日刊ミヤガワ

作家・表現教育者宮川俊彦によるニッポン唯一、論評専門マガジン。

1月27日 バランス

2009年01月27日 | Weblog
日刊ミヤガワ1853号 2008 1.27

「バランス」

子どもたち聞いてみた。朝食ご飯と味噌汁を食しているところが多い。梅干があったり、海苔があったり。漬物があったりする。味噌汁も豆腐だのわかめだの麩だの、納豆汁などというのもある。
全員に聞いたわけではない。ほんの何十人かだ。しかし聞いた限りではなかなか健全というか、一頃から日本の食卓に回帰している印象を受けた。
てっきり食パンと牛乳とサラダとフルーツなどがまだ続いているのかしらんと思っていた。時期が来ればまた軌道修正ができる。生活現場に息づく縦糸は何かの契機があれば、いつでも修復するものだと少し感慨を持った。
魚は夜食べるのだそうだ。手間が掛かる。臭いも残る。納得できる。飽食の中でこそ選び取ることはできる。ハイカラで知的な母たちの顔を浮かべていた。そんな地味な食卓を描くようには見えないのだが、その落差が教養だと再確認できる。
何でも食べられる。食べてきたのだろう。しかし日常の食事はそうしたところに落ち着く。一時期あった家庭レストランの雰囲気は衰退している。外食文化も控えられている。これは不況が原因ではないようだ。人の健康についての成熟した認識があるのだろう。
摂取一辺倒のボクなどは学ばなくてはならないと思えた。日本の子たちもバランスを得てきたのだなと、バブル食の後20年間の推移を振り返った。
食は知性と教養だ。量でも質でも値段でもない。しかも家庭、個人に固有のものでもある。これは哲学なのだ。
自給率を五割に上げたいのだという。遅きに失しているがここでも当然の縦糸見えてきている。イベリコ豚である必要はない。農業への意識改革は今後必至だ。食べるものは自分たちで作るという文化を記憶しているボクらは、もっとその流れを促進しなくてはならないのだろう。これは買う文化に馴らされた身には新鮮な思い出になる。これはゆとりや心の幅なのだろう。閉ざして急進化してきた。
毎年パンパンのスケジュールときつい体調のなかで思い描く。週半分は山里の生活があっていい。それを毎年思っては、先送りしている。
木村かのんが、将来作家になったら長野の森の中で踏み物やガーデニングをしながら過ごすと作文を書いたのが、心に刺さる。それはきっと理想だったのだ。
その山里発の作文コンクールでもしたらいい。言葉興しはそんな山村僻地でせこそ大切なようにも思う。地理的底辺と東京のど真ん中。サンドイッチ作戦が今後は必要だろう。
どうせ燃え切って朽ちる生き方だ。もっともっと見据えなくてはならないものが多すぎる。
晴耕雨読とは確かに君子の指標だろう。体もだが自然に則した精神の在り方の原点と思える。それは飛躍しないと生きられないと子どものときから課してきたことへの回顧でもある。
語らなくてもよかったのだ。ただ静謐であってもよかった。語らないのは敗北ではない。語るべきものを持たぬことが敗北なのだ。
誰もいない山里に梅を植え、箱庭を描いている。愚かなことなのに、なくてはならぬことのように思っている。痴夢というべきか。
そんな牧歌がまだ頭の一角を示していることにバランスを感じる。それは見果てぬものであるほどいい。

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