日刊ミヤガワ

作家・表現教育者宮川俊彦によるニッポン唯一、論評専門マガジン。

1月22日 手紙

2009年01月22日 | Weblog
日刊ミヤガワ1848号 2008 1.22

「手紙」

「わかってるよ。あの手紙、届くわけはないさ。この広大なロシアのどこに住んで以下も明記していないのだから。これはね、これはボクのささやかな創作さ。オルガお嬢さんに教わったのは文字や文だけじゃない。二人でよく想像の世界に耽ったものさ。お嬢さんはあの品のない旦那の家に生まれて幸せではなかったさ。よく泣いていたもの。ボクが靴屋に行くことになったとき、羨ましいと上目遣いだった。涙を溜めてね。年上の感じはしなかった。支えないとならないような小ささを感じたんだ。そのときボクは知ったんだ。もう終わりだ。バイバイだよってね。子連れ奉公人の母は苦労したさ。無邪気に振舞うしかなかったんだ。幼子はそれが許されるからね。ちょっと賢くて、子どもっぽくで、笑える程度のポカをして見せたら、大人たちは距離を縮めるよ。そしていい子、面白い子、楽しい子、賢い子・・、そんな風に口端に上れば母は居心地がよくなったんだ。母の死・・。気疲れさ。もうクタクタだったんだ。二人だけの寝室で毎晩泣き通していたよ。ボクはよく背中を撫でてやった。ボクが早く一人前になってこんな家から救い出してあげるよと云い続けた。
微笑んで、まぁいい男になるわね、と消え入るような声で頭に手を置いた。お嬢さん。母は奴隷だったんだ。そうなる他にボクを抱えてどんな生き方があったんだろう。それはいずれはボクの宿命のようにも思えた。マカリッチの旦那のジョーク、そんなもの誰一人笑えなかった。心の中ではね。このロシアの冬のような冷たい心を隠して奉公人は、みんな夜はすすり泣いていたのさ。
靴屋に奉公して親方の厳しさ、兄弟子たちの嫌がらせ、そんなものなんともない。展望があるのだもの。5歳から技術を磨くんだよ。後10年もしたら店が持てる。精進して研究するさ。20年、30年、長くはない。まだ20代、30代の青年だもの。
ロシアはこれから大きく変化するよ。西洋化の勢いは止められない。靴は人と不可分だよ。だれも裸足では生きられない。ここは年半分は凍土だしね。
君は地主の娘。田舎のね。いずれ結婚して子を生んで、男たちの腕にしがみついて生きていく。マカリッチの旦那もいずれ死ぬ。君の後ろ盾はなくなるさ。幸せではなかったって?。その言葉をボクはどう聞いていたか君は知っているかな。ボクはあの言葉は君の一生を支配すると思った。なんというのかな。階級とか貧富とか持っているかどうかではなくて、生きる構えがね、感傷的過ぎるんだよ。
生きる世界など寸分も違わない。見えないだけお嬢さんは哀れだと思う。老婆になって何か悟るのかな。
手紙はいいものだ。届くものか。だから価値がある。読まれるのはマカリッチ家ではない。長いときを多くの人たちに読まれていくさ。痛快だよ。その人たちはボクを、そして君たちの屋敷の人々を、靴屋の人々をどう読むだろうね。
もう決定されてしまうんだよ。ボクは靴屋だよ。足元を固めていくんだよ。「救ってください」と書いた。でもね。もう救われているんだ。ボクはボクの靴を履いて生きている。君たちは踏みつけていると思っているけれど、足元を掬っているんだよ。人を動かしているのはボクさ。ボクたちさ。
神の御名もその信仰メカも使ったよ。世界に広がりやすいからね。それはボクの今後のストーリーには必要だ。君が教えてくれたノアの手法さ。
君たちに届く前に多数の人に届くんだ。傑作じゃないか。」

「届いているわよ。可哀想な人。マカリッチ家は貴方が思うより、ずっと有名なのよ。父は笑っていたわ。小賢しいとね。小才が利くから家を出したのよ。あの靴屋のスポーンサーは父よ。所詮貴方は掌の小指の先端で知恵を巡らせているだけ。世の中はね、撒く人と撒かれる人がいるのよ。本人は自分がやったと思い込むわ。それが活力の元だしね。貴方の文は見え見え。感傷が混ざり過ぎている。これは妄想の域ね。芝居はね、素朴なほどいいの。さりげなく引きずり込むのがいいの。作りが露骨過ぎね。まだ修行が足りないわ。肝心なことを教える前に、悟った顔をしていたものね。馬鹿な人。ほんの少し齧っただけで分かった気になる。ダメね、今のところ展望はない。自分が賢いと思う人ほど偏狭になり閉ざすのよ。そして慢心するの。誰が貴方なんか・・。まあいいわ。まだ5歳ですかものね。観察していて上げるわよ。・・父よりも私が貴方の運命は握っているのよ。」

マカリッチ家の暖炉の傍らに半分その火の照りを受けて安楽椅子に座るオルガは心地良い睡魔に襲われた。そのか細い手から落ちたユウコフの手紙を、犬たちがじゃれて奪い合い、ボロボロになっていた。美味しそうなスープの匂いが食堂の方が漂ってきている。

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