lien

日々触れる情報から様々なことを考え、その共有・一般化を図る

学問にも表現にも近道なし~自ブログ1周年によせて

2006-04-03 22:14:06 | プライベート
さて、2006年4月3日、このブログ『lien』も漸く1周年を迎えた。(なのでエントリー日付は4/3分に変更してあります)

昨年の11月頃からは更新頻度がかなり下がったが(ついでに今後も色々忙しいので更に更新頻度が下がることも確実にありそうだが)、まずは、ここを継続的に読んで下さっている方々には心よりお礼を申し上げたい。
相変わらずTBやコメントを頂ける機会は多くはないが、平均の閲覧数は当初に比べれば微増しており少なくとも減ったりゼロになったりはしていないので、その点ではモチベーションの維持はまだできている。有難いことである。

もっとも、書く技術は1年経ってまるで向上していないし、書く内容もちっとはまともになったのかと言えば殆ど何も変わっていない。
書籍や他のブログを読む量は、ブログを始めてから確実に増えたことは増えたが、それを文章に反映させられるほどにはまだ私の知識量や技量は向上していない。反映させられるような「学」は一朝一夕には身に付くものではなく、インプットもアウプットもやり続けるしかない。
『There is no royal road to learning.』(学問に近道なし)であり、『断機の戒め』(学問を途中で止めてはならない(という戒め))である。


・・なんてカッコつけて決意表明をしているものの、「ツラい」ことも又確かである。ブログを始めてから、書き続ければ書き続けるだけ、自分の浅学さが身に沁みる。
私はブログスフィアに数多あるブログの、アルファブロガーのエントリーでさえ当然全てチェックできている訳ではないが、それでも、彼らのエントリーを読む度に劣等感も情けなさも感じている。で、そのエントリー=言葉に表現されているものの裏にある知識や経験などの「差」がどれくらい絶望的にあるかは、曲がりなりにも同じ「書き手」として分かる。

その「差」は、人の書いたものをただ読んでいるだけでは分からない。経験してみなくちゃ分からないなんてことは何事においてもそうなのだが、特に「表現物-表現者」の関係においてはそれが際立って言えることである。

加えて、ブログの場合はツールの性質上「継続性」が不可避なゆえに、実は敷居は更に高いものでもある。プロというものにも「高い次元での質の維持継続」が求められるが、低い次元でも、書き"続ける"のはやはり大変である。
アルファブロガーの方は、多少更新に長い間を空けても、質の高さは既に担保されているから休止後もすぐに読者は戻ってきてくれる。私のような弱小ブロガーはそうはいかない。モチベーションが上がらないとかネタがないとか忙しいとかでも、なるべくエントリーを欠かさないように上げて、その中で稀にマシなものができて読者の方々に注目して頂けるのを待つしかない。

実際に今の私は書く気が起きない・自分の力量で書けるネタが見つからない・書く時間がないなんてことはザラにあるから、アルファブロガーの方々との「差」を感じている以上にこっちの方がツラかったりもする。


ただ、更新頻度を下げながらもとりあえず続かせているのは何故かと言えば、私がこのブログを通じてやりたいことが"ある"からに他ならない。

私のブログの副題には「日々触れる情報から様々なことを考え、その共有・一般化を図る 」と書いてあるが、まぁ正直なところ、私の考えを他者=読者の方々と共有し一般化させるってことまでは余り念頭にない。一般化させられるほど真っ当な、裏付けも論理もしっかりしていて読者を「説得」できるようなことは今の私には述べることができないからだ。

しかし、幸い(?)なことに、自分で言うのも何だが私は少々「変」である。
普段の行動が奇異であるとか天然が入っていて不思議ちゃんキャラであるとかではないのだが、妙な拘りやポリシーがあったりどうでもいいことまで考えたり一般的とは言いづらい面は持っている。

そもそも、私は普段は奇異どころかまるで目立たない。初対面で会う人からは、大抵「おとなしそう・マジメそう」との評を受けることが多い。それには、私の生来的な性質に起因している部分もあるけれど、それ以上に、「ヘタに目立ちたくない」から意図的にそう見せている=フツーを装っているってこともあるのだ。
(こんなことをカミングアウトするべき局面ではないが(苦笑))

「変」で、「変」だからこそ、そう「変」をおおっぴらに露出していては面倒なことが増えるだけなので普段は隠している、ってことだ。

そういう「変」を私は持っているから、ブログという表現の場においても、テーマの選び方やものの見方考え方などにおいて、時にそれが表出することがある。

何の理解・共感も得られないような表現物に存在意義・価値があるのかどうかは微妙なところではあるが、一応私も日本語として読むことができない文章を書いている訳ではなく中身が変なこともあるってことだから、存在意義はないではない。


その「変」な文章に存在意義があるとするなら、読者の方々に「こういう妙なことを考える・こういう妙な考え方をする」人間が世の中にいるんだなという認識を持ってもらえるってことで、実は人間にとってその認識はとても重要なものだと思うのだ。

というのも、自分の意識や認識や思考のディテールは自分にしか把握できないからだ。これは何を意味するか。

それらのディテールが、外に向けて、言葉や周辺言語などの媒介を通して「完璧に」表現されることはまずない。あったとしても、受け手に、完璧に表現されたそれらのディテールがそのままの形で伝わっているってこともまず有り得ない。

コミュニケーションはキャッチボールで、表現(=反応・応答)の応酬でもある。一対一でコミュニケーションが行われている間は、常に送り手と受け手の立場が交互に入れ替わりながら表現の応酬がなされる。
にも関わらず、一回のボールのやりとりだけでも、今言ったように完璧にはまずなされない(お互いの社会的立場やイベントが限定されている場でなければ)。どう理解しているのか、どれだけそれが表現されているのかなどのディテールも、結局おのおの当人にしか分からない。

つまり、極端なことを言えば、私達の頭の中には常に「正解」しかない。
ここでの「正解」というのは、例えば何かを言われて納得するにしても渋々了解するにしても拒絶反発するにしても無視するにしても、受け手の頭の中の処理でfalseは返されないという意味だ。
falseが返される時は、基本的には頭の中に入力された情報が処理できない、言葉なら「意味が分からない」と混乱している状態しかない。「意味が分かる」こと、その処理そのものがtrueであって、たとえその言葉の内容が偽であると指摘されても、或いはたとえ「いやちょっと待てよ」と自分の中で勝手に思っても、偽であると理解したりブレーキをかけたりする処理も又trueである。


ごちゃごちゃと毎度毎度分かるような分からないようなことを述べているが、要は、「一人で黙りこくって文章を読む」のは、度が過ぎれば危険な行為にもなり得るってことだ。

なにせ、他者とコミュニケーションをしていてさえも、自分の脳の檻からは抜けられないのである。一人で文章ばかり読んでいれば尚更、感覚としても「他者の存在」は抜け落ちてしまいがちになる。
だから、最低限、「自分と違うことを考える他者がいる」"事実"・"現実"を常に皮膚感覚として持っておくことは必要で、そこに「変」な文章の存在意義もある。

私も一人で黙りこくって文章ばかり読んでいるのだが、その皮膚感覚だけは忘れないよう頭の中で警告を鳴らし続けている。「自分」を疑わないのは至極容易だが、疑うのは面倒で大変な作業だ。
でも、それをしていないと、特に今の情報化社会、人は簡単に「王様」になってしまう。そんな知性じゃ、平和な世の中にはなり得ないだろう。


私が臆面もなくしょうもない文章を書き続けているのは、主にそういう理由からである。
「私」も表現しきれてないし、「あなた」の頭の中の処理にも「私」は何もすることができないが、例えば「私」という他者が「あなた」以外にもいる事実現実を「あなた」が刻み込んでくれたなら、それは私の本懐(ブログを通じてやりたいこと)と言ってもいいのである。

だからってただ書いていればよい、内容なんてどうでもいいってことにはならない=知識経験のインプットも怠れないので、やっぱりブログ続けるのも「大変」だ(苦笑)


4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (くがーと)
2006-04-05 20:25:47
ますます前述の飯田さんお「クリプキ」をお薦め

したくなりました。ただクリプキが言っているのは

よく言われるような自分の真意が伝わりにくいという

ようなレベルではなく、自分がどういうルールに

従って発言行為しているかは決定不能である、

というもので、そんなことを考えるのは哲学者だけでしょう。いわゆる思想家と言われる人は、そういう

基本的なコミュニケイションができることは自明の

こととして、自分の思想的立場をうまく伝達できるのかに悩むのですが、哲学者は、それ以前に「3+3」

で自分が何を意味してるのかということまで吟味

しようとするのですから、思想家と言われる人からは

暇人と思われるようです。ちなみにここでいう思想家

とは丸山真男氏や福沢諭吉先生のような人で

哲学者とはバートランド・ラッセルのような人です。

哲学者の永井均氏はかつて学生運動に従事していた

全共闘世代の人たちは思想家で、社会を良くしようと

考えていたが自分はそんなことに関心は無く

世界とは、自分とは何かが最大の関心であり、

社会を良くしようとは思わないと語っています。

思想・哲学と同類の様に語られますが、実はかなり

異質なのですね。ラッセルは「現在のフランス王

は禿である」という文について、現在、フランスに

国王は存在しない、ゆえに現在のフランス王

(英語や仏語で表現すると定冠詞付きの特定の物を

指示する準固有名詞ということになる)という表現は

指示する対象を持たない、つまり無意味な表現となる、すると主語に無意味な表現が入るのだから

文全体が無意味となる、しかし誰も上記の文が

無意味とは思わない、ということは「現在のフランス王」という表現の指示する対象は存在する、と言わねばならない、つまり「現在のフランス王」は存在して

かつ存在しない、というパラドックスが生じる、

これをどう解決するか、と考えるのですが、

いわゆる思想家はそんなことは考えないわけです。

哲学者と思想家のちがい、けっこう話題になる

面白いテーマであります。
返信する
変人かにゃ? (るか)
2006-04-10 00:59:02
neo108さんファイト~♪

改めまして、

一周年おめでとうございます!





おやすみなさい…ぐぅ。

返信する
お久しぶりです (るか)
2007-04-07 00:57:42
更新止まっていらっしゃるようですが、
neo108さん、元気ですか?
美味しいもの食べてますか~?(笑)

4月3日過ぎてしまいましたが、
lien2周年おめでとうございます

また暇が出来たら遊んでくださいね~
では
返信する
一応生きてます (管理人)
2007-04-15 04:01:36
あぁ、お久しぶりっす~!!(嬉)
るかさんのブログは、定期的に見てはいるのですが、るかさん側のご事情のため何もアプローチすることができず(笑)

更新ね~見事に止まってますね~・・何度か再開しかけたことはあったんですが、週1度程度でも更新続ける目処が立たなかったんで結局止まったままで・・・

一応、ここではなく「書く」活動はそこそこしてんですね。各種掲示板・レビュー投稿サイト・mixiなどで。ここでやってたことも、3割程度はmixiの日記の方で書いてしまっていて(笑)

にしても、2周年って、言われて気付きました(苦笑)<マジで
本当に、わざわざコメント下さり、有難うございます。

るかさん側のご事情の方もクリアされる日を楽しみにしてます。


p.s.
ラーメンは相変わらずかなり食ってます(笑)かなりと言っても3日に1度ペースですけど
返信する