日刊ミヤガワ

作家・表現教育者宮川俊彦によるニッポン唯一、論評専門マガジン。

1月18日 写真ニュース

2009年01月18日 | Weblog
日刊ミヤガワ1844号 2008 1.18

「写真ニュース」

忘れていたがボクはサンケイの写真ニュースの顧問をしていた。そう云えばテレビ番組を持っていたときにも使っていた。
名刺にあれこれ書くのを止めてから、忘れていることが多い。この写真ニュースも30周年になるのだそうだ。競う気はないが、ボクよりは短い。毎週全国の学校などに写真でニュースを送っている。記事も一時書いたことも思い出した。
これについてちょっと考えていることがある。表現教育者としては、ただ写真報道を記事付きで制作するというのは何か物足りないと思うのだ。カメラマン君も一流だしケチをつけるのではない。逆にもって教材として活かすべきだと考えたみたいのだ。作文研では写真課題も使う。しかしそういう教材的観点からすれば、案外素朴なのだ。真面目なのはいいとしても一種芸術性が欲しくなる。
キャバの飢餓アフリカの子の写真などは、一回読解対象として徹底したが、まだ子たちに印象は残っている。開国明治の頃の写真もそうだ。
つまり写真読解講義を提起していけばいいという提言なのだ。現代だって様々にアングル、素材で撮れるものはある。別に切り張りをしたって構わない。極小も極大もあっていい。所詮は目の共有だが、目の主張でもある。文や絵画と同質の要素は含有されているし、それを読解していくことは肝要だ。目下の言語表現教育の再建・推進の流れもある。写真で伝えたる情報量は多大なものだ。記事を書くときに思ったが、観点視点を転換していけば、写真一枚で大量の原稿枚数になる。そういうことをもっとしていい。中学はじめ各入試などでも出題したらいい。
見たものしか信じない馬鹿はきっとうろたえることになる。それはまた写真家たちを育成していく土壌の醸成にも繋がる。
そういうことに向かっていったらいい。写真情報の定義を本来の広がり奥行きにしていくことだ。誰より撮影者は喜ぶ。
新聞を教育に活用する運動はいい。年末ボクも記念講演に招かれた。それも頭の中にある。読むことを「ここまで」と限定したらダメだ。しかしそれをしないと教育は成立していかないジレンマもある。新聞や写真や絵画や音楽などはそれを突破できる素材としてある。
「ここまで読解」と「どこまで読解」を並行していくことだ。それが次第に「浅薄さ」を是正する大道になる。
教育界は動きが鈍いし、呪縛もあるから、新聞社がそれを提案しながら、出張講義でもなんでもやつたらいい。積極果敢に子たちのまえに供していかないと、いずれは衰退するし、もつたいない。
ボクにはそれがまだ学校現場で活用されているとは思っていないのだ。まだ前哨戦の段階だろう。
日本の教育を考えたらそれが必要だ。しかし今の世間というのはそれより会社とか自分とかを優先させてまどろっこさが蔓延している。ビジネスモデルなどで満足している。これは愚策だ。展望はない。
真っ当な問題意識とアイデアをもった理念展開者が少なすぎるのが実態だ。どこでもそれはそうだが。そのために頭にくることもテーブルを引っくり返すこともしてきている。最近は大人しくなったが、その分思いは一層滾っている。
その目で送られてくる写真を見ていると、まだほのぼのしている。ドキッとするものがまだ少ない。毎小が最近メキメキ内容が充実しているように、子ども向けの新聞がもっと果敢で元気なくてはいけない。その意味では朝小はまだチンタラしている。先日も「わんぱく宣言」の記事でボクの名前の振り仮名が「みやがわひでお」になっている。石井英夫と間違えるなっていうところかな。しかし本紙夕刊では審査員は「宮川俊彦さんら」となっていたので少しは収まっているが。
写真読解講義の学校や教師を表彰することだ。光を与えて伸ばすことをしなくてはいけない。写真ニュースはまたまだこれから発酵し発光していい。そのうちに軽薄な文学が慌てて追いつこうとするかもしれない。

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