日刊ミヤガワ

作家・表現教育者宮川俊彦によるニッポン唯一、論評専門マガジン。

1月19日 カット

2009年01月19日 | Weblog
日刊ミヤガワ1845号 2008 1.19

「カット」

センター試験はなくていい。やるのなら大検と一体化させて、高卒程度認定試験でいい。しかも秋にしたらいい。何も一月にすることはない。寒い。
大学によってそのセンター結果の配分は違うのだろうが、あまり意義はない。横並び輪切りの子ばかり作ってもしょうがないだろう。そんな協調と同質の時代はもうそろそろ返上したらいい。
大人しい去勢されたような死んだ目をしたスカした「優等生」はいい。飽きた。マザコンの無臭の覇気のない、行儀だけがいいような連中はいくら量産したって、たいしたことはない。母親や女たちが喜ぶ程度のものだろう。
やるならもっと創意工夫を凝らすといい。今まで教育機関で学べなかったこと。高次の社会常識。日本と世界と自然の理解。人間探求。などもいい。喫緊の社会事象の解明などもいい。
それなら本チャン試験は論文や口頭試問でやれる。コンピューター判定のペーパーテストなどに頼ることはない。個々の大学の固有性や理念が一層鮮明になる。
それをしないとこのままだと浅い加工工場に終わる。本人や家族がよくても社会や国や世界レベルで考えたらマイナスだ。
転換は社会が変化してからでなく、社会の変化を促すために教育界が動かないといけない。馴れとダレが見えたらもう変え時た。
小中高の成績と活動記録がしっかりしていたらいい。偏差値の高い学校が本当に優秀な子を集めているかは疑問だと浅薄な母親以外は皆分かっている。資質素質可能性を見抜ける判定者がいたらいい。まともに学習したら12年、9年であっても相当の育成は出来る。16年かかってもこの程度なのかと憫然たる思いを持つ者は多いのだ。つまり真っ当な勉強をしていないし、させていない。
もったいないことだといつも唇を噛む。環境問題と同じことをしている。やはり意識なのだ。変革しないといけない。教育は先行して時代の転換を促す機能を果たさなくてはならない。
みんなが望んでいるからやる、というのはやはり違うのだなと思う。みんながこのままでいいというものをこそ変えていくことが求められるのだと思う。熾烈な現場だ。そこに先導者の具眼者の機能はある。いつも大衆路線を行こうとしたらきっと崩れる。それは扇動などの作用が必要になる。中枢内変革はこういう時代はやはり有効なのだと思えてくる。
床屋に行って髪をバッサリ切ってきた。切られながら思い出していた。米国の女性国務長官の登場の際、この人は優秀で才媛でと鳴り物入りだった。そしてどうだったのか。成果という評価で云うなら、米国の威信も信頼も失墜させている。ブッシュだけの責任ではない。現場中枢のこの人の責任も少なくはない。現実論でいながら此処彼処に机上論が覗いていた。米国的な素朴で表層的な人物評価・格付け論がこういうところに具現している。優秀さはそうそう具現するものではない。またひけらかせるものでもない。それを鵜呑みにするものでもない。国や世界の命運を担うだけの資質は、そういうと種類の優秀さとは異質・異次元のところにある。
今後大衆政治家と一線を画す本物の政治家は求められてくる。国民はそれを見抜く本物の先導・具眼者にならないとダメだ。
国民皆学の気風はこの国の良さだ。それは生涯教育の空間を作ることにある。「ゆとり」とは心の言語。一生学んでいる人たちの志を更に評価していい。短期で優劣をつけることに決定項を与えるべくではなかろう。自分の首を絞める国民性だ。
とはいえだ。教え子諸君の健闘は祈念しているのだが。今年は少し突っ込んで試験問題を分析してみようかと思った。

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