本日、東都大学野球で初優勝を果たした国学院大学。新聞社のウェブサイトなどでは“創部80年目”と報じられているが、『東都大学野球連盟70年史』では“大正9年”創部となっている。
ここ数年の『神宮球場ガイドブック』は“昭和6年”創部となっているので、これを基準に計算すれば数えて80年だが、昭和6年という年は東都大学野球連盟(当時は五大学野球連盟)発足の年なので、明らかにおかしい。と言うのも、国学院は東都発足の前に日大と共に六大学への加盟を申請していたからである。
東洋大の野球部は筆者が新聞の縮刷版や運動年鑑などで調べたところでは、もっとも古い試合記録は大正14年5月の“新大学リーグ戦”で東洋大のほかに国学院・専修大・日本大・宗教大(現大正大)の名が見えるが、国学院はさらに以前の大正13年10月の“都下専門校新リーグ戦”の参加校にその名が有る。国学院以外の学校は商科大(現一橋大)・専修大・東農大・東洋協会大(現拓殖大)・宗教大である。
“新大学リーグ戦”の方は幾つか試合結果も見つける事が出来たが、“都下戦門校新リーグ戦”の方は試合結果についての記事はなく、また両リーグ戦の最終結果なども判らなかった。
大正14年の秋には10月に“東都五大學聯盟戦”が行われたとの記述が『時事年鑑』に有り
となっている。
更に大正15年には“既成六大学野球リーグに対抗して起てる國學院、日本大學、専修大學、高師、東洋大學、大正大學の六チームより成れる新大學リーグ戰”(朝日新聞大正15年4月20日付)が行われ、やはり国学院が優勝。
同年の10月には国民新聞社主催の“大學専門學校野球リーグ戦が行われた。
このリーグ戦は赤・白の二つのリーグ戦を各五校で戦い、両リーグの勝者で決勝戦を行うものだった。
両リーグの内訳は
紅 組: 日本大・國學院・上智大・帝農大(現東大農学部)・高等工芸(現千葉大工学部)
白 組: 東農大・青山学院・高千穂高商(現高千穂大)・東洋大・早大高師(現早大教育学部)
であったが、紅組は国学院、白組は青山学院が優勝し、両校で二戦先勝方式の決勝戦が行われた。
11月12日
國學院大310 013 200 10
青山學院000 000 000 0
11月13日
青山學院000 110 010 3
國學院大320 003 20X 10
(東都では初優勝だが、昔は優勝ばっかりしていたのだ!)
国民新聞社主催のこのリーグ戦も一回限りで終わってしまうのだが、その後昭和に入ってから国学院は日大と共に六大学野球への加盟を申請している。
昭和5年発行の横井春野著『野球通になるまで』には
とあり、当時の朝日新聞にも小さくではあるが同様の記事が有る。
また『運動年鑑』には、“昭和四年日大・國學院大両校が東京六大学野球連盟に加盟する予備として、両大学が三校と対戦(春に國學院大が早・慶・東、日大は明・法・立と。秋にはその逆)を行った”旨の記述があり、下記のような対戦結果が記載されている。
(秋の明治-國學院、日大ー國學院は中止。また、“留守軍”とあるのは主力が遠征中の為、今で言う二軍が対戦したものと思われる。)
試合結果を見る限り、大正末期の各リーグ戦では頭一つ抜けていた感のある國學院も、六大学各校との間にはやや実力差が有ったようだ。
また、『東都大学野球連盟70年史』に引用されている昭和6年の『野球界』の記事によると、日大と国学院は八大学となった場合A・B二つのリーグに分けAの最下位とBの勝者で今で言う“入替戦”を行うことを提案していたようで、六大学側はこれに難色を示していたようだ。
最終的には二校の六大学加盟は成らず、先に引用した『野球通になるまで』の著者、横井春野の斡旋などにより、昭和6年5月この二校に専修大・中央大・農大が加わり“五大学野球連盟”がスタートする。(横井春野は当時『野球界』の主幹であったが、元々は能楽の研究者で当時専修大の講師なども務めていた。)
国学院はリーグ結成にシーズン目の昭和6年秋に日大と共に六戦全勝勝点3の成績を挙げたが、球場難から日大対国学院戦は中止となり、優勝預かりとなってしまった。リーグ戦の開始が9月2日、優勝預かりが決定したのは12月5日の事なので、一体どれだけグラウンドを探し回ったのであろう・・・。
これ以後、東都大学野球は長く日・中・専の三強時代が昭和三十年代半ばまで続く。
その意味では今回の国学院の優勝は“80年ぶりの快挙!”と言ってよいのかもしれない…。
祝初優勝:国学院大学~You Tube動画より~
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ここ数年の『神宮球場ガイドブック』は“昭和6年”創部となっているので、これを基準に計算すれば数えて80年だが、昭和6年という年は東都大学野球連盟(当時は五大学野球連盟)発足の年なので、明らかにおかしい。と言うのも、国学院は東都発足の前に日大と共に六大学への加盟を申請していたからである。
東洋大の野球部は筆者が新聞の縮刷版や運動年鑑などで調べたところでは、もっとも古い試合記録は大正14年5月の“新大学リーグ戦”で東洋大のほかに国学院・専修大・日本大・宗教大(現大正大)の名が見えるが、国学院はさらに以前の大正13年10月の“都下専門校新リーグ戦”の参加校にその名が有る。国学院以外の学校は商科大(現一橋大)・専修大・東農大・東洋協会大(現拓殖大)・宗教大である。
“新大学リーグ戦”の方は幾つか試合結果も見つける事が出来たが、“都下戦門校新リーグ戦”の方は試合結果についての記事はなく、また両リーグ戦の最終結果なども判らなかった。
大正14年の秋には10月に“東都五大學聯盟戦”が行われたとの記述が『時事年鑑』に有り
東都五大学聯盟戦―國學院、日本、専修、東洋、宗教五大學第一回戦は、十月四日より十一月六日迄下澁谷氷川裏、目白海上、大泉三球場にて随時開催、成績並得點左の如し。
(優勝)國學院大學 八戦八勝
日本大學 六勝二敗 専修大學 四勝五敗
東洋大學 三勝六敗 宗教大學 八戦八敗
となっている。
更に大正15年には“既成六大学野球リーグに対抗して起てる國學院、日本大學、専修大學、高師、東洋大學、大正大學の六チームより成れる新大學リーグ戰”(朝日新聞大正15年4月20日付)が行われ、やはり国学院が優勝。
同年の10月には国民新聞社主催の“大學専門學校野球リーグ戦が行われた。
このリーグ戦は赤・白の二つのリーグ戦を各五校で戦い、両リーグの勝者で決勝戦を行うものだった。
両リーグの内訳は
紅 組: 日本大・國學院・上智大・帝農大(現東大農学部)・高等工芸(現千葉大工学部)
白 組: 東農大・青山学院・高千穂高商(現高千穂大)・東洋大・早大高師(現早大教育学部)
であったが、紅組は国学院、白組は青山学院が優勝し、両校で二戦先勝方式の決勝戦が行われた。
11月12日
國學院大310 013 200 10
青山學院000 000 000 0
11月13日
青山學院000 110 010 3
國學院大320 003 20X 10
(東都では初優勝だが、昔は優勝ばっかりしていたのだ!)
国民新聞社主催のこのリーグ戦も一回限りで終わってしまうのだが、その後昭和に入ってから国学院は日大と共に六大学野球への加盟を申請している。
昭和5年発行の横井春野著『野球通になるまで』には
六大學リーグとは早稲田・慶應・明治・立教・帝大の六大學野球部が組織したリーグで、春秋二季にリーグ戦を行ひ、優勝チームを決定してゐる。最近日本大學、國學院が加入を希望してゐるから將來この二チームが加はれば八大學りーぐとなるわけである。
とあり、当時の朝日新聞にも小さくではあるが同様の記事が有る。
また『運動年鑑』には、“昭和四年日大・國學院大両校が東京六大学野球連盟に加盟する予備として、両大学が三校と対戦(春に國學院大が早・慶・東、日大は明・法・立と。秋にはその逆)を行った”旨の記述があり、下記のような対戦結果が記載されている。
春: | 慶 應 | 6x-0 | 國學院 | 明治留守軍 | 14x-0 | 日 大 | 國學院10-4日 大 | |
國學院 | 8x-7 | 東 大 | 立 教 | 7-5 | 日 大 | |||
早稲田 | 6x‐1 | 國學院 | 日 大 | 7-3 | 法政留守軍 | |||
秋: | 法 政 | 7x-2 | 國學院 | 慶 應 | 11x-6 | 日 大 | ||
立 教 | 10x-3 | 國學院 | 早稲田 | 10-5 | 日 大 | |||
東 大 | 5x-3 | 日 大 |
(秋の明治-國學院、日大ー國學院は中止。また、“留守軍”とあるのは主力が遠征中の為、今で言う二軍が対戦したものと思われる。)
試合結果を見る限り、大正末期の各リーグ戦では頭一つ抜けていた感のある國學院も、六大学各校との間にはやや実力差が有ったようだ。
また、『東都大学野球連盟70年史』に引用されている昭和6年の『野球界』の記事によると、日大と国学院は八大学となった場合A・B二つのリーグに分けAの最下位とBの勝者で今で言う“入替戦”を行うことを提案していたようで、六大学側はこれに難色を示していたようだ。
最終的には二校の六大学加盟は成らず、先に引用した『野球通になるまで』の著者、横井春野の斡旋などにより、昭和6年5月この二校に専修大・中央大・農大が加わり“五大学野球連盟”がスタートする。(横井春野は当時『野球界』の主幹であったが、元々は能楽の研究者で当時専修大の講師なども務めていた。)
国学院はリーグ結成にシーズン目の昭和6年秋に日大と共に六戦全勝勝点3の成績を挙げたが、球場難から日大対国学院戦は中止となり、優勝預かりとなってしまった。リーグ戦の開始が9月2日、優勝預かりが決定したのは12月5日の事なので、一体どれだけグラウンドを探し回ったのであろう・・・。
これ以後、東都大学野球は長く日・中・専の三強時代が昭和三十年代半ばまで続く。
その意味では今回の国学院の優勝は“80年ぶりの快挙!”と言ってよいのかもしれない…。
祝初優勝:国学院大学~You Tube動画より~
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