猫面冠者Ⅱ

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柔よく“米”を制す:山村力人投手=東洋大野球部の歴史-人物⑩

2009-02-25 11:45:00 | インポート
以前作成した記事 “JAPAN”:国際大会代表選手一覧 をご覧頂くと分かるように、東洋大には時折高校時代に“JAPAN”のユニフォームを着た経験を持つ選手が入学してくる。現在在学している選手では乾真大投手と林崎遼選手の東洋大姫路コンビがそうだ。乾投手は大学でも一年生ながら世界大学野球選手権の代表にも選ばれており、今年は日本で開催される日米大学野球での活躍も期待される。

東洋大学から日米大学野球の代表に初めて選ばれたのは昭和52年の第六回大会の松沼雅之投手と山村力人投手だが、乾投手と同じ小柄な左腕、山村投手は広島商時代にも高校JAPANに選ばれている。

山村投手は昭和50年夏の甲子園に出場。さほど前評判は高くなかった広島商をベスト4に導いた立役者。準決勝では優勝した習志野高に0-4で敗れたが、カリフォルニアとハワイで行われた日米親善高校野球の代表に選ばれた。

昭和50年全日本高校選抜メンバー
監督石井 好博習志野
投手小川 淳司習志野3年
村上 博昭新居浜商3年
山村 力人広島商3年
今岡 均中京商2年
青山 久人国 府3年
捕手続木 敏之新居浜商2年
中村 昭上 尾3年
内野手塚原 修上 尾2年
福田 弘俊習志野3年
大麻 祐一新居浜商2年
原   辰徳東海大相模2年
豊平 晋一中京商3年
下山田 清習志野2年
河田 啓吾九州学院3年
外野手津末 英明東海大相模2年
猪口 明宏天 理3年
玉川 寿土 佐2年



カリフォルニアでの試合は日系人チームによるトーナメント大会で、対戦する相手の平均年齢は二十三歳。当時の朝日新聞記事によれば、「実力は日本の社会人野球のBクラス程度」だったそうだ。また、同記事では代表チームの石井監督(習志野高)の「下手投げの青山(国府)とブレーキの鋭いカーブを投げる左腕山村(広島商)軸にする」と云うコメントも紹介されている。

8月27日:全日本選抜チーム壮行試合:於・大阪球場
全日本選抜000 201 600  9
全大阪選抜200 001 000  3
(日)青山6・山村2・今岡1
*原辰徳や甲子園のサイクル男玉川らが出場したこの壮行試合には一万八千人の観衆を集めたそうだ。

昭和50年:第三回中央カリフォルニア日系人招待野球(於・米国加州フレスノ市)

8月30日:一回戦
全日本高校選抜010 012 001  7
レネゲイズ000 001 000  1
(日)青山

8月31日:準決勝
全日本高校選抜001 232 003  11
ジャイアンツ000 003 000  3
(日)小川(習志野)

9月1日:決勝
全日本高校選抜001 100 010 2  5
ヤマサ・レイカーズ000 020 001 0  3
(日)山村8 1/3・青山1 2/3
好投手と言われた山村は、かなりいい球を投げていた。だが得意のドロップは高めと判定され、苦しいピッチングの連続。口の中が乾くのか、盛んにつばをのみ込み、表情も緊張感で青白い。「代えどきが難しい」とつぶやいていた石井監督は、五回同点にされて苦悩の表情。ついに九回一死二、三塁の一打逆転機に陥ったところでふんぎりをつけ、準備していた青山をつぎ込んだ。(『朝日新聞』昭和五十年九月三日付)


優勝した日本チームはハワイに移動し、親善試合を行った。

9月4日
全日本高校選抜000 001 300 0  4
マウイ・オールスターズ220 000 000 1  5
(日)今岡1・山村4・青山4 2/3

9月7日
全日本高校選抜000 123 0142  22
ヒロ選抜000 310 0 00   4
(日)山村3 2/3・青山4 1/3・今岡1

9月9日
全日本高校選抜000 001 000  1
ホノルル高校選抜000 000 000  0
(日)青山

9月10日
全日本高校選抜200 000 011  4
オアフ島高校選抜101 001 000  0
(日)小川

9月12日
全日本高校選抜600 201 401  14
全カワイ高校選抜000 000 000  0
(日)今岡3・山村3・青山3

この遠征での山村投手の成績は登板4試合、19回2/3 被安打9 自責点3 防御率1.38であった。


東洋大に進学した山村投手は一年春からベンチ入りした。
中継ぎと救援で活躍しそうなのは、東洋大の山村力投手(広島商出)。オープン戦では九回三分の二を投げ、被安打6、自責点ゼロの好成績である。昨年夏の選手権で、広島商がベスト4に進んだ時の主戦投手で、一七三センチ、五八キロと体はきゃしゃだが、左腕から切れのいいカーブを投げる。(『朝日新聞』昭和五十一年四月二日付朝刊:東都大学野球‐今シーズンの話題(上)

開幕カードの対駒大戦で早速二点リードされた七回から登板し2イニングを無安打に抑えると、翌日の二回戦でも救援で登板した。

昭和51年4月7日:対駒沢大二回戦
東洋大005 000 000  5
駒沢大002 000 000  2
(東)松沼・山村-達川
(駒)藤原・中後・尾藤・長島・高根沢-大宮
山村、会心の一勝
東洋大の山村は、昨年夏の満員の甲子園に比べ、約千の神宮だったが、「あがってしまった」という。
ヒジの痛みでマウンドを降りた松沼に代わって、四回から登板したものの二死から連続三つの四球を出した。「あのときが、一番苦しかった」とか。
しかし、昨夏、広島商のエースとしてベスト4へ進んだだけのことはある。曽我部を2-2から、外角いっぱいに決まる得意のカーブで、から振りの三振に仕留め、ピンチを脱した。・・・中略・・・大喜びの佐藤監督は「期待はしていたが、これほどまでやってくれるとはね。まったくよく投げた」。(『朝日新聞』昭和五十一年四月八日付朝刊)

この年の秋には初優勝を決めた対専大戦に先発し、途中で松沼投手にマウンドを譲ったものの中盤まで好投し大きく貢献した。(参考:“生中継された初優勝”)
そして、翌年二年生ながら日米大学野球の代表に選ばれたのである。代表チームの監督は駒大・太田誠監督であった。

第六回日米大学野球選手権日本代表メンバー

ポジション氏   名 所 属 学 年出身高校
総監督石井 連蔵朝日新聞社
監  督太田 誠駒沢大
コーチ五明 公男法政大
投 手尾藤 福繁    駒沢大4年 土 居
   林   良孝    東海大4年 江の川
   江川 卓    法政大4年 作新学院
   鹿取 義隆     明治大 3年高知商
   松沼 雅之東洋大3年取手ニ
山村 力人東洋大2年広島商
捕 手松川 正樹愛知工大4年大 府
中尾 孝義専修大3年滝 川
堀場 秀孝慶応大3年丸子実
内野手渡部 一治駒沢大4年今治西
山本 文博駒沢大4年八幡浜
石毛 宏典駒沢大3年市銚子
原   辰徳東海大1年東海大相模
金光 興二法政大4年広島商
中屋 恵久男早稲田大3年早稲田実
古屋 英男亜細亜大4年木更津中央
外野手山口 弘和駒沢大4年崇 徳
石井 昭男東海大4年東海大相模
植松 精一法政大4年静 岡
豊田 誠佑明治大3年日大三



投手陣は江川と、クセのある球を投げる林良、鹿取は比較的スムーズに決まったが、残る二人をめぐって難航。右投げでは堀田(専大)や石井(大東大)、左は道方(早大)上田(近大工学部)らが対象になった。しかし、アメリカ打線に有効な投手をとの太田監督の希望もあり、低めの速球を得意とする右の松沼と、タテに変化するカーブが武器の左腕山村に落ち着いた。(『朝日新聞』昭和五十二年六月十三日付朝刊)


昭和52年:第六回日米大学野球選手権(於・米国)

7月2日:第一戦
日本001 200 000  3
米国000 012 01X  4
(日)江川-中尾
(米)タツノ・ホリアー-バンゴーダー

7月3日:第二戦
米国010 000 020 000 02  5
日本000 000 102 000 00  4
(米)ボードレー・ボックスバーガー・サーモン・ベルク-ウッドサイド
(日)松沼7・鹿取0・江川0・山村2・林5-中尾

7月5日:第三戦
日本002 100 010  4
米国210 000 000  3
(日)江川7・林1・山村1-中尾
(米)ヘイズ・ベルク-バンゴーダー

7月6日:第四戦
米国000 000 000  0
日本102 000 01X  4
(米)ボックスバーガー・サーモン・ホリアー-ウッドサイド
(日)松沼-中尾

7月7日:第五戦
日本000 100 000  1
米国010 010 000  2
(日)鹿取1・山村3 2/3・林2 1/3・江川1-中尾
(米)タツノーバンゴーダー

7月9日:第六戦
米国040 011 000  6
日本001 020 000  3
(米)ボードレー・サーモン-バンゴーダー
(日)松沼4 1/3・林2/3・山村3・尾藤1-中尾・松川

7月10日:第七戦
日本001 004 000  5
米国012 003 10X  7
(日)江川3 2/3・林1 1/3・山村1・松沼2-中尾
(米)ホリアー・ボックスバーガー・ベルク-ウッドサイド

米国が5勝2敗で優勝

日本チームの投手成績

投球回防御率
江川1119 1/32019741.80
松沼1122 1/31813652.05
0210 1/398243.60
山村0110 2/353410.90
鹿取00120319.00
尾藤00110000.00



江川・松沼の速球派エースを擁した日本チームにあって、“軟投派”山村投手も第五戦の五回一死一、三塁で四球目がショートバウンドとなり一点を献上、負け投手となってしまったが、7試合中五試合に登板して防御率0点台とよく健闘した。
日本選手で予想以上に働いたのは林、山村、松沼、古屋、原らだけど、そのうち山村、松沼、古屋らは選考会で太田監督が強く推薦した選手。リーグ戦の成績は必ずしも良くなかったが、日米シリーズに通算四度出場している同監督には、米向きの選手というのがわかったのだろう。例えば、山村の縦に割れるカーブは米打者に打てないと・・・・。(『朝日新聞』昭和五十二年七月十三日付朝刊:日米大学野球を顧みて-記者対談)


一学年上に松沼、同学年に同じ左腕の鶴岡投手がいた山村投手は通算では10勝13敗に終わってしまったが、三年時には二回目の優勝を遂げた対専大戦で先発、初優勝の時と同じく途中で松沼投手の救援を仰いだものの、この試合では勝利投手となっている。
卒業後は三菱重工広島へ進み都市対抗のマウンドも踏んだ。

力投する山村投手-昭和51年、初優勝時の対専大戦=YouTube動画より
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http://www.youtube.com/watch?v=NBPj-E47m3Y


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