き交うようになり

それに対する心配とストレスで、人生の終わりみたいに落ち込んでいる期間もあります。

(ちょうど週末。口頭試験のテーマを決めるのが差し迫っていて。)

それでも また浮き上がって歩き始めています。

 

家に 世界が終わったオーラを纏っている人がいると やっぱり つらいです。

でも それを排除しちゃいけないんだと気づきました。

私だって そんな思春期があった。家族に八つ当たりして、理不尽な思いをいっぱい

両親にさせてきました。

 

そして先月、学校側と高校に行ってもアシスタントを頼むかどうか

について話し合いました。

高校に行くと アシスタントをつけている生徒はぐっと減るそうです。

(中学ではクラスに一人ぐらいはいる感じ。アルファベットを使う国ではディスレクシアの子が多いとか。)

それで 先生たちとイーニゴは、勉強面では頑張ってて上向きだし 高校では要らないかもねーという流れになっていた時

クラスから息子が呼ばれてきて

「来年のことなんだけど 高校行ってもアシスタントつけたい?」

と聞かれ

「はい つけたいです!」

と大きく頷いた息子。

 

という訳で来年度の申請を始めています。

今回も申請が通ることを祈って。

 

2019年の4月の写真

2020年の7月の写真

 

今年の写真は どこにいった。笑

 

 

 

 


悟った話

2021-10-06 22:56:51 | 日々感じたこと

ここで言う「悟った」とは、

長らく抑圧されていたものに 意識が向いてその存在に気がついた

という意味だと思ってください。

 

前々回の タピオカミルクティーの午後の記事の中で 

「どS集団」と、「はっと悟ったこと」について触れました。

 

一ヶ月過ぎて、あの時 悟ったと思った内容がなんだったか 正直曖昧になってますが。

それほど9月にはいろいろはっとすることが重なったのです。

総括的になってしまいますが、

何に気づいたかというと。

 

むかーしむかし 自分が自分にかけた 呪縛に です。

 

私がかなり幼いころ 

人生に漕ぎ出して恐る恐る辺りを見回しているころ

 

「自分は異質だ。この世界では隠れているべきだ。安全じゃない。」

また 

「この世界でうまく立ち回れない自分は ダメなやつだ。」

「この場所に合うように 自分を変えなければいけない。」

 

と本気で思っていたという事です。

つい最近まで それに気づけてませんでした。

または はるか昔に 忘れてしまっていました。

 

それは つまり強烈な自己否定です。

それを 心の奥底に ずっと隠し持っていた。

 

そして そんな思いは 自然と

 

ここで本気で生きる価値はない という上から目線の発想になっていき

社会にうまく適応しているように見える人たちを 軽蔑の眼差しで見ていたこと。

 

あるあるです。

劣等感と優越感は コインの裏表。

 

どうしても 勝ち負けを争うゲームやスポーツに夢中になれなかった

いつも どこか冷めていた

 

それは きっとうまくできないと怖がっていた自分の 精一杯の自己防衛だったこと。

 

大切なことにやっと気がついた私は 幼いころに自分にかけた呪縛を解き放つことにしました。

 

「世界は 安全で 自分はそのままでいて いいこと」

「周りに合わせて 彫刻のように自分を削るのは やめること」

「逆に この世界に来て 自分を表現しないのは意味がないこと」

 

 

かくれんぼで うまく隠れすぎて だれにも見つからなかった。

 

やっと その子を見つけ出したのは自分自身だった。

 

手を差し伸べて 「そこから出ておいで」

 

これから 手を繋いで いっしょに たくさんのことを 見ようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


8年ぶりに

2021-10-06 17:16:04 | 日々感じたこと

おはようございます。

 

今朝は8年ぶりに、朝の番組を見ました。

テレビ離れが長くて、最近は大統領がコロナ政策について発表があるという時ぐらいしか

テレビの前に来なかったんですよね。

あとはアメリカが撤退した時のアフガニスタンのニュースですかね。

 

なんとはなしに、今日はコーヒー飲みながらこの番組をつける気になりました。

 

ちなみに、下の画像を見るとその暗さから夕方のニュースだと思うでしょう。朝の6時半はまだ暗闇なのです。

番組はこちら。

Télématinという この朝の番組は、17年前に私がフランスへ来てからずっと続いている番組で

(フランスでは珍しいことではなく、他の番組も司会者は変わっても番組自体はほとんど変わりません。)

この夏からは、男女二組の司会者で土曜と日曜も含め毎日放送しているようです。

そして、このチャンネルはいわゆるNHKのような国が運営しているチャンネルです。

つまり国民的な番組と言えると思います。

 

進行は、日本のワイドショーと同じと言えるんでしょうか。

ほっこりする地方のニュースや話題に硬派なニュースも挟んで、天気予報や健康相談なども視聴者から募って

複数のキャスターたちが和やかに絡みながら進められます。

ゴシップ的な話題はなく、その場にいない著名人が話題にはならないので、そこはとても見やすい点です。

 

それで暫くぶりのテレビ番組を見て、

驚いたことがあったのでシェアします。

 

朝の番組らしく 軽く爽やかな雰囲気の中、ひとりのキャスターがネットで話題になっていると言って

持ってきた話題とは。

 

"5Gが人に与える影響"について。

 

まずネットの中で見つけた動画から紹介していて、

それは5G用のアンテナが建てられたことが

人々にバレないように木に偽装されているというものでした。

そこからそのキャスターが続けるには、5Gはコロナウィルスを運ぶ(活性化する?)ものであり

人を死に至らせる危険があるものだという内容。

 

けっこう とんがった内容ですよね。

 

その内容に対する他の出演者も反応の仕方がまた洗練されていた。

真剣に聞きながらも、その主張の肩を持つわけでもなくあくまで判断はしない。

ちょっと冗談を混ぜてうまく流す。

ディベートの場所ではないんですからね。朝の番組ですから。

その対応によって、硬い話題も上手く番組に馴染んでました。

 

表現の自由を重んじるフランスでは、

異なった意見が出てくることによる摩擦などを

どうやったら回避できるかという点でも経験値が高そうです。

 

そのために人との距離感が猫的なのかなと思ったりして。

一般的に、あまり根掘り葉掘り聞きません。

お迎えで会うほとんどの父兄たちとは、いつまでもお城のお堀は埋まりませんね。

でもそれはそれで、悪くないです。

 

5Gの危険性は一部の人たちに受け入れられているものの、ありがたがっている人が主流で

政府の政策意図や企業の利害なども絡んでくるだろうから、国民的な番組で

なおかつ 朝の和やかな番組内で取り上げるだろうか?

と新鮮な驚きを感じました。

 

その後の主要新聞紙の今日の記事の紹介では

聖職者達による児童虐待 

という紙面が取り上げられていて、

はっと目が覚めた気分でした。

 

こういう目の覚まし方もあるか。

 

しかも、さらっとふわっと軽やかに仕上げているところが粋です。

 

週に一回ぐらいはテレビを見ようかなっていう気になってきました。

 


クリスマスから大晦日の間

2020-12-31 05:06:36 | 日々感じたこと

みなさま こんばんは。

 

クリスマスから大晦日までの日々って

なんだかつかみどころがないと思いませんか。

 

いつも地に足がつかないまま流されているような気がします。

 

明日はもう大晦日ですが

今日は今までで一番 印象に残ったクリスマスをお話ししたいと思います。

 

子供の頃は、クリスマスと同時にお休みに入る感じで

近くの公民会で催されるクリスマス会なんかも、

毎年 雪が降るように空に向かって念を飛ばしていた幼い頃も

かけがいのない思い出ですが

一番と言えばやはり、20歳前後の大学生の頃

 

けっこう派手で煌びやかな時代でしたが

その年は、家族も忙しくて特に何も企画がなく

私もだれともなーんにも約束を取り付けておらず

 

まったくその他の日々と何ら変わりない一日を送ったことがあって

 

それが一番思い出深いクリスマスです。

 

24日のイブに普通に寝て、朝起きた時。

〜24日に向けて徐々に盛り上がっていき

それを過ぎると下降していく世界中人々の集合意識の曲線の

まったく蚊帳の外で目覚めるクリスマスの朝は(25日)

なんとも すがすがしいものでした。

 

「何にもしなくても クリスマスは過ぎるんだ。」

 

という気持ち。

 

昔 小学生の頃 理由もなく学校に行かないで 家にいたら

と想像すると

なんとも言えない妙な気分になったものでした。

それでも何事もなく 時間が過ぎるというのが うまく信じられなかったのと

似ている。

 

または 以前の同僚の話。

急に休む先生が出ちゃって、常勤の自分が代行することになって

準備なしで教壇に立った時。

準備なくても 授業 過ぎていくんじゃん。

というカルチャー(?)ショックを受けたと笑っていた。

 

それとも かぶる。

 

自分で分析するに、そのクリスマスは

人類の〜べきだという思い込みや集合意識を すこんと抜けた経験だと認識している。

 

ほんと 爽快だった。

今度いつできるかな。

今は 家族がいるからなかなか 手軽に抜けられない。

クリスマスの雰囲気や、キリストの本来の教えは私にはとても好ましいものなんですがね。

 

集合意識とは少し違うかもしれないけど

そういえば、大きな気づきが中三の冬にあった。

私は漫画大好きで、漫画を物差しに世界を測っていたんだけど

ある時、漫画の登場人物に規範を求めてそれに倣っている自分に気がついた。

外見や恋の仕方について。

これが見本でこんな風にならなきゃって。

結構長いこと思っていた。

いつも手本を探していたから。

そこで やっと違和感に気づいて思った。

リアルのはずの私が架空のものを真似るって

逆じゃないかと。

 

自分が主だろ と。

 

それから 私は急に創造的な人生を展開し出した

というわけには行かなかったが

大きな転機ではあったはず。

 

当時はね、「子供ばんど」のアルバムの曲を聴いていた。

メランコリックな曲だった。

北斗の拳が流行っていた頃だったんだな。

 

その曲を この気づきの感覚と同時に思い出します。

 

You are shocked!!

じゃないやつですからね。

*今確認したら

YOU wa shock!!だった。歌詞正しくは。いーね。笑

 

 

 

 


メリーメリー☆クリスマス

2020-12-25 20:13:29 | 日々感じたこと

12月25日です。

クリスマスですね。

先日の、水瓶座の時代瞑想は、クリティカルマスを達成して

今後の時代の変化の加速が約束されました。1、2ヶ月後に体感できるようになるとか。

詳細は追って連絡があるそうです。

 

昨日の朝、犬の散歩に行った際に撮った景色と、友人の家のクリスマスツリーが素敵だったのでご紹介。

昔の豊かな農家は、こうして自分の家にマリア様を祭る場所を作っていたようで

それこそ、あちこちにあります。この辺りは 元農家ばかりですから。

このおどろおどろしい祠も、今は中は空っぽですが、元々はマリア様が祀られていたようです。

キリスト像もあることはありますが、マリアが多いですね。

 

写真では、外は闇が落ちてくる前のきれいな紺ですが、おかしいな。実際にはグレーなんだけど。

フィルムマジック✨か。

それとも 私の目の問題??

 

家族4人で、なんでもない しかし平和で気の置けない

よいクリスマスを過ごしています。

 


野菜とフルーツの赤

2020-10-08 17:02:33 | 日々感じたこと

あわただしく日々が過ぎているのは

私だけではないと肌で感じます。

 

このビーツの力強い赤色。紅色というべきか。

鮮やかで目を奪われます。

 

なぜか、赤い色に惹かれるのは、今 地球の状況や惑星の配置のために

暴力的な衝動や緊張感が高まっているからかもしれません。

 

ちょっと痛々しくも毒々しいこの紅は

光が溢れていくこの時期の、消え去りつつある暗闇へのオマージュ。

かもな、なんて思いました。

私にとっては「夜に駆ける」のあの暗い世界観にハマっている人が多数いるのも

同じ理由じゃないかなと思ってます。

 

「夜に駆ける」は、ネットで募集した小説がその歌詞の原案になっているんですが

暗いじゃないですか。

 

世の中には2種類の人間がいるという。

生に対する欲動──「エロス」に支配される人間と、

死に対する欲動──「タナトス」に支配される人間。 

『タナトスの誘惑』星野舞夜より抜粋

 

という冒頭で始まる小説で、読んでみると歌詞はとてもそれに忠実にできているのが分かります。

「タナトスの誘惑」短くも興味深い小説です。こちら。

あるとき娘が見せてくれたんですよ。

上の部分↑ これ、お母さん 好きそうじゃない? と言いながら。

 

読み終えて

ふーん、でも死にたければ一人で死ねばいいじゃんねぇ と話しかけたら、

娘は真顔で

その子は死神なんだから。

それが死神の役割でしょ。

と言われました。

 

「夜に溶ける」こちら。

今、続編である 「夜に溶ける」という小説を見つけました。

数行だけ読んだら、死神という呼び名がまさにふさわしい設定。

 

どこまでも広がる夜空の下、

隣には、眠るように目を瞑った彼がいる。



これでもう、私の役目は終わり。

私は、「死にたい」というあなたの思いから生まれてきた、あなたの目にしか映らない幻想に過ぎない。

あなたを殺すこと、それが私の役目だった。

『夜に溶ける』星野舞夜より抜粋

私、どちらの小説も好きです。

だって、詩みたいに短いんです。早速読んでみよう。

この終わりゆく世界へのオマージュとして。

感謝を込めて。

(あっ 次にもっといいものが差変わるという意味です。)

 

最後に

いろいろどたばたが押し寄せるであろう

この特別な時期を出来る限り平和に過ごすために

明日の夜、22時9分に集団瞑想が行われます。

詳細はこちらです。

 

よろしければご一緒しましょう。

 

もう一つの赤。

今年は豊作です。

 

 

 


隙間とは感覚

2020-05-10 11:18:12 | 日々感じたこと

みなさま おはようございます。

前回の続き。

空き地とか隙間ということについてまだ書き足らない気持ちがあります。

この詩の中でもそのコンセプトがうまく表現されているので紹介します。

 

と思ったら、これは詩ではなくてその日のプラクティスでした。その名も、

:: Practice ~ The Revolution of Simplicity

シンプルさにおける革命

 

Throughout your day, when walking the dog,
taking a shower, making a cup of tea
or doing the dishes,
pause and pull your awareness back
from the thoughts about dinner,
tomorrow or next year; from the
fixation on the sensational
in the news, on social media
or your own personal soap opera,
and notice the soft, the quiet and mundane
right in front of you:
the texture of toothpaste in your mouth,
the smell of spring in the air,
the tiny sprout next to the wildflower,
the pace of the clouds moving.
Give yourself over
to the moments in between,
to the revolutionary act
in revering
simplicity.

 

一日の間、犬の散歩中や

シャワーを浴びている時、お茶を入れている時や

お皿をあたっている時

一旦止まって、あなたの意識を引き離してみてください

何から?

夕飯の献立や、明日のことや来年についての考え事

心を揺らすニュースや

メディアのゴシップ、個人の生活での人間関係から

その代わりに、目の前にある やわらかで 静かで 平凡な

本当のことに気づいてください

あなたの口の中の歯磨き粉の感触や

春の空気の匂い

野生の花のそばに芽吹く小さな生命

雲の流れるはやさ

それらの出来事に あなたを譲ってください。

シンプルに ただ感じることを敬う

その革命的な行為に。

Deep Bow,
Chameli, Dominique & the Awakening Women team

 

感覚を研ぎ澄ますという 革命的な行為

私がこのサドナ(と呼ばれています。ヨガ用語)が好きなのは

使われている言葉が上等だから。心と体に染み込みます。

 

これをいうと身も蓋もないけれど

隙間を作るとは、

感覚を研ぎ澄ませるということだと思っています。

そうすると頭の中の心配や考え事、いろんな声がやむ。

時々 猫が宙を凝視していたり

犬が風の匂いを嗅いでいるように。

 

そういえば、今朝とてもおもしろいサイトを見つけました。

人がここで(この地球で)生きる役割について書いていました。

今からそれについてひとつブログを書きます。

 


目を向けるもの

2020-04-19 16:51:24 | 日々感じたこと

clearing とか、spacious という言葉を聞いて何かしら惹きつけられる人は

スピリチュアルな読み物を読み慣れている人かもしれません。

 

clearing:空き地、何もない空間

spacious:空間的に広々とした、広い

 

"Becoming a Gaias Oracle"の今朝届いたメールで

Martha Postlethwaiteという人のClearingという詩が紹介されていました。

それはこんな詩。

 

Clearing

Do not try to serve
the whole world
or do anything grandiose.
Instead, create
a clearing
in the dense forest
of your life
and wait there
patiently,
until the song
that is yours alone to sing
falls into your open cupped hands
and you recognize and greet it.
Only then will you know
how to give yourself
to the world
so worthy of
rescue.

 

全世界に奉仕しようとか

何かすごいことをしようとは しないで。

 

代わりに

あなたの人生の鬱蒼とした森の中に

空き地を作って。

木々を切って何もない場所を。

そこで辛抱強く待ってください。

 

歌が、

あなただけが歌うはずの歌が

水をすくう時のように丸めた二つの掌に落ちてくるまで。

 

あなたはそれだと分かるでしょう。

それにあいさつするでしょう。

 

そうして初めてわかります。

どのようにあなたを役立てるかが。

それは世界にとってかけがえのない救い。

 

 

この詩を検索すると「森の中の空き地」にぴったりのイメージが出てくる。

 

私たちは人生の中で目を向けるべきものを蔑ろにしている

というコンセプトが

スピリチュアルにはある。

人生で重要だと思われている、雑事。心配事。関心ごと。

それらから 距離をとって干渉されない時間を空間を持つことが

気づきの一歩と言われる。

 

私の実体験でそれはほんとうだ。

数年前に太極拳を始めて、その動作とスピードの独特さのとりこになった。

何よりも、ゆっくりと体の所作だけにフォーカスしていると

自分が空っぽになった気がする。

 

それは何かに集中している時と同じで、その後はすがすがしさが残る。

 

考えても拉致のあかない悩みがある時にとくに有効。

 

作法を重んじる茶道も、同じような効果があるのかもしれない。

そういえば、茶室でお茶を飲んだ時も、同じような満ち足りた気持ちになったな。

何も考えないために、手順をうるさく決めてそれに集中する。

ちょっと言い方が悪いな。

もとい、日常は現れにくい神聖な何かを引き出すための儀式。

主人は流れに沿って美しい所作で客をもてなすのが流儀。

これが茶道!

はぁ〜 中学のころ茶道を習っていた私は、この手順を覚えるというのが大の苦手で

覚える必要あるか と思っていたため秋のお茶会でひどいことになった訳だが

そういう深い意図が隠れていたとは。

 

若かった。

でも、それでも茶道の持つ言いようのない力を感じていました。

 

この肉体は意識の神聖な寺院。

その肉体を使った動作。

家にいる時でも、慈しむように花に水をやったり、食器を拭いたり

単なる動作を大事にしたいです。