昭和九年
新大学リーグ
春のリーグ戦
5月5日
商科大16- 0工業大
拓殖大8x- 7文理大
5月6日
拓殖大21-17文理大
商科大18- 7東洋大
5月12日
商科大17-12工業大
文理大28- 1東洋大
5月16日
文理大24- 2工業大
5月19日
工業大 4- 2文理大
拓殖大26- 2東洋大
5月20日
拓殖大32-14東洋大
工業大12-12文理大
5月23日
工業大18x-16文理大
5月26日
工業大14- 5拓殖大
商科大17- 8文理大
5月27日
商科大12x‐ 2文理大
工業大7x- 6拓殖大
その後、六月七日の新聞に次のような記事が掲載されている。
これまで見てきたように昭和六年の三大学でのスタートから五校でのリーグ戦へと発展させてきた新大学野球リーグも、上記の記事のような結果となってしまった。
記事中にある新たな三大学野球連盟は筆者が見てきた限りでは、この年の秋の新聞記事に結果などを見つけることは出来なかった。昭和七年の項で触れたように、野球統制令が施行され新たなリーグを認めて貰うのは難しかったのではなかろうか。
商大は翌、昭和十年春に農大に代わって東都大学野球連盟に加盟するが、加盟後三シーズンで24連敗を喫してしまう。その為か十一年秋から農大が復帰、商大・農大の二校をBクラスとして変則二部制のリーグを行っている。
新大学リーグでは他校を圧倒していた商大のこの成績から、当時の新大学リーグのレベルを推し量ることができよう。
昭和十一年の三月には東都側から六大学連盟に対し、六大学最下位チームと東都優勝チームの対戦及び東都連盟の六大学連盟加盟、を申し入れているが、六大学側は試合数増加による学業への妨げ等の理由でこれを拒否、各校間の交渉で対抗試合を行う旨回答している。
以後、戦前の新聞記事等からは東洋大の野球に関する記事はまだ見つけられないでいる。先の大学野球選手権で優勝した際、“昭和十四年東都リーグ加盟”と紹介しているスポーツ紙などもあり、『神宮球場ガイドブック』の第一号(昭和61年春)の“東都大学野球の歩み”には
また、昭和十四年当時の新聞を見てもそのような記事はなく、むしろ一部、二部制を廃する事が取り上げられている。(この年、農大・商大の二校をBクラスとした制度を廃止している)
加入の時期が何時なのかは断定できそうにない。
*次の項「戦後編①昭和21年~昭和30年」で触れるが、戦後に再開した昭和二十一年のリーグ戦に東洋大は“東都大学野球二部”のチームとして参加しているので、現在の東都大学野球を構成している大学の中では、早期に加盟したチームであることは間違いなさそうだ。
関連記事:東都への加盟時期などについては、その後下記の記事にまとめてみましたので、宜しければ覗いてみてくださいませ。
東都はいつから二部制になったのか?~東洋大野球部の加盟時期など…。
また、拓大の事件でリーグ戦が無くなった後も野球部が存続していたのは確かなようである。『東洋大学百年史』によれば、昭和十六年にそれまで運動部などを統括していた学生組織の学友会が教職員も含む全学的な護国会へと再編されたことが記されている。これは文部省の働きかけにもよるようで修錬強化の一環でとして行われたようである。
運動関係の部は護国会の中の鍛錬本部の下に武道部・修錬部・体育部の三部が置かれ、さらにその下に各競技部が属していたようだ。
昭和十六年の護国会鍛錬本部の組織図では下記のような構成になっている。
体育部長はマラソンで世界記録も出したことのある池中康雄さんと思われる。池中さんは昭和十五年の箱根駅伝に六回目の出場を果たしているので、卒業後東洋大の職員となっていたようだ。
護国会は昭和十八年には報国団と名前を変え、鍛錬本部は体錬本部となっている。、『東洋大学百年史-資料編上』に載っている昭和十九年の報国団予算表から体錬本部の構成と予算額を見てみると
となっている。(予算の単位は円)
大学野球は各リーグとも昭和十八年から中止され、東都大学野球連盟も解散しているので、東洋大の野球部もここの頃には解散していたものと思われる。
戦前の野球部については今後も調べて随時まとめて行きたいが、併せて“戦後編”もスタートさせていく予定である。
*故植木等さんはこの表の年、昭和十九年の入学である。『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」 』によれば中学三年の時100mを11秒4を記録していた植木さんは東洋大でも陸上部に入ったが、監督もコーチもいなかったとのことだ。
参 考①
ちょっと野球の話から逸れてしまうが、戦前の新聞を見ていて偶々見つけた陸上部に関する記事を二つ紹介しておきたい。
一つは昭和十四年の下記の記事である。
この記事の続報は見つからなかったが、『東洋大学百年史』によると、「四選手一団となって街道をひた走り、八月七日午後一時、十六日間で最後のゴール靖国神社に到達した」とある。
更に翌十五年七月には次のような“奉祝継走”を行っている。
耐熱マラソンについて調べてみたところ、昭和十年八月に「第一回耐熱短縮マラソン」という競技が六郷橋~神宮間21キロのコースで行われており、学生の部では明大の南昇竜という選手が1時間12分47秒のタイムで優勝している。東洋大勢で井坂という選手が五位に入っていた。但し、結果を伝えるの記事によれば「この日気温低く競技の意味をなさなかった」そうだ。
また、奉祝継走については昭和十五年の紀元二千六百年の年に、例年秋に行われていた明治神宮競技大会に合わせ十月初めから十一月三日までの期間に全国の道府県庁所在地から明治神宮までに四つのコースを設定し、沿道の住民の選ばれた人たちが駅伝形式で各道府県代表者の奉祝文を伝える、という競技ではなく行事として行われた。
東洋大ではこれとは別に独自で“耐熱マラソン”と“奉祝継走”に取り組んだようだ。時代が違うとはいえ東洋大の先人がこのように壮大な取り組みを成し遂げていたことは是非記憶に留めておきたいものである。
*池中康雄さんについては陸上部応援サイト「輝け鉄紺」の中の「池中康雄伝説」に詳しく紹介されています。
関連記事
昭和10年にマラソンの世界最高記録を出した池中康雄さんの東洋大学在学年について
参 考②
(この記事が気に入った方はクリックして頂ければ幸いです)
新大学リーグ
春のリーグ戦
5月5日
商科大16- 0工業大
拓殖大8x- 7文理大
5月6日
拓殖大21-17文理大
商科大18- 7東洋大
5月12日
商科大17-12工業大
文理大28- 1東洋大
5月16日
文理大24- 2工業大
5月19日
工業大 4- 2文理大
拓殖大26- 2東洋大
5月20日
拓殖大32-14東洋大
工業大12-12文理大
5月23日
工業大18x-16文理大
5月26日
工業大14- 5拓殖大
商科大17- 8文理大
5月27日
商科大12x‐ 2文理大
工業大7x- 6拓殖大
その後、六月七日の新聞に次のような記事が掲載されている。
新大學野球聯盟分裂
拓大應援團の暴行が因
去る五月廿七日北町球場で行われた工大對拓大野球戰は七對六で工大の勝ちとなったが、試合終了後極度にエキサイトした拓大應援團は審判の不公平を叫んでグラウンドに亂入し、工大選手を取り圍んで押し問答の末一壘手井田君外一名を棍棒で横打(ママ)して昏倒せしめ全治二週間の重傷を負わせた、同聯盟ではこの處置に関して六月三日一ツ橋如水會館に幹事會を開催、種々協議の結果東洋大學幹事は拓大に對して脱退を勧告した所、拓大側憤慨して同幹事を毆りつけ重なる暴行沙汰で新大學野球聯盟は遂に分裂する事となり、その後商、文、工の三大學によって新たに三大學野球聯盟が結成され、今秋リーグ戰を擧行する事となった。(『朝日新聞』昭和九年六月七日付朝刊)
これまで見てきたように昭和六年の三大学でのスタートから五校でのリーグ戦へと発展させてきた新大学野球リーグも、上記の記事のような結果となってしまった。
記事中にある新たな三大学野球連盟は筆者が見てきた限りでは、この年の秋の新聞記事に結果などを見つけることは出来なかった。昭和七年の項で触れたように、野球統制令が施行され新たなリーグを認めて貰うのは難しかったのではなかろうか。
商大は翌、昭和十年春に農大に代わって東都大学野球連盟に加盟するが、加盟後三シーズンで24連敗を喫してしまう。その為か十一年秋から農大が復帰、商大・農大の二校をBクラスとして変則二部制のリーグを行っている。
新大学リーグでは他校を圧倒していた商大のこの成績から、当時の新大学リーグのレベルを推し量ることができよう。
昭和十一年の三月には東都側から六大学連盟に対し、六大学最下位チームと東都優勝チームの対戦及び東都連盟の六大学連盟加盟、を申し入れているが、六大学側は試合数増加による学業への妨げ等の理由でこれを拒否、各校間の交渉で対抗試合を行う旨回答している。
以後、戦前の新聞記事等からは東洋大の野球に関する記事はまだ見つけられないでいる。先の大学野球選手権で優勝した際、“昭和十四年東都リーグ加盟”と紹介しているスポーツ紙などもあり、『神宮球場ガイドブック』の第一号(昭和61年春)の“東都大学野球の歩み”には
連盟が六校の形態をとるに至ったのは昭和14年春以降で、同年には、慈恵大、文理大、工大、東洋大、上智大など加盟の増加をみて、一部六校、二部五校と分け、一部、二部の入替戦を行ったとあるが、『東都大学野球連盟七十年史』(平成13年発行)ではその辺ははっきりとは書かれていない。加盟校の変遷をあらわす表で昭和十四年に加盟校が十一校に増えているが、詳細は当時の資料が戦災などで失われているようで連盟でも把握できないようだ。
また、昭和十四年当時の新聞を見てもそのような記事はなく、むしろ一部、二部制を廃する事が取り上げられている。(この年、農大・商大の二校をBクラスとした制度を廃止している)
加入の時期が何時なのかは断定できそうにない。
*次の項「戦後編①昭和21年~昭和30年」で触れるが、戦後に再開した昭和二十一年のリーグ戦に東洋大は“東都大学野球二部”のチームとして参加しているので、現在の東都大学野球を構成している大学の中では、早期に加盟したチームであることは間違いなさそうだ。
関連記事:東都への加盟時期などについては、その後下記の記事にまとめてみましたので、宜しければ覗いてみてくださいませ。
東都はいつから二部制になったのか?~東洋大野球部の加盟時期など…。
また、拓大の事件でリーグ戦が無くなった後も野球部が存続していたのは確かなようである。『東洋大学百年史』によれば、昭和十六年にそれまで運動部などを統括していた学生組織の学友会が教職員も含む全学的な護国会へと再編されたことが記されている。これは文部省の働きかけにもよるようで修錬強化の一環でとして行われたようである。
運動関係の部は護国会の中の鍛錬本部の下に武道部・修錬部・体育部の三部が置かれ、さらにその下に各競技部が属していたようだ。
昭和十六年の護国会鍛錬本部の組織図では下記のような構成になっている。
鍛錬本部長 北浦 藤郎
武道部長 四元 義正
幹 事 伊藤 博 兼重 信義
補佐幹事 高山 明(柔道部) 武山 弘(弓道部)
中村 薫(空手部) 益山 猪三郎(剣道部)
金川 弘雄(相撲部)
修錬部長 黒川 太郎
幹 事 広井 金吾 上崎 義郎
体育部長 池中 康雄
幹 事 岩本 栄一 田川 員一
補佐幹事 森 寿一(陸上競技部) 飯田 教一(排球部)
金 在鎬(庭球部) 児子 英一郎(野球部)
金 善沢(蹴球部) 田川 員一(徒歩部)
姜 声甫(籠球部) 関口 恒由(水泳部)
藤井 智正(卓球部) 金沢 武光(体操部)
*『東洋大学護国会規則』によれば「本部長・部長ハ教職員中ヨリ、幹事及補佐幹事ハ学生々徒ヨリ会長之ヲ任命ス」とある。
以上、『東洋大学百年史-資料編上』より。
体育部長はマラソンで世界記録も出したことのある池中康雄さんと思われる。池中さんは昭和十五年の箱根駅伝に六回目の出場を果たしているので、卒業後東洋大の職員となっていたようだ。
護国会は昭和十八年には報国団と名前を変え、鍛錬本部は体錬本部となっている。、『東洋大学百年史-資料編上』に載っている昭和十九年の報国団予算表から体錬本部の構成と予算額を見てみると
自 昭和19年4月 1日
至 昭和20年3月31日
体錬本部 4,800
[武道部] 1,200
柔道部 350
剣道部 350
弓道部 150
相撲部
空手部 350
[国防部] 3,200
射撃部 500
銃剣道部 500
馬術部 400
海洋部 600
機甲部 600
航空部 400
ラッパ部 100
国防研究部 100
[練成部] 400
陸上競技部 100
体操部 100
水泳部 100
(備考)予算編成方針
(1)体錬本部ニ重点ヲ置ク。
(2)就中国防部ハ時局下最重点的部ト認ム。
となっている。(予算の単位は円)
大学野球は各リーグとも昭和十八年から中止され、東都大学野球連盟も解散しているので、東洋大の野球部もここの頃には解散していたものと思われる。
戦前の野球部については今後も調べて随時まとめて行きたいが、併せて“戦後編”もスタートさせていく予定である。
*故植木等さんはこの表の年、昭和十九年の入学である。『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」 』によれば中学三年の時100mを11秒4を記録していた植木さんは東洋大でも陸上部に入ったが、監督もコーチもいなかったとのことだ。
参 考①
ちょっと野球の話から逸れてしまうが、戦前の新聞を見ていて偶々見つけた陸上部に関する記事を二つ紹介しておきたい。
一つは昭和十四年の下記の記事である。
耐熱マラソン
皇軍兵士の武運長久を祈願し併せて事變下における學徒の體位向上不撓不屈、確固不抜の精神を涵養すべく東洋大學競技部では折柄の炎暑をついて青森、東京間八百キロの皇軍将士武運長久祈願耐熱マラソンを擧行することゝなった。
選手は嘗て2時間26分44秒の世界最高記録を出したマラソンの猛者池中康雄君を始め武智徳令、朴鉱采、石本三郎の四君で二十三日午前七時青森市善知島神社前を出發、一日四、五十キロの豫定で岩手、宮城、福島、栃木、埼玉、東京と七府縣を驅け通し十六日目の八月七日午後一時頃靖國神社前のゴールに到着する豫定である。(『朝日新聞』昭和十四年七月十九日付朝刊)
この記事の続報は見つからなかったが、『東洋大学百年史』によると、「四選手一団となって街道をひた走り、八月七日午後一時、十六日間で最後のゴール靖国神社に到達した」とある。
更に翌十五年七月には次のような“奉祝継走”を行っている。
洋大奉祝駅傳
宮崎-橿原-東京間
東洋大學陸上競技部では紀元二千六百年奉祝記念事業として夏季休暇を利用し宮崎-柏原-東京間約二千五百キロの駅傳走破を決行、期日は廿五日から八月七日に至る二週間で参加十走者が毎日一區間づつリレーする。(『讀賣新聞』昭和十五年七月十四日付朝刊)
東洋大學奉祝繼走終る
東洋大學陸上競技部主催の宮崎、橿原、明治神宮間奉祝繼走は七日朝平塚から東京に向けて最後の走者が出發、午後一時二十八分無事品川神社前に到着したが、此處で汽車によって先着した池中、武智、石本、高岡、安城、高瀬、金光、渥美、小川、原の全選手が打ち揃ひ、共に走って日枝神社に参拝した後午後四時明治神宮に到着大繼走を無事終了した。(『朝日新聞』昭和十五年八月八日付朝刊)
宮崎東京間驛傳ゴール
・・・この驛傳は七月廿五日宮崎神宮八紘塔を出發各地區を十選手で分割して走破したもので最終日の七日平塚を午前八時出發し品川にて全選手勢揃いし午後四時明治神宮到着、宮司の修祓を受け行軍武運長久祈願の○を獻納した。(○は判讀できず。”額”と思われる)(『讀賣新聞』昭和十五年八月八日付朝刊)
耐熱マラソンについて調べてみたところ、昭和十年八月に「第一回耐熱短縮マラソン」という競技が六郷橋~神宮間21キロのコースで行われており、学生の部では明大の南昇竜という選手が1時間12分47秒のタイムで優勝している。東洋大勢で井坂という選手が五位に入っていた。但し、結果を伝えるの記事によれば「この日気温低く競技の意味をなさなかった」そうだ。
また、奉祝継走については昭和十五年の紀元二千六百年の年に、例年秋に行われていた明治神宮競技大会に合わせ十月初めから十一月三日までの期間に全国の道府県庁所在地から明治神宮までに四つのコースを設定し、沿道の住民の選ばれた人たちが駅伝形式で各道府県代表者の奉祝文を伝える、という競技ではなく行事として行われた。
東洋大ではこれとは別に独自で“耐熱マラソン”と“奉祝継走”に取り組んだようだ。時代が違うとはいえ東洋大の先人がこのように壮大な取り組みを成し遂げていたことは是非記憶に留めておきたいものである。
*池中康雄さんについては陸上部応援サイト「輝け鉄紺」の中の「池中康雄伝説」に詳しく紹介されています。
関連記事
昭和10年にマラソンの世界最高記録を出した池中康雄さんの東洋大学在学年について
参 考②
東洋大の壮行卒業式
東洋大學の假卒業式證書授與式と出陣學徒壮行會は廿八日午前八時卅分から同校講堂で行われた。國民儀禮、勅語奉賛ののち出陣學徒代表安田守一(文學部三年)君に假卒業證書を授與、高島學長の諄々たる訓示、加藤教授代表の激励の講などあって授與式を終了。
九時から壮行會にうつり、原町町會員、京北中學、本郷十佳女子職業校、京華高女生徒など数千名の盛大な激励の中に堂々校門を出發、宮城前において遥拝各自米英撃滅を誓って壮行會を終った。
(『讀賣新聞』昭和十八年十一月二十日付朝刊より)
*本郷十佳女子職業校は現文京学院大学女子高
(この記事が気に入った方はクリックして頂ければ幸いです)
テーマ別インデックス | 「資料編」 :通算本塁打・投手勝敗・開幕カードスタメンなど |
---|---|
「記録」:個人記録についての話題 | |
「戦前」:新聞記事で拾った戦前の記録 | |
「動画」:神宮で生観戦した際の動画 | |
「エピソード」 | |
「人物」 |