日韓往来 [Journal Korea]

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「現在──過去・未来」

インタビュー、朝鮮日報

2015-08-11 11:33:40 | ACTIVITY

韓国の日刊紙・朝鮮日報記事引用

朝鮮日報記事:
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/08/08/2015080800396.html

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記事入力 : 2015/08/08 06:43

慰安婦問題に青春をささげた日本人、臼杵敬子氏に聞く(上)
慰安婦問題解決のために日本で闘い続けて25年

「慰安婦の補償問題が解決したら、私の青春を補償してと言いたい」
「国民が反省しなければ政府は反省しない」

 大勢の人でごった返す日本の高松空港で、記者は一目で臼杵敬子氏(67)を探し当てた。一度も会ったことがなかったが、見た瞬間「あの人だ」と感じた。臼杵氏は古びたキャップをかぶり、水色のシャツにズボンといういでたちで、ゴム製のサンダルを履いていた。

 「たまたま飛び込んでから25年の月日が流れました。こんなに長くなるとは思いませんでしたよ。『慰安婦補償問題』が解決したら、おばあさんたちに『私の青春を補償してください』と言おうと思います(笑)」

 臼杵氏は日本の戦後責任をハッキリさせる会「ハッキリ会」を立ち上げた人物だ。日本の東京地方裁判所で13年間続いたアジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求裁判を支援したほか、旧日本軍慰安婦問題の解決に向けて日本国内で体を張って闘ってきた。

 「韓国の遺族はほとんどが田舎のお年寄りだったんですよね。成田空港に着いて、市内に向かうバスを待つ間、地べたに座ってイカを食べながら焼酒(ソジュ・韓国式焼酎)を飲んでいましたから(笑)。会のメンバーたちが旗を持って『こちらですよ、あちらですよ』と言いながら軍隊のように引率しました」

-互いに文化や感覚が違うので、日本人にとってはあまり理解できないでしょうね。

 「私たちは遺族会に『警備の問題があるので、できればあまり大人数では来ないでほしい』と伝えたんです。ところが韓国側は皆『私が行かないと解決しない』と言って、一度に50人もやって来ました。このころは、JAL(日本航空)の航空運賃が安かったんです。それで、JALに乗ってくると言うのでその時間に待っていたら『日本と争わなければならないのに、なぜ日本の飛行機に乗る必要があるのか。KAL(大韓航空)に変えた』と電話が来たんですよ(笑)。頭が痛くなりましたが面白かったですね」

崔普植(チェ・ボシク)記者 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

慰安婦問題に青春をささげた日本人、臼杵敬子氏に聞く(中)
慰安婦問題解決のために日本で闘い続けて25年

「慰安婦の補償問題が解決したら、私の青春を補償してと言いたい」

「国民が反省しなければ政府は反省しない」

 臼杵氏によって、元慰安婦の女性たちの存在が日本のテレビ番組に初めて紹介された。ペ・エジャさんは1988年にこの世を去った。

 「社会的に、支援団体がなかった時代でした。私が個人的にいくらか支援した程度でした。ペさんが生きていたら、金学順(キム・ハクスン)さん(1994年に東京地裁で旧日本軍慰安婦の存在事実を初めて証言。97年死去)より早く名乗り出た『元慰安婦第1号』になっていたでしょう」

 臼杵氏は90年、日本の新聞に「(韓国の)太平洋戦争犠牲者遺族会が日本の厚生省を訪れ、韓国人の軍人・軍属名簿を要求した」という1段だけの記事を読み、韓国にも遺族会があったのだと驚いた。同年6月ごろ別の用事でソウルを訪れていたところ、日本のあるテレビ局から『遺族会が釜山からソウルまで徒歩行進をしているので取材してほしい』と連絡が来たという。臼杵氏は歩いてソウルを目指している遺族たちに会うために忠清道に向かった。行ってみると、歩いていたのは3人だけだった。

 「日本のテレビが取材すると言ったところ、翌日には数百人になりました(笑)。インタビューしてみると『私の父が連れていかれたのだが、どうなったのか生死が分からない』『いまだに探し出せていない』『補償金は一銭ももらえなかった』などと言うのです。生死の確認は戦後処理の基本じゃないですか。戦争が終わって随分たつのに、死んでいるのか生きているのかも分からない。1965年の韓日請求権協定(日本側の呼称:日韓請求権並びに経済協力協定)によって賠償問題が全て終わったと(日本側は)言っているのに、(行進に参加した韓国人から)どうしてそんな言葉が出てくるのか、ショックを受けましたよ」

-当時、このことを確実にやらなかった韓国政府に問題があったということですよね。

「日本政府の方により問題がありました。全ての名簿を持っているくせに、厚生省の倉庫にしまい込んで90年代まで公開しなかったのですから。歴史的に日本の戦争のせいで犠牲になったのに、そのときまで生死の確認もしてやらないなんて、本当に良心がないということですよね」

記事入力 : 2015/08/08 06:49
慰安婦問題に青春をささげた日本人、臼杵敬子氏に聞く(下)

慰安婦問題解決のために日本で闘い続けて25年

「慰安婦の補償問題が解決したら、私の青春を補償してと言いたい」

「国民が反省しなければ政府は反省しない」

-その裁判では敗訴しましたよね? 確か1992年から2004年まで続いたと思いますが。

 「韓日協定で政府間の補償が終わっていたわけだから、最初から勝てるとは思っていませんでした。裁判の期間中、私たちは戦後処理補償について、日本の政界へのロビー活動を通じ、社会への周知を進めました。その過程で日本政府が太平洋戦争の犠牲者名簿を公開することを明らかにし、元慰安婦の女性への補償を目的とした『アジア女性基金(女性のためのアジア平和国民基金)』も設立されたんです」

-「アジア女性基金」を通じた補償は「日本政府が法的責任を回避するための逃げ道」とも言われましたよね?

 「日本政府は、直接おばあさんたちには一円も補償金を支払えないという立場でした。当時、私は国会前で15日間デモを行いました。結局、政府は元慰安婦の医療・福祉の支援事業費という名目で『アジア女性基金』に300億円を拠出したのです。国民の寄付金200億円よりも多い金額でした。事実上、政府のお金が元慰安婦の補償金に使われたようなものです。当時の橋本龍太郎首相も募金し、補償金を受け取ったおばあさんたちにおわびの手紙を渡しました」

*注・追記 300億円、200億円は各「万円」

-日本政府は「軍の慰安所は民間業者が商業的に運営していたもの」という立場ですよね。だから法的責任は負えないと。

 「仮に民間業者を通じて(慰安婦を)募集していたとしても、利用者は日本の軍隊でした。日本政府と国民の責任は免れないのです」

-それなら、日本政府が「アジア女性基金」を設立したことについてはどうお考えですか?

 「生きている日本の高齢者の中には、戦争に参戦し、慰安婦と関係のある方々がいます。『私の父や祖父がどんな悪いことをしたというのか』と言っている国民も、こうした事実を知って反省すべきということです。国民一人一人が反省しなければ、政府は反省しません。だから私は募金に賛成したんです。日本の良心的知識人として知られる和田春樹・東京大名誉教授もアジア女性基金の委員でした」

崔普植(チェ・ボシク)記者 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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